第65話 外堀を埋める才能を持って生まれてしまった男①


 ──カチカチ、カチカチ


 この雰囲気は久しぶりだ。


 狭い部屋で複数人が真剣にパソコンに向かっている。

 今は俺もその中の一人。画面に表示される問題を無我夢中で解いていく。


 知らない人と馴染みない部屋。このような環境で試験を受けるのは大学受験以来だ。緊張する。


(あぁー、クソ、酒飲みたくなってきた)


 話は全く変わるが、人間には日本酒が急に飲みたくなる事がある。熱々で香りの立った辛めの清酒をおちょこでキューーっとやるのだ。……つまみはカニ味噌、もしくはあん肝がいいな。


 俺にはこういう所があった。真面目な雰囲気になるほど、酒が飲みたくなるのだ。


(……受かるだろうか)


 震える手を見て、そう思う。真面目に勉強していたが、凄く不安になってきた……。


************************************************************


 試験を終え、俺は酒を飲むために早々に帰宅した。


 先ほど魚介系のつまみに思いを馳せたが、今日の昼飯はたこ焼きだ。目の前のカセットコンロの上で、カリカリと生地が焼けている。


 近年、たこ焼きが酒の肴として台頭してきていると俺は思っている。実際にたこ焼き屋でアルコールを提供している所は増えた。世間が酒とたこ焼きとの相性の良さに気がついたのだろう。


 熱々でトロトロの生地を、ビールかハイボールでキメたら大勝利。人生においてこれほど幸せな時間はない。


「ご、合格してしまった」


 そんな美味そうなたこ焼きを前にして、俺はスマホに表示された合格の証明書を眺めて震えていた。手が震えているのではない。ちょっと感動して全身が戦慄わなないているだけだ。


「やるじゃないか、陣内君。おめでとう」


 西代が俺のコップにシュワシュワでキンキンのビールを注いでくれる。


「せ、せんきゅ」


 俺は震える手でそれを握り、1月半ぶりに胃へと流し込んだ。


「────う゛ぇ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「う、うるさーっ」


 俺の脳内に広がる黄金色の麦畑。太陽がサンサンと脳に降り注ぐ。もはや絶頂と同等の快楽が俺を包み込んだ。


「あ゛あ゛!! うっっっめぇ!!」


 ビールは最初の一杯が一番美味い。それと1月半ぶりの飲酒と資格取得。全てが合わさって最強だ。涙が出てきそうになる。


「……今日が今年で一番幸せな日かもしれない」

「まったく、陣内君は大袈裟だね。たしかに試験に合格したのはおめでたいけど、君が受かったのはそこまで難易度が高いものじゃなかったはずだよ」


 西代の言うとおりだ。俺が合格したのは情報系の資格の中では一番下だ。しかし……。


「だって俺、資格に合格したのって小学校の漢検ぶりなんだよ」

「アハハハー!! 馬鹿だもんねー、陣内!!」


 猫屋がラキストを3本吸いしながら俺を罵倒してくる。彼女も俺と同じで禁酒禁煙は今日で終了だ。眩しい笑顔で濃い煙を満喫していた。


 だが、いくら紙巻を吸うのが久しぶりだからといって、3本同時はヤベーだろ。


「うるせ。お前も頭の出来できは俺と同じくらいだろうが」

「…………私達って、似てなくていい所まで似てるよねー」

「……確かにな」

「まぁ、でも今回は頑張ったじゃないか。素直に感心したよ」

「だねーー!! おめでとー、陣内!!」

「……ありがと」


 素直にお礼を言って、熱々のたこ焼きを頬張る。

 

「自分で作っといてなんだが、凄い美味い……」


 試験勉強で忙しかったが、生地は俺が作ってあった。ちゃんと和風だしが効いている。


「そうだね。君の作るご飯はいつだって美味しいよ」

「へへっ、ありがとよ」


 あぁ、今日は本当に気分がいい!! 自尊心がグングンと回復している気がする!! アルコールも回って有頂天!! なんて幸せな休日なんだ!! 


「ところでさ、陣内君」

「ん?」

ふとった?」


 直後、俺の自尊心は直角に急降下した。


「……………………ま、マジ?」

「あー、確かに、ちょっと顔丸くなったよーな?」


 猫屋がさらに追い打ちを掛けてくる。


「ば、馬鹿な。入院して俺の体重は落ちていたはず……」

「普通にリバウンドしたんだろうね。退院してからずっと、ご飯を山盛りにして食べてたじゃないか。夜食とかも取ってたしさ」

「…………」


 たしかに、勉強の合間にポテチとか食べてました……。


「俺が……太った……だと……?」


 厳しすぎる現実を受け入れる事ができない。俺は生まれてこの方、太った事など無かった。陸上部だったので当たり前だ。大学に入学するまでは腹筋だってちゃんと割れていた。……今はもう脂肪の奥に引っ込んでいるけど。


 思えば、大学に入ってからは特に運動はしていない。それなのに、俺はほぼ毎日晩酌をしていた。ビールを飲まなかった日の方が少ないくらいだ。1年近くの蓄積が、バイトという最低限の運動を止めた事によって表面化してしまったのだろうか。


「……いや、そもそも、俺だけが太るっておかしくないか?」


 俺は当然の疑問にぶち当たる。食べている物はみんな一緒だ。酒も全員がよく飲んでいる。それに女の方が男よりも太りやすいと聞く。


 というか、こういうのは普通、女の方のイベントだ!!


「えー、私が太るわけないじゃーん。体重管理とかプロの領域だよー? 食べすぎた後はたまに走ったりするしー」

「……まぁ、猫屋はそうだろうな」


 階級制スポーツの最前線に居たであろう猫屋は、ボディメイクの達人と言っても過言ではない。事実として、彼女のスタイルは凄い。クビレと細い足がモデル級の破壊力を有している。


「でも、他2人は猫屋と違って体重管理とかしてないだろ」

「僕は飲む方のキャパシティはあるけど、食べる方は小食だ」

「……言われてみればそうだな」

 

 女性は色々な物を少しずつ食べたい、と言うが西代はまさにそれに当てはまる。箸やフォークを綺麗に使い、小さな口でパクパクと雑多なご飯を食べている時が一番幸せそうだ。偏見かもしれないが、胃が小さい人の食べ方。摂取する栄養は俺らの中では一番少ないだろう。


「それにバイトがあるから運動をしていない訳じゃない」

「っぐ……それなら、はどうなんだよ?」

「…………」


 流麗で薄赤い、女性らしい長髪。幼さを残す性格とは真逆の豊かな胸元。無敵の美貌を誇る我が家の最強問題児、安瀬。


 彼女は俺の声に反応せず、カセットコンロの火をボーっと眺めていた。


「おい、安瀬?」

「…………ん、あれ? 陣内、呼んだでござるか?」

「なんだ、聞いてなかったのかよ。お前はなんで太らないんだよ?」


 安瀬は健啖家だ。見ていて元気が貰えそうなほど、よく食べて飲む。……自分が作った物を夢中で食べてくれるのはかなり嬉しい。でも、そんな安瀬のスタイルが変わらないのは納得できない。


「あぁ、なんじゃ。そんなことか」


 どうでもよさそうな顔をして、彼女は自身の胸部に目をやった。


「我は食った物は全部こっちにいくでありんす」


 そう言い、安瀬は自分の乳房を手で少し持ち上げてみせる。


「や、やっぱり凄いな、お前。目に見える別腹を持ってんのかよ……」


 驚愕の事実だ。本当に同じ人間だろうか。


「はぁ、男の浅はかな意見であるな。これはそんな便利な物ではない。肩が凝ってうざいだけでありんす」

「「…………ふぅん?」」


 安瀬の発言に、女子2名が不機嫌そうな声を上げた。


「安瀬ちゃーーん…………覚悟しろオラーーーー!!」

「ぅえ!? 猫屋!?」


 咆哮と共に、ネコ科の猛獣が安瀬に飛び掛かる。猫屋は恐るべき手際の良さでマウントポジションを取り、安瀬の脇をくすぐり始めた。


「ぐっ、げひゃひゃ!? くひゅひゅ……!? 猫屋、や、やめるでござりゅっ!!」

「今の発言は僕でもカチンときたよ。反省するんだね、安瀬」


 そこに何故か西代も加わった。


「ほーら、ここがいいのー? ここがいいのかなーー?」

「乳がデカいと脇の下って敏感になるのかい? ちょっと検証させてよ」

「ふひゃひゃ!! に、西代!! どこ触って、アハハハハ!!」


 ジタバタと悶え笑う安瀬と、悪魔の微笑を浮かべて上半身を責める2人。


「…………」


 俺は姦しい酒飲みモンスターズを無視し、瓶ビールを直接咥えて、中身をグイっと煽った。


 楽しそうで何よりだが、そういうのは俺のいない所でやって欲しい……。別に興奮はしていない。だが、目のやり場にちょっと困る。


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「ひぃ……ひぃ……」


 笑い疲れた安瀬が痙攣しながら荒い息を吐く。実に無様だ。


「ふぅーー!! いっちょ上がりーー!!」

「不用意な発言はこれから控えるんだね」

「わ、悪かったでそうろう……」


 くすぐり職人達は、一仕事終えたと言わん様子で自分の席へと戻った。


「はぁ……けど、どうするかなぁ」


 俺は目の前で起きた騒動をスルーして、ため息をついた。


 太る。それはちょっと勘弁して頂きたい。


 俺は幸運な事に見目美しい彼女達と一緒に暮らしている。思慮深さと品格では俺の圧勝だが、容姿だけは逆立ちしても勝てそうにない。現状でさえ、とても分不相応。大学に行けば周りの目もある。一緒にいるなら、清潔感と最低減の身嗜みは必要だ。でないと、彼女達が馬鹿にされかねない。


「ジムにでも通ったらどうだい?」

「そんな金ねぇよ……」


 今は親の仕送りで生活をしている。衣食住ならともかく、親の金でジムに通う気にはなれない。


 ……仕方ない。シューズと反射タスキでも引っ張り出してきて、夜中に走るか。酒は暫くの間、糖質が含まれるものは避けよう。


「あぁーー……」


 憂鬱な気分でダイエットプランを組み上げていると、猫屋が間の抜けた声を上げた。


「…………実は、1か所だけあるんだよねー……ここから結構近くてー、恐らく格安で使える運動施設がさー……」

「え、マジで?」

「私の古巣ふるすがさー、電車で20分ほどの所にあるんだー」

「ふぅー……ふぅー……古巣ふるすというのは……」


 疲労困憊状態だった安瀬がむくりと起き上がり、猫屋の方を向く。


「お主が空手の稽古をしていた場所でござるか?」

「うん。私が高校を卒業してからお世話になってた所。修練場の他にも、普通のフィットネスジムみたいな機材が置いてあって結構便利だったんだよねー」

「へぇ、それは凄いな」


 思い出せば、猫屋の母親が経営するキックボクシングジムにもウェイトトレーニングの機材が置いてあった。格闘技を教えてくれる所には置いてあるものなのだろう。


「たぶん、私が言えばタダで使わせてもらえるよー。陣内さえ良ければー、私が話を通しておくけどー?」

「……それはちょっと凄すぎないか?」


 いくら古巣ふるすといえども、そこまで融通が利くというのは変な気がする。


「もしかして、お前の実家の系列店とかなのか?」

「あぁー、まぁ、そんな感じー」


 猫屋はあからさまに俺の疑問を煙に巻いた。


 …………何か言いたくない事でもあるのか? でも激しい運動ができる場所を提供してもらえるのは正直、ありがたいな……


「じゃあお願いしてもいいか?」

「おっけーー!! それじゃあ明日は健康的に汗を流すって感じでーー!! あ、2人はどうするー? お金はかからないし、一緒にどーう?」

「……我は明日、バイトがある。せっかくのお誘いで悪いが遠慮するぜよ」

「あー、そっか。ざんねーん」

「僕は休みだからついていこうかな。馴染みの無い場所だから興味がある。それに、陣内君みたいにアル中のデブになったら困るしね」


 今なんて言いやがった!?


「おい!! 誰がアル中のデブだ!! まだそこまで太ってないだろうが!!」

「いやー、分かんないよー? 陣内の飲酒量なら、あっという間にブクブクになっちゃうかもー」

「……ふふっ。で、あるな!! そうならんように、キチンと脂肪を燃焼してくるでござる!!」

「ぐぬぬ……お前ら、今に見てろよ……」


 ここまで馬鹿にされたら、後に引けない。やってやる……!! 腹筋が割れるくらいまでバキバキになってやるからな!!


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 そうして、翌日の日曜日。

 俺と西代は、猫屋の案内の元、3階建ての大きなビルの前に立っていた。


 花園はなぞの総合フィットネスジム、と書かれた大きな看板が掲げられている。


「…………花園はなぞの?」


 猫屋ではなく、花園はなぞの


 はなぞの、花園はなぞの、はなぞの……なんか聞き覚えがあるな。


「ここって結構凄いんだよー!! 1階は普通のフィットネスジムでー、2階は武道場、3階は柔道とかブラジリアン柔術のフロアで、地下にはバカデカい鏡とボクシングのリングがあるんだーー!!」

「……なんだ? その格闘技の遊園地みたいな施設は?」

「作った人間が頭おかしいからねーー」

「たしかに、ちょっとおかしいかもね……でも凄い繁盛してるように見えるよ」


 ビルのガラスからは中の様子が見えた。大人数の人が重りを持ち上げたり、道着を着て修練に励んでいる。


「というか、猫屋。お前、ココの経営者と知り合いなの──」

「よく来てくれたぁッーー!!」

「ん? うぇ!?」


 爆音の声量と共に、何者かに背後からガシッ!! と掴まれた。


「なるほど。上半身はそれほどでもないが、下半身は悪くない」

「は!? うぉ!? なんだ!?」


 見た事ないほど大きな手が、俺の全身を揉みしだいていった。


 ゾワゾワとした生理的嫌悪感が身体中を駆け巡る。半狂乱のままに暴れて手を払おうとしたが、何故か体がビクともしない。


「おい!? やめっ、やめろよ!!」

「じ、陣内君!?」

「ふんふん、ハムストリングの隆起が良い。この肉のつき方は陸上の短距離走か。いいぞぉーー、一瞬で相手との距離を詰められる下地ができて──」

「いきなり何やってんだ、馬鹿ぁーーッ!!」


 俺の背後に出現した不審者に向かって、猫屋が躊躇せずに左拳を振り抜いた。


「よっと」


 猫屋の左は、俺の目には予備動作くらいしか捉えられないほどのハンドスピードで放たれた。しかし、不審者は片手でそれを難なく払い落す。


「左とはいえ、随分と軽いな。鈍ったね、李花りかちゃん」


 猫屋の打撃を防いだことによって不審者が俺の背後から離れ、その全容が明らかになる。


「うわっ」


 身長は190以上、体重は100キロを超えそうな超大男。どうやって俺の背後に音もなく忍び寄れたのか不思議なほどの巨体。クマとほぼ一緒だ。容姿はその風貌を際立てるように厳つい。その威圧感に、思わず声が漏れてしまったほどだ。


「……っち」


 猫屋は、そのクマのような大男に対して忌々しそうに舌打ちを出した。


「あのさーー、

「「お父さん!?」」


 西代と一緒に、驚愕の声を上げた。目の前の猫屋と、その大男が似ても似つかなかったからだ。


 と、というか、思い出した。花園はなぞのとは猫屋の旧姓であり、離婚した父親の性だった。


「私、お父さんは出てくんなって言ってなかったけ? 他のインストラクターを寄こしてって、たしかに言ったよね? 筋トレのやりすぎで、脳みそまで筋肉になっちゃった?」


 猫屋の緩い口調が鳴りを潜めていた。纏う雰囲気が刺々しい物に変わっている。


 これはかなり怒っているぞ……。


李花りかちゃん。俺は親にそんな口を利く子に育てた覚えは──」

「私を育てたのって、大半がママなんですけどー?」

「…………」

「昔やってた自動車整備の事業が失敗したからって、ママとやっちゃいけない類の喧嘩して離婚した人にー、どういう口を利いていいかー、私、分かんなーい」

「…………………………」

「なーんで出来もしない事業に手を出すかなー? 初めからジム開いてたらよかったのにー。ママと似たような仕事はプライドが許さなかったかにゃー?」

「……………………………………………」


 ずぅぅぅぅん、という効果音が感じられるほど、猫屋のお父さんはガックリと項垂れた。その巨体が小さく見えるくらい、背を丸めている。


「お、おい、猫屋。親に向かってそんなこと言うなよ」


 あんまり他家の事情に踏み入っちゃいけないとは思う。猫屋だって苦労しただろうし重めの罵倒も、まぁ仕方ないはず……でも肩身の狭い男親を見て憐憫の情が湧くのは男のあるあるだ。痛々しくて、見ているだけできっつい。


「…………まぁ、言いすぎたけどさー。いきなり友達の体を弄られたら、私だって怒るってー」


 あ、うん。そこはもっと怒ってくれていい。普通に気持ち悪かった。


「いや、でも李花りかちゃん。成人を過ぎてから格闘技を始めるなら、最初に適性を見ておくことは重要な事で……」

「え? 格闘技を始める?」

「ん? あれ? 今日は俺に空手を習いに来たんじゃないのか?」


 そういえば、なんか花園さんに『直弟子にしてあげる』とか言われて呼び出されてたな。完全に忘れてた。


「あ、いえ、今日はダイエット目的で来ました。…………改めて初めまして。猫屋さんと同じ大学に通っている陣内梅治です」


 忘れていたといえば、いきなりの事態で動揺して挨拶さえ忘れていた。俺は急いで背を丸めて、猫屋の父親に対して深く頭を下げた。


「あ、僕は西代です。陣内君と同じで、今日はお世話になります」


 西代も俺と同じように頭を下げる。


「あーー、そういう感じだったか」


 花園さんがポンっと手のひらを叩いて見せる。どうやら、情報の伝達が上手くいっていなかったようだ。……というか、風貌と違って随分と口調が軽いな。猫屋の緩い口調は父親譲りか。


「……李花ちゃん、どうしよう。お父さん、彼氏君と一緒に趣味で空手をまた始めると勘違いしてたから……」


 そう言って、花園さんは背後のビルの2階を指差した。


「サプライズで李花ちゃんのお友達とかに声かけまくってしまった」


 花園さんの指先には、ビルの大きな窓ガラス。そこからは、道着を来た女性達の手を振る姿が見えた。


「うわ!! え、えぇーー!! ま、マジで皆いるじゃん!! な、懐かしいーー!!」


 それを見た猫屋は、不機嫌な表情を一気に明るいものへと変化させた。


「猫屋、あの人達は?」

「高校の友達!! 皆、一緒の空手部だったんだー!!」

「急な話だったのに、こんなに大勢集まってくれるとは俺も思ってなかった」


 花園さんは、娘の人望があることが嬉しいのか満足気に頷いた。


「うわー、お父さんって基本的に余計な事しかしないのにーー!! 今日は凄いじゃーーん!! わ、私、ちょっと感動しちゃったーー!!」

「ぐ、ぐへへーー、そうか?」


 猫屋は朗らかに笑ってビルに向かって手を振った。光り輝く高校時代を思い出しているのか、テンションが一気に跳ね上がっている。


「ナツちゃんとか、クミちゃんもいるーー!! えーー!! マジで久しぶりーー!!」

「「…………」」


 猫屋の爛々らんらんとした様子を見て、俺と西代は顔を見合わせた。


「ねぇ、陣内君」

「あぁ、そうだな」


 意思の疎通はその一言だけで取れた。


「猫屋、僕達のことは良いから昔の友達と遊んできたらどうだい?」

「だな。俺たちは1階のフィットネスジムを使わせてもらうから」


 俺たちは猫屋と別れて運動させてもらう事に決めた。


「え、えぇー、でもー、それは2人に悪いよーな……」

「気にすんなよ。それに、機材の扱いはちゃんと分かってるし問題ない」


 俺は軟派だった浪人時代、モテるためにジムに通っていた。その為、重量物の扱いはだいたい分かっている。


「そ、そーお? じゃあ、久しぶりに皆とサバキでもしようかなーー、えへへ」

「……………」


 猫屋が嬉しそうに笑ったその瞬間、何故か花園さんにガシッと肩を掴まれた。


「うぇ!? 今度はなんですか!?」

「イイ。イイよ、陣内……いや、梅治」


 グイっと巨体が俺に迫る。距離の縮め方が2つの意味で早すぎて意味が分からなかった。


「強さ以外は、私が理想としていた義理の息子だ」

「え、は?」

「来週からここに通いなさい。もちろん月謝は取らないから」

「え、あの」

「地上最強の親子喧嘩とか憧れてたんだ。義理の息子だけど、この際それはいい。なぁに、3年もあれば立派な格闘家としてプロデビューをさせてあげるから。打投極だとうきょくの全部を詰め込んで最強の息子を──」

「恥ずかしいから止めろ格闘技バカーー!!」


 猫屋が再びキレて、花園さんに飛び掛かる。


「うぐぉ!?」


 父が娘におぶさるように、猫屋はバックを取った。猫屋の細腕が、花園さんの太い首に差し込まれる。


「うぇ────ぐふ」


 1秒後、大きな巨体がバタンと崩れ落ちた。


「よぉーーし、落ちたっと。まったくー、ちょっと見直したと思ったらコレなんだからーー」


 片手での綺麗な裸締めが決まり、地上最強の親子喧嘩の決着が付いた。


「これはこっちで処理しておくから、2人は気にせずに運動してきてねーー!!」

「あ、うん」


 実父を締め落したにもかかわらず、猫屋の様子はいつもと何も変わらなかった。


「悪いね、猫屋。そうさせてもらうよ……でもお父さんのキャラ、濃いね……」


 俺もそう思う……それに加えて、俺が娘の彼氏だと完全に勘違いしていた。後でちゃんと訂正しておかないと……。


「あぁー、まぁ一応、尊敬できる人で人格者なんだけどねーー。空手4段、柔道2段、ブラジリアン柔術3段。今はジムを運営しながら私の母校で外部指導員してるぐらいだしー……」

「……それを気絶させたお前も凄いな」

「えぇー? ふふっ、そうかなー?」


 猫屋は恥ずかしそうに照れて笑う。不意打ちであろうが、父親に勝てたのが少し嬉しいのかもしれない。


 たぶん、殴り愛の絶えない親子関係だったんだろう。人のお家事情は様々だろうが、猫屋ほど特異な家も珍しいな……。


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「ふぅ……ふぅ……」


 ぐっぐっと、流れる地面をしっかりと踏みつけて走る。


 俺は重量物に手を出す前にアップとしてランニングマシンを使っていた。速さは心肺に少しだけ負荷が掛かるように調整してある。なのでそこまで辛くはない。


「ぜぇ……ぜぇ……けど、やっぱり猫屋って陽キャだった……んだね……!!」


 隣の西代はすごーく辛そうだけど。


「……そうだな」

「僕は、はぁ……ひぃ……!! いんの者、だったから、ちょっと、羨ましいよ……!!」


 まだ走り出して10分くらいしか経っていない。なのにコレだ。西代は俺の運動不足を絶対に笑えない。ちょっと体力が無さすぎる。


「お前はいんというより魔の者だろ」

「うるさい……!! 今、変な事言わないでくれ……!! つ、疲れるだろう!!」


 西代は汗を滝のように流しながら、隣の俺を睨んでくる。だが、威圧感は微塵もない。ただただ可哀そうだ。


「……ちょっと休憩するか」


 あと20分は走ろうと思っていたが、これでは西代が死んでしまう。


 俺はランニングマシンの停止ボタンをタッチした。


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「だから言っただろ。俺に合わせる必要はないって」

「う、うる……さいよ。ハァ……ハァ……」


 休憩用のベンチに一緒に座って、西代の汗をタオルで拭う。彼女は相当参っているのか、俺の肩に頭を預けて、荒い息を繰り返している。


「なぁ、体力無さすぎないか?」


 彼女の学生生活があまり良い物では無かった事は知っている。運動系の部活動にはおそらく参加していなかったのだろう。……それでも、体力が無さすぎる。バイトではどうしているのだろうか?


「ハァ……ハァ…………僕、実は小さい頃は体が弱くてね。15歳くらいまで激しい運動を医者から止められてたんだよ」

「え、まじで? 全然そんな風には見えないぞ?」


 西代は背丈こそ小さいが、その身体は健康体そのもの。酒と煙草を常に嗜めるくらいだ。肝臓の性能なんて俺よりも良い。


「ハァ……ハァ……ハァ…………………ふぅ。……別に喘息や疾患があった訳じゃないんだよ。ただ、僕は未熟児だったんだ」

「未熟児って言うと……」


 保健体育で習った事がある。たしか、何らかの原因で身体が十分に成熟していない状態で生まれた赤ちゃんの事だ。


「だから同学年より体の成長が遅くてね。それに、どんな弊害が出るか分からないから体が十分にできるまで運動は控えていたんだ」

「……あぁ、そういうことか」


 人に歴史あり、とは言う。けれど西代の運動音痴の原因がそんな所に存在するとは思ってもいなかった。


「それは……何というか……色々と大変だったな」

「いや、そう苦でもなかったけどね。中学生までは、隠居したと一緒に空気の良い田舎でゆったりと過ごしてたから。本とネット環境さえあれば、娯楽には困らなかったし」

「…………お爺様?」

「あ」


 さまって普通、家族につけるか?


「お、お爺ちゃんとね、あ、あははは」

「……ふぅん」


 …………人の家庭事情は千差万別という事か。


「ま、まぁそんな僕も、今ではもう健康体そのものさ。この通り、酒も煙草も運動も問題なく楽しめてる」

「…………本当に楽しんでるか?」

「全然。正直、こんなにキツイとは思ってなかったよ……帰ってゲームでもしながら一杯やりたいね」


 どうやら、西代は早くもギブアップのようだ。


「でも、この気怠い感じだけは悪くないね。空腹は最高のスパイス、なんだろう? 今日のご飯が楽しみになってくる」


 西代は着ているジャージで汗を拭いながら、お腹をさすった。


「ねぇ、陣内君。今日の晩御飯はなんだい?」

「おでんだ。今朝からしっかり仕込んである」

「へぇ、それは美味しそうだ。……でも珍しいね」

「なにが?」

「君が和食を立て続けに作るなんて」

「あぁ、それか」


 昨日の昼はたこ焼きで、夜はタケノコ炊き込みご飯とお吸い物だった。

 たしかに俺の得意料理は洋食だ。オリーブオイルにトマト、貝類の扱いなら4人の中で一番上手いと自負している。そんな俺がここ2日間、1回も洋食を作っていない事に西代は疑問を持ったのだ。


「……なんか最近、安瀬がちょっと変だろ?」


 俺は適当に言葉を濁しまくった。


「だからってわけでもないけど、まぁ、そんな感じだ」


 最近、安瀬が普通だ。


 3日に1回はヤベー催し物を企画する彼女だが、今週に入ってからは1回もその手の企画を発案していない。ただ西代と一緒によく花札はなふだで遊んでるだけ……単純に花札はなふだの面白さに目覚めた可能性はある。だがどうにも奇想天外で放蕩無頼な彼女らしくない。


 だから俺はここ何日か、安瀬が好きな和食を作っていた。


「…………」


 西代は一拍だけ息を溜め、俺を見据えた。……俺が安瀬の変調を心配していたのが意外だったのだろうか?


「猫屋の変化には気がつかないのに、安瀬の方はすぐに気がつくんだね……」


 そして、消えそうな声で、理解できない言葉を吐きだした。


「へ、猫屋?」

「……何でもないよ。…………安瀬はどうしたんだろうね。安瀬は気持ちを隠すのが上手いから、本心は同性の僕にもちょっと分からないや」

「え、あ、そ、そうか」

「それより、変といえば君だって変だ」


 西代の綺麗で大きな瞳と、俺の目が交差する。


「勉強に運動。最近、らしくないね。自堕落のアル中。そして馬鹿なのが君だったはずだ」

「は、恥ずかしながらそうだな」


 何も反論できない。1回生の時の俺は、勉強なんて本当にテスト前くらいしかやらなかった。ずっと酒飲んでいただけだ。


「……変わるのは嫌だな、僕」

「え?」


 西代は急に俯いて、そんな事を言い始めた。彼女の声音は何故か暗い。


「僕を置いて、皆が変わるのは……嫌だ」 


 西代の口から、それこそ、らしくない言葉が漏れ出る。彼女は詩人が短歌でも読み上げるような抑揚のない声で、未来をうれいた。


「……ははっ、なんてね。少し感傷的になりすぎたよ。慣れない運動なんてしたせいかな?」

「…………」


 俺は、彼女の中二病臭い言葉を一切笑えなかった。たぶん何か……心に感じる物があったからだ。


「変わらない人間なんているかよ。俺からすれば、お前だって凄い変わったぞ」

「……? どのあたりが?」

「変な方言が全く出なくなった。入学した頃はよく出てたろうが」

「………いや、僕が言いたいのはそういうのじゃないんだけどね」

「いいや。そういう事だ」


 俺は強引に話をまとめ上げた。


 あぁ、嫌だ。

 真面目な話なんて糞くらえだ。


 安瀬の変調の原因は恐らく2つ。

 1つ目は、来月に控えている陽光さんの結婚式だ。大好きな兄が結婚して他人様と一緒になるのだ。……安瀬に残された家族は父親と兄しかいないらしい。そりゃあ不安でナイーブにもなる。


 2つ目は、俺がこの前の旅行終わりに無駄な気を使ってしまった事だ。クソうんちのゴミみたいな気の回し方だった。安瀬に怒られて当然だ。彼女は同情や憐れみを嫌う。分かっていたはずだった。


「お前が何かを気にする必要はねぇよ」


 そうだ、西代は何も気にしなくていい。


 自分のケツは自分で拭く。ガキにでもできる事だ。6月に2人で行く旅行は、絶対に楽しい物にしてみせる。酒飲ませて、遊んで、いい湯に浸かって、美味しい物を食べてパァーっとやるんだ。そうやって、安瀬の心労を優しく吹き飛ばす。


 それは俺のやるべきこと。だから、こんな話題は適当に切り上げてしまおう。


「安瀬が変なのは……たぶん、生理せいり便秘べんぴだ。美味い飯と酒があれば、きっとすぐに元の気狂いに戻る」

「君、1回死んだほうがいいよ?」

「…………さ、流石に今のは俺が悪かった」


 馬鹿か!! 何で俺はこういう言い方しかできないんだ!! 最悪だよ!!

 

生理せいり便秘べんぴって、君って、本当に、もう……」


 西代は堪えれないと言った風にクツクツと笑いだした。


「ふふふ、細かい気遣いができる癖に、本質は馬鹿の大間抜け。くくくっ、君のそういうチグハグな所が僕にはどうにも心地が良いよ」

「俺は、俺のこういう所が大嫌いだ!!」


 西代に死ぬほど揶揄われている。その事実が恥ずかしくて、俺は咄嗟に大声で自分を罵倒した。


「あはは……!! でも、そうだね!! 美味しいご飯と酒があれば、きっと全部がどうでもよくなっちゃうね……!!」


 西代は先ほどの様子が感じられないほど、綺麗な笑顔を浮かべ高らかに笑ってくれた。


「ふふ、今日のご飯も楽しみだ。話をしていたら、もっとお腹が空いてきちゃったよ」

「まだ10分も走ってないのに、なにやり切った感をだしてんだ」

「…………もう足が限界に近い。帰って良いかな?」

「おう。1人でな。帰って熱燗の準備でもしといてくれ」

「……イジワルだね」

「ははっ、寂しがり屋め。……俺はこれから重量物を上げるから、やる事なくて暇なら横で応援でもしてくれよ」

「……それはちょっと面白そうだね。うん、隣でお酒でも飲みながら見ておくよ」


 俺と西代は一緒にベンチから立って、ウェイトトレーニングのコーナーに向かっていった。


************************************************************


 その後、俺は元の体形を取り戻すために必死になって重りを持ち上げた。ダイエットは1日だけ頑張っても効果が出る物ではない。継続的に行う必要がある。


 厚かましいとは思うが、猫屋に頼んでまたここに連れて来てもらおう。そしてその時は、運動が苦手な西代もちゃんと誘おうと思う。


 何が楽しいのか分からなかったが、西代は必死にベンチプレスをする俺を見て、終始笑っていたのだから。

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