第64話 顕現する歪み


 千本鳥居を抜けた先にある奉拝所。俺達はおもかる石という謎物体で遊んでいた。石を持ち上げる時に、軽いと感じられたら願い事が叶うらしい。


「ふん」

「よいしょー」


 だからズルをして猫屋と共に持ち上げている。これで願いは確実に叶う。今年のサマージャンボには期待していいかもしれない。


「……あの2人、ちょっと遅くなーい?」


 何の達成感もなく持ち上がったおもかる石。それを見て、つまらなそうに猫屋が問いかけてくる。


「そうだな」


 西代はトイレに行き、安瀬は御朱印ごしゅいんを貰いに別れた。すでに20分は経過しているが2人は中々帰ってこない。


「迷子にでもなったか?」

「スマホに連絡が来てないからー、それはないんじゃなーい?」


 言われてみればそうか。


「ここの御朱印ごしゅいんは場所によって手書きか書置きか変わるらしいし、安瀬は珍しいヤツを貰いに遠くへ行ってるのかもな」


 西代の方はトイレが混んでいるのかもしれない。観光地だと女性の方は混雑しやすい。


「……あのさー、その御朱印って結局何なのー?」

「え、知らないのか? 御朱印って言うのはな──」


 ──ブブッ


 俺が無学な猫屋に説明をしてやろうとした時、ポケット内のスマホが震えた。説明を止めて、スマホを取り出し画面を確認する。


『くるまいる』


 そこには西代から送られてきた短文が表示されていた。


「「………………?」」


 同じようにメッセージを確認していた猫屋と顔を見合わせて疑問符を顔に出す。"車に居る"という意味なのだろうが、どうにも突拍子が無さすぎる。おまけに言えば、何故かひらがなだし、接続詞が抜けているので色々とおかしい。


「……とりあえず、お参りしてから車に戻ってみるか?」

「だねー」


 俺たちは手早く参拝を済ませて、駐車場に向かう事にした。


************************************************************


 有料の広い駐車場まで素早く駆け下りて10分後。俺たちは、自分たちの軽自動車の後部座席のドアを開いた。


「くぅ……」

「すぅ……」


 そこには頬を赤くして眠る2名の女の姿があった。


 車内には麦やブドウの酒気。それと煙草の匂いが多分に漂っている。禁酒禁煙中の俺の脳に響く、退廃的な香りだった。


「こいつ等、なんで酔い潰れてるんだ?」

「わ、分かんなーい」


 車内の座席下にゴロゴロと酒瓶が転がっている。その総数は数えきれない。酒の種類は日本酒、ワインにビールとウォッカ。車に設置してある灰皿もてんこ盛りだ。


「な、なんだこの量……この短時間でどんだけ飲んでんだよ」

「しかもチャンポンでねー」


…………何か下らない事で喧嘩をして、潰しあいの末に泥酔といった所か? それにしては仲良く寄り添って寝ているように見えるが……。


「この惨状さんじょう。猫屋、お前はどう見る?」

「下らない事で喧嘩してー、潰しあいの末に両者ダウンって感じー?」


 良かった。俺と全く同じ見解だ。しかも、この飲酒量から考えるとガチの潰しあいだ。お互いが肝臓の限界まで酒を摂取している。


「ん?」


 床に転がった酒瓶を眺めていると、その群れの上に一枚の紙が置いてある事に気がつく。何かが書かれているようなので、手に取って内容を見る。


『寝る。拙者たちの事は放っておいて2人は仲良く嵐山にでも行くでござる』


 文体から、それは安瀬が書いたものだと分かった。紙には数滴ほど水が落ちた跡があった。酒瓶の水滴がついたのだろう。


 何があったのか分からないが、潰れる前に俺達の事はきちんと気にかけてくれていたようだ。……後でどんな珍事態があったか、しっかり説明して貰おう。


「2人……きり」


 その時、吐息の様に小さな声が聞こえてくる。俺の横で紙をのぞき込んでいた猫屋がぽつりと呟いたのだ。


「そうだな。この分だと2人は暫くは起きそうにない」


 というか、もう旅行終わりまで目覚めないかもしれない。今日は旅行最終日だ。俺は4人でぶらぶらと京都を廻りたかったのに、これでは少しだけ寂しい気がする。まぁ、でも、こうなってしまったら仕方がないか。


「車はここに置いて、言われた通り嵐山にでも行くか」


 今この車は泥酔者のゆりかごだ。かなり深酒しているようだし、運転の振動で覚醒させてアルコールの分解を妨げたらいけない。4人で廻れないのは残念だが、2人で観光におもむこう。


「そうだ。歩くのが怠くなったら人力車に乗ってみようぜ」


 嵐山と言えば人力車だ。金は賞金から出るから、バイトを休んでいる俺と猫屋のお財布事情にも優しい。結構楽しそうだ。


「…………」

「?」


 返事が聞こえてこない。思えば、猫屋はさっきからずっと黙っている。


 視線を彼女に向けると、猫屋は耳に手を添えてぼーっとしていた。


「おい、猫屋」

「え、うぇ!? は、はい!! あ、ありがとうございまひゅ!!」

「………おう。どういたしまして」


 何故かお礼を言われたので、適切に返事をしてやる。


「なんだ、そんなに人力車に乗りたかったのか?」

「そ、そぉーなんだよねーー!! ほら、嵐山って言えばやっぱり人力車じゃーーん!!」

「そうだな。俺も乗ってみたかったんだよ」


 人力車は2人乗りだ。どうせ4人で乗ることは無理だったし、丁度いい機会だ。泥酔した2人には悪いが、安瀬の指示通り、嵐山を楽しんで来よう。


************************************************************


 その時、猫屋李花の乙女思考回路はマックススピードで回転していた。


(き、キターーーー!! なーんか、よく分かんないけど確変かくへん入っちゃったーーー!!)


 陣内が嵐山へ向かうバスを調べている背後で、猫屋はキラキラと笑みを浮かべて2人きりのデートへの思いを膨らませていた。


(人力車って座るスペース超狭そうじゃーーん!! 腕とか組んだりー、揺れのどさくさに紛れて手握ったりしていいんだよねーー!!)


 猫屋は自分がセクハラ親父レベルの思考をしている事に気がつかない。


(なら顔を真っ赤にして恥ずかしがってくれるはずーー!! 大チャンーース!! 私の事を、女の子なんだって、絶対に意識させてやるーー!!)


 竹林で覆われた小道を人力車に乗って進む自分と陣内。密着した状態でのランデブーを想像して、猫屋の気持ちは昨晩のように暴れ狂う。


 陣内がノンアルで減欲体質を発現させられることは、いまだ酒飲みモンスターズには知られていない。


「あ、やべ。スマホの充電がもう赤い。猫屋、悪いけどお前が調べてくれないか?」

「うんうん!! 分かったーー!!」


 浮かれた猫屋は特に文句も言わずに自身のスマホをポケットから引き抜いた。その時、スマホに付いている丸く小さなアクセサリーが揺れて、猫屋の目にとまる。


 

 それは猫屋が購入した4人お揃いのアクセサリー。猫屋にとっての友情の証明だった。


(…………う、うーーん?)


 それが猫屋を少しだけ冷静にする。暴走寸前だった彼女の恋心は、それを見て回転数を落としたのだ。


(これって、いいん、だよねー……?)


 猫屋はその可能性を一瞬だけ考慮する。


(私って、、いいんだよね?)


 猫屋が心配したのは、眠っている2人の気持ちについてだった。


(安瀬ちゃんと西代ちゃんは、違うよね? 私みたいに、陣内が好きだったりは……しないよね?) 


 加速していた恋愛感情が怪しい方向にける。猫屋はいつもより冴えた脳でその可能性について検討を始めた。


(い、いやー、ないない。ふ、2人はどう考えても恋愛とか興味ないタイプ。いつも一緒にいるって言っても、相手は陣内な訳だしーー)


 猫屋は自分が思いついた想像を即座に否定する。


(西代ちゃんはデートするぐらいならパチンコに行くだろうし、安瀬ちゃんに至ってはこの前、陣内のゲロを頭から被ったらしいし……)


 普段の無茶苦茶な生活を思い返して、その可能性は無いと猫屋は結論を出す。


(それに、もし仮にそーだった場合は…………私が身を引けばいい……だけ……だけで……)


 猫屋は安瀬と同じ結論に至る。当然の思考だった。猫屋を救ったのは陣内だけではない。安瀬と西代も、品のない笑い声をあげながら猫屋と暴虐の限りを尽くした。猫屋はそんな2人が大好きであった。


「う゛あ゛ぁ゛、それにしても、酒が飲み゛て゛ぇえ゛゛」

「え」


 猫屋の危惧は陣内の汚い声音によって打ち切られた。陣内が奇声を上げながら、頭を抱えて地面にうずくまったのだ。


「ど、どーしたの急に?」

「いや、車内に充満してた酒と煙草の匂いを嗅いだら、ヤバいくらい酒が飲みたくなってきた。ほら、見ろ。手が震えだしたぜ」


 陣内はプルプルと小刻みに震える手を猫屋に見せつける。


「もう1月も酒飲んでないからな、俺。あんな濃いアルコールの匂い嗅いだら、脳みそがはじけ飛びそうになる……」

「…………うっっわー」


 猫屋はその病的な手を見て、本気で引いていた。

 

「あのさぁー、陣内。1回マジで病院行ってきたらー? 1ヵ月間禁酒してそれはヤバすぎるってー」

「あぁ、そうだな。……ストレスから来る震えだから、パーキンソン病か。あれって神経内科だったけ?」

「もぅ、陣内のおバカさーん。アルコール依存症は心療内科だよー?」 

「誰が依存症だ!! こ、これはストレス性の物なんだよ……酒を飲めば収まるんだ……お、俺はアルコール依存症なんかじゃ絶対にない……ないんだ……」

「…………うへぇー」


 猫屋は自分の想い人を心底冷めた目で見下した。


(うん、ないなーい)


 それと同時に心の底から安堵する。


(こーんなのが大好きな物好き、ふふふっ、この世に私以外いるわけないじゃーん!)


 『心配して損した』と思い、猫屋は気分を入れ替える。


「とりあえずー、ノンアルでも飲んで気を紛らわせたらー?」

「そ、そうする……でも、そろそろマジで、本物のお酒飲まないとヤベーかもしれない……」

「あはは!! もうちょっとなんだしー、ちゃんと我慢しなよー? コッソリ飲んだら安瀬ちゃんと西代ちゃんに怒られちゃうからねー!」


 猫屋は何も考えずに、陣内を馬鹿にして朗らかに笑った。





************************************************************





 丸い月が綺麗な真夜中。暗い高速道路を安全運転でひた走る。


 3連休最後の日曜日だからか道路に車は多い。事故だけはしないように、慎重に運転する。


 馬鹿みたいに騒がしい京都旅行は終わってしまった。明日からまた大学だと思うとかなり憂鬱だ。


 目的地の家まではあと2時間ほど。

 車内に会話はない。助手席の猫屋は旅の疲れで眠ってしまった。後部座席の酔っぱらい達は未だに目を覚まさない。


(珍しく静かだ)


 4人でいるのに、まったく騒がしくない。聞こえてくるのは走行音だけ。まさしく旅行終わりに相応しい静寂。


 何も考えずに道に沿って走行する。夜だからといって過度にスピードを出しはしない。急いで帰る必要もないしな。


(あ、サービスエリアの看板)


 夜道で、緑色の看板が存在をアピールしていた。


(眠くないけど、休憩がてらに寄っておくか)


 眠気が来てから休むようでは遅いだろう。コーヒーでも飲んでおこう。……これで、煙草が吸えたら最高だったんだけどな。微糖の缶コーヒーには煙草がよく合う。


 速度を落としながら看板に従って進路を変える。何も問題なくサービスエリアに入り、空いてるスペースに適当に車を停めてエンジンを切った。


「…………んぅ?」


 その時、後部座席から寝ぼけた安瀬の声が聞こえてきた。


「あ、悪い。起こしたか」


 他の2人を起こさないように小声で安瀬に話しかける。どうやら停車時の振動で起きてしまったようだ。


「じん、ない」


 安瀬は焦点があっていない目で俺を見る。


「………………ここはどこじゃ?」

「神奈川に入る手前のサービスエリアだ」

「何故、そのような所に、うっ、あたた」


 安瀬はまだ覚醒しきっていないのかぼんやりとしている。飲みすぎで頭も痛そうにしていた。


「覚えてないのか? お前、旅行中なのに西代と深酒して潰れたんだよ。観光はもう終わって、今はその帰り道だ」

「─────、あぁそうか。そうで……あったな」


 安瀬は自分が深酒した事を思い出したのか、少しだけ表情を歪な物に変化させた。その顔を見るに、アセドアルデヒドが血中で暴れまわっているようだ。

 

「俺は自販機でコーヒー買って休憩するけど、お前はどうする? 水かお茶が欲しいなら買ってこようか?」

「気を遣わんでよい。我も自販機で適当に見繕う」

「そっか。なら行こうぜ」


 猫屋と西代を起こさないように優しく車のドアを開けて、俺たちは自販機の光がまぶしい休憩スペースに向かって行った。


************************************************************


 ふらふらとする体を制御し、陣内の後ろをついていく。休憩スペースはもうそこである。


 濁った頭で思い出す。

 西代の前で泣き散らした時の我は……少々正常ではなかった。羞恥の感情に任せて、涙を止める事もせずに西代を車まで引っ張り、ひたすら黙って酒と煙草をやり続けた。無論、西代には強制的に付き合ってもらってじゃ。


 その結果が今の体たらくである。……何も言わずに付き合ってくれた西代には本当に感謝しなければならん。


 ガンガンと鐘を鳴らす頭を手で支え、休憩所のテーブルに座る。酔い覚ましの為に買った緑茶を、寝起きで乾いている喉に流しこんだ。


「ふぅ」


 少しだけ落ち着く。


「それで? なんで西代と馬鹿みたいに飲んでたんだ?」

「……」


 頭痛の原因の男。陣内は我の対面に座って缶コーヒーを飲み、怪訝そうな顔をしながら疑問を飛ばしてくる。


「……さぁの」

「当ててやろうか? 西代に『御朱印なんてただの紙をありがたそうに買うなんて、安瀬はやっぱり変わってるね』とか言われて喧嘩になったんだろ?」

「違う」


 陣内は得意気な顔をして語ったが、見当違いも甚だしかった。


「適当な憶測を吐くでない、煩わしい。ただでさえ、今は頭痛が酷い」

「うぐ……そ、そうか」


 怒気を込めて陣内を睨む。


 後悔と、戸惑いと、。それら混合物が混ざり合い、頭痛を加速させる。今は陣内とはあまり話をしたくはない。それでも、車から降りて陣内について来たのには理由があった。どうしても聞きたい事があった。


 それは友の恋路でござる。


「猫屋との逢引きはどうであった?」


 我よりもずっと綺麗で一途、光のような色恋。鳥居の下で見た、この世で一番綺麗な光景。敵うはずがないし、ましてや争う気なぞまるで起きないほどの眩い情景。


 アレを思い出して、暖かい物を胸に感じた自分に安堵する。


 あそこに割って入る事だけはしてはいけないでござる。それは、猫屋を傷つけることに他ならないからじゃ。


 西代のおかげで、猫屋を応援すると決心できた。

 それに、我は身体ぐらいしか女らしい所が無い。猫屋はそんな我とは違って華があり、向日葵のような性格をしておる。付き合い始めたら、陣内には勿体ないほどの可愛い恋人になるであろう。


 そんな素敵な彼女を応援しようと、心の奥でちゃんと決めた。


「は? 逢引き? 何だよそれ? 急に茶化ちゃかすなよ」


 なので、目の前でポカンと首を傾げる男にはかなりイラっときたでござる。


「……あのような可愛らしい女子おなごと2人で観光地で遊ぶことを、逢引きと呼ばずに何と呼ぶ」

「まぁ、そう言われたらその通りだけど。……正直、いつもと変わんないだろ?」


 陣内はピンと来ていないのか、渋い顔でそっぽを向く。


「嵐山で人力車に乗って、運転手の解説を聞きながら風景を見ただけだ」

「それだけでござるか? 何か心を動かすようなことがあったのではないか?」

「ん? まぁ竹林を見て、帰ったらタケノコで何か作ろうぜって話はしたな」

「た、タケノコ?」


 緑深い綺麗な竹の小道。幻想的で美しい庭園を猫屋美女と見て、タケノコの話じゃと?


「あぁ、ちょうど今がしゅんだからな」

「……渡月橋とげつきょうはどうでござった?」

「あのバカデカい橋か。橋を渡った先にあるあゆの塩焼きを猫屋と一緒に食べたけど、凄い旨かったぜ!!」

「あ、あゆ……」

「『ノンアルじゃなくて普通のビールと一緒に食べたかった』って言いながら2人で食べ歩いたんだよ。やっぱり川魚の串焼きは酒の当てにピッタリだよな。お土産に抹茶ビールを買ってあるから、七輪でも買って今度4人で串焼きをやろうぜ」


 こ、こ奴ら、飯と酒の話しかしておらぬ……。


「ね、猫屋はどのような感じであった?」

「え、別に普通だけど。いつもどおりニコニコと煙草吸って、俺と一緒にノンアルを飲んでた」

「……はぁぁ」


 死ぬほど深いため息が出てしまう。


 "アルコール中毒鈍感男"と"ニコチン中毒恋愛ポンコツ女"。


 2人きりになれる時間を作ってやったというのに、関係は何も進まなかったようでござる。……どうしようもなくやるせなくて、胸がむかむかした。


「どうしたんだよ、ため息なんてついて」

「何でもござらん。ただ、お主らの品の無さを改めて認識しただけでありんす」

「おい。頭痛が酷いのは分かるけど、無駄に絡んでくるなよ。面倒くさい」


 面倒なのは、絶対にお主の方である。


「それに、ちゃんとお前らの分の土産も買ったんだぞ? 生八つ橋とか和菓子とか」

「なんじゃ、全部自分の好物ばかりではないか」

「そう言うなよ。お土産なんて大抵は甘い物ばっかりだ」

「……まぁ、それもそうであるか」

「あとは……その、これだ」


 陣内は言葉を濁しながら、テーブルに細長い紙製の箱を置いた。


「なんじゃこれは?」

「……お線香せんこう


 聞いて一瞬、濁っていた頭が空白に染まった。


「猫屋から貰った香り袋で思い出したけど、京都の名産には……仏具もあったろ」


 陣内は、ばつが悪そうに視線を我から外す。


「この3連休は色々ありすぎて個人の時間なんかは取れなかったからな。お前は酒で潰れてたし、一応買っておいた。……要らなかったら捨てろ」


 吐き捨てるような口調で経緯を話して、陣内はお線香を我の前までそっと押した。


 それは本当に一心での気遣いのように思えた。母の事を知る陣内の、冥福の気持ちだったのであろう。憐みや同情があるのなら、もっとそれらしい渡し方をする。我の事を本当に理解してくれて、細心の注意を払い、贈ってくれているのだと感じた。


 母の死から3年が経った。もう母に何かを献ずるのは家族しかいない。だから、家族以外からの捧げ物は、とても嬉しかった。涙が出てしまうほどの優しい善意。



 それをぐしゃりと叩き潰した。その善意をへし折った。



「っ!」


 我の行動を見て、陣内は驚く。


「……はっ」


 嘲りを込め、陣内の優しさを鼻で笑った。ポツリと、涙が頬から流れ落ちる。


「なんじゃ、献花の次は線香であるか。……それで我が喜ぶとでも思ったか?」


 勝手に……醜い言葉が口から零れた。


「哀れむな。見下すでないわ。花の時は言わなかったが、そのような気遣いは……ふ、不快じゃ。に、二度とするな」


 何を言っている? 彼の優しさに対して、何故……そんな酷い事を言う?


 嫌いになりたいのであろうか。

 嫌われたいのであろうか。

 これ以上、好きになりたくないのであろうか。


 胸がバラバラになりそうな感覚。猫屋の恋心を知った時と一緒で、感情の起伏が異常だった。心の平穏を保つために、陣内の善意を非情に踏みににじってしまった。


「ぁ、いや、ごめっ──」


 陣内は一瞬、酷く狼狽した顔を見せた。


「…………そうか。悪かったな」


 その後、陣内はすぐさま、短く、それだけを言った。彼は直ぐに取り繕った。自分の内心を悟らせないように不服な様子で謝った。


「……まぁ、分かればよい。怒鳴って悪かった」

「いや、すまん。こっちこそ、悪かったな」


 陣内はきっと『踏み込みすぎた』と思って律儀に後悔している。そんな気持ちを抱える必要はないはずなのに、心の底から傷ついている。


 ……今の私はきっと、なんの可愛げもない醜さの化け物なのだと思う。自分の事が嫌いになりそうだった。


「……」


 もう今日は何も考えたくない。

 腐った感情を煙で燻すために、懐から煙草を取り出す。一本を咥えて、火を点けるためにライターを探した。


「あ、ちょっと待て。動くなよ」


 陣内が火の灯ったライターを素早く差し出してくれる。相変わらず気の利く男じゃ。


「……ん」


 燃焼に合わせて息を吸い、煙草の先端に薄赤い綺麗な明かりを灯す。


「ふぅ…………お主、禁煙はしっかり守っているのであろうな?」

「守ってるよ。ライターは持つのが習慣になってるだけだ」

「で、あるか」

「………………」

「………………」


 重たい沈黙が2人の間に降りる。先ほど、我が無意味に怒ったせいであった。

 

「お主は……」

「ん?」

「お主は何時から煙草を吸い始めた?」


 この空気を変えたくて、適当に話題を切り出す。


「……スコッチをロックで飲めるようになってからだな。ピート香のお供として煙草を楽しむ様になった」

「なんじゃそれは。カッコつけているつもりか?」

「うっせ、マジなんだよ。スモーキーなウイスキーには、甘い煙がばっちり合うからな」

「どうやら味覚だけは大人顔負けのようじゃの」


 明るい話題が戻ってはきたが、今日はどうしても憎まれ口が止まらない。


「はは、まぁな」


 心はガキのままだと馬鹿にされたことに、陣内は気付かなかった。


「けど、俺の禁酒禁煙も来週で終わりか……長かったぁ」

「うむ、まぁ、よく頑張ったでありんす。……これでほとんどの約束はおしまいじゃ」


 残っているのはトイレ掃除と肩もみくらいである。


「え、いや、まだ重要なのが1つ残ってるだろ」

「ん?」

「旅行はどこに行く?」

「…………は?」


 陣内が何を言っているのか理解できなかった。


「りょ、旅行? 何を言っておるんじゃ?」

「ほら、病院を脱走した時に約束しただろ。2人でプチ旅行に行くって」

「────」


 この日、一番の衝撃が胸を貫いた。息が止まるかと思った。


「俺がバイトを再開するのが5月だから、旅行は6月くらいになっちゃうけどな……梅雨の季節だ。紫陽花あじさい寺でも行ってみるか?」

「ちょ、ちょっと待つでござる!!」


 陣内の語りを無理やり止める。話題の転換についていけなかった。


「あ、あの約束はこの旅行の事であろう?」

「? 違うだろ。それじゃあ条件が合わない」

「条件?」

「費用は全部、俺が負担。日本の古い景観が残った観光地で遊んで、夜は温泉宿に泊まる。ほら、2つも条件に合ってないだろ」

「そ、そんなもの、誤差みたいなものではないか……!!」


 我にもう、その気はなかった。猫屋の気持ちを知る前とは、状況が違っているからだ。


 我の言葉を聞いて、陣内は目線を少し落とした。


「……俺はあの約束を適当に終わらせたくない」

「ぁ」


 あの時、薄暗い病室で、我は激情に任せて怒って泣いた。そのせいで、陣内はあの約束を完璧に守るつもりでいる。優しい陣内はあの出来事を深く受け止めていた。


 何もかもが、自分のせいであることに気がつき、愕然とする。


「ね、猫屋を……」

「ん?」

「猫屋を誘ってやれ」


 絞りだすようにして、何とかその言葉を吐き出した。


「はぁ?」


 陣内は、急に出された猫屋の名前に首を傾げた。


「なんで? 俺が約束をしたのはお前だ」


 その通りである。お主と、2と言い出したのは我でござる。


「それに猫屋は……その、長風呂ができない。お前、湯治に行きたいって言ってただろ。旅行に猫屋を付き合わせるのは悪い」


 もっともらしい言い訳も、都合よく転がって来た。


「あとな、猫屋と西代には黙ってコッソリ行くんだよ」


 陣内が急にあくどい卑屈な顔をして笑う。


「アイツ等の事だから、『安瀬にだけ奢るのは不公平だ』とか因縁を付けて俺に何か買わせようとするに決まってるぜ」

「そ、そんな乞食のような事を2人が言う訳が……………言いそうでござるな」

「ははは、だろ? という訳で、あの2人の目を盗んで遊びに行くんだよ。……あ、そ、それとも……やっぱり俺と2人きりで旅行は嫌だったり───」


「嫌な訳がなかろうッ!!」


 夜の空気に大音量の声が響く。つい、反射的に大声を出してしまった。


「……そ、そうか」


 陣内は少しだけ顔を赤くして、照れたように頭を掻いた。


 そのような顔をしないで欲しい。もう、自分の気持ちが分からない。


「じゃあ旅行のプランを立てなきゃな」

「え、ぅ……」

「特に要望がないなら、俺が組んでおく。ホテルとか飯の予約とか、面倒なのは俺に任してくれ」


 勝手に話が進んで行く。


「何だかんだ今回も楽しかったし、次の旅行も楽しみだよな!! 6月なら、俺は大手を振って酒が飲めるわけだし!!」


 陣内は無邪気な笑顔を浮かべていた。もう、その笑顔を踏みにじることはできない。二度目は……我にはできなかった。


「……う、うむ。た、楽しみで、あるな」


 結局、猫屋を応援するなどと言っておきながら、我は首を縦に振ってしまった。


************************************************************


 許して


 ……猫屋、どうか、許して欲しい。


 この約束が終われば、全てを諦める。6月、梅雨の季節にはこの恋煩いを完璧に沈めてみせる。


 だから、これは裏切りなどではないと、自分に必死で言い聞かせる事をどうか許してください。

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