第63話 桜


 気持ちを自覚したのは雨の日であった。


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 大学1年の7月。夏休みが始まる前の話。


「あぁ、もう、クソったれでござる!!」


 大雨の中、大学の帰り道を駆ける。補講を受け、レポートを大学で片づけておったせいでいつもより帰るのが遅くなり夏特有の夕立に降られていた。


(うぅ……びちょびちょである)


 雨はバケツをひっくり返したように酷く、瞬く間に拙者をずぶ濡れにしてしまった。靴の中まで浸水しており気持ちが悪い。


 天気予報は快晴であったが夏の時期の突発的な大雨は予期できるものではない。荷物がかさばるのが嫌で折り畳み傘を常備していなかった事をいる。


 このまま駅まで行って電車に乗るのは億劫であった。


 そんな事を思っていた矢先、とある賃貸が見える。陣内梅治が成約している大学から徒歩5分のアパートだ。


「よいしょっと」


 陣内は何故か、雨の掛からない玄関前のスペースにいた。簡素な折り畳みの椅子を用意しておりそこに座ろうとしていたのである。


 特に理由も考えずに我は駆けこんだ。


「陣内!! 雨宿りさせて欲しいでありんす!!」

「ん? え、安瀬?」


 彼は一瞬、事態が飲み込めていない様子をみせたが、傘もささずに走る我を見て直ぐに頷いた。

 

「あぁー、ちょっと待ってろ。バスタオル持ってくるから」

「か、かたじけないでござる」

「いいよ。濡らしてもいいから椅子に座って待ってろ」


 そう言って、陣内は部屋に入っていった。


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 陣内から貸してもらった大きなバスタオルで水気を拭き取る。これで不快感はかなり消え失せた。……体は少しだけ冷えておるがの。


「災難だったな。でもお前、帰るの遅くないか? もう6時前だぞ?」

「第二外国語の補講があっての」

「あぁ、なるほど」


 第二外国語は中国語、フランス語、ドイツ語のどれかを選んで受講する物であった。我は中国語を選び、陣内は……確かドイツ語であったか? まぁ何にせよ、授業形態が違うので陣内の方には補講は無かったのであろう。


「おまけにレポートを片付けていての。帰宅時間がさらに遅れて、この様でやんす。篠突しのつく雨と言えば語感はよいが、この豪雨は身に染みて辛いぜよ」

「…………ま、前から思ってたが、その話し言葉はマジで何なんだ? 最近は馴れたけど、他のヤツが聞いたら頭おかしいヤツと思われるぞ?」

「これが素じゃ。拙者の事をただの大人しい大和撫子とでも思っておったか?」

「……そんなわけないだろ」


 陣内が目を細めて遠くを見る。初対面の時の事でも思い出しているのであろう。


「お主は何故なにゆえこの蒸し暑い中、外に椅子なんぞ出しておったのじゃ?」


 雨が降っているせいか気温はいくばくか涼しくなっている気はする。しかし、季節は真夏。暑くてとても外に出る気にはならん。


「市販のシャリキンにメロンシロップ掛けて食べようと思ってな。かき氷は空調の効いた部屋で食うより暑い中で食べる方が乙だろ?」

「……お主は相変わらずじゃの」


 シャリキンとは確か、キンミア焼酎を凍らせた物である。我は食べた事がないが、ザクザクとした食感と焼酎の独特な味わいが交わって何とも言えないらしい。シロップを掛けたのなら、大人版かき氷と言えるであろう。


「まぁ、それは後でいいんだよ」

「?」


 陣内が少しだけ口早になった。


「それよりも、お前そのままじゃ風邪ひくだろ?」

「────っ」



 その言葉を受け、我は一気に隣の男を警戒した。



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 幼少のみぎりから、我は習い事としてスイミング日本泳法スクールに通っていた。塩素で髪の色素が抜けてしまい薄赤い茶髪になってしまったが水泳は楽しかった。冷めた水温が心地よく、触れれば如何様にも変わる水の揺らめきが面白い。何をしても自由な水中は我の気性にとても合致していた。


 じゃが、その楽しい気持ちに陰りが射したのは中学2年の頃。体が成長し、胸が膨らみ始めてからの事じゃ。


 周囲の目線が変わった。


 仲が良かった男の友人たち。ソレの目が変わり始めた。粘り気が混じり、舐めまわすような気持ちの悪い物を水着を着た我に向けるようになった。


 それが嫌で、自分で考えた"女らしからぬ話し言葉"を使いだした。中学生らしい稚拙な発想であったと思う。……いつの間にか完璧に定着してしまったしの。


 まぁ、それでも、周りの目はあまり変わらず言いようのない不快感が思春期の我に積もっていった。親族以外の男が嫌いになりそうであった。


 そこに決定打となる事件が起こる。当時の担任教師が水泳部を盗撮していたのだ。


 水泳部の練習前、服を脱ぐ一歩手前で悪寒が走り、部室内を手当たり次第に探し回ってみた。すると、が見つかった。……あの時の激しい嫌悪感は今になっても覚えている。


 震える手で、映像データを確認してみると、学生とは違う中年男性が写り込んでいた。見覚えのある先生だった。カメラを仕掛ける際に自分を撮ってしまったのだろう。


 下手人が割れたというのなら、後は報復の時間じゃ。我はどうにも昔から自分の感情を抑え込むという行為が苦手であった。


 兄貴にだけ連絡を入れ、怒りのままに長物モップを担いで職員室に乗り込んだ。ぶち殺してやろうと思った。しかし、良かったのは威勢だけ。我に武道経験はない。可愛いだけの女子中学生が複数人の大人の前で暴力行為に及べる訳がなく、あっけなく取り押さえられてしもうた。


 しかし、そこに遅れて乗り込んできたのが若かりし頃の兄貴。我が取り押さえられている姿を見て、兄貴はプッツンした。普段は温厚な兄貴が鬼人の如く人を投げ飛ばす光景は何度思い返しても笑ってしまいそうになる。


 当然、職員室で暴れまくった拙者たちは警察のお世話になった。水泳部を退部させられ、兄妹まとめて停学をくらってしまったが、我に後悔などはなかった。


 兄貴と一緒に暴れたこと自体は死ぬほど楽しかったでござるからな!! 結末だけを切り取れば、そこまで悪い思い出ではない!!


 …………の美貌をひけらかす事は大好きじゃ。化粧は煩わしくて苦手であるが、たまに猫屋にメーキャップを施してもらうのは気に入っておる。コスプレじみた格好をするのも、日常から離脱したような高揚感があって大好きでござる。


 羨望や好奇。それらは別に良い。


 だが、下卑げびた視線は嫌い。


 汚らわしい性欲に塗れた男の視線は不快そのものであった。


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 雨に濡れた我の体調ををする陣内。気遣う振りをする浅ましい男。


 この先が容易に予見できる。続く言葉はきっとこう。


 『シャワー貸してやるから部屋にあがれよ。というか、今日はもう泊って行ったらどうだ?』


 陣内の家で、酒を飲んで泊ったことはある。だが、その時は猫屋と西代がいた。同性がいたからこそ我は異性の家で気兼ねなく飲んで遊べた。


 だが男と2人きりで夜を過ごす気などない。そんな軽薄で扱いやすい女だと思われたことに対して怒りすら覚えた。


(ふん、コイツもその類か)


 少しは信頼していた。大学に入って、陣内には色々と世話になったからだ。


 でも、所詮、男などこんなものでござろう。


「いえ、私はもう帰りま──」

?」

「……は?」

「いや、体を温めるには酒だろ。ド定番にウォッカか? 少し時間を貰えるならホットワインとか暖かいチョコレートカクテルを用意するけど? それとも、お前はやっぱりかんが飲みたいか?」

「────────」


 想定していなかった言葉に、思わず目を丸くしてしまう。


 ……こ、このド阿呆はそういう奴だった。暖かい湯で体を温めるという当然の思考よりも先にという発想が出てくるアル中。脳が酒に侵食された異常者…………い、いや!! 我を酔わせて、その後で部屋に連れ込む算段なのかもしれん!! 飲酒欲求と性欲は同時に存在しうるはずじゃ!!


「わ、私を酔わせて何を──」

「いやぁ、お前は運がいいぜ!! 先週、バイト代が入ったから色々と酒を入荷したんだよ!! スカイウォッカとモーツァルトを買ってあるし通販で買った酒が昨日届いたばっかりだ!! 聞いて驚け!! 日本酒は富士山の湧水を使った名酒、開運だし、ワインの方は超スパイシーな樋熊ひぐまの晩酌だ!! 他にもアマレットのいいヤツがあるからホットミルクを入れて──────」


 あ、これは違う。いい酒を沢山手に入れたから誰かに自慢したくてしようがないだけのアル中でござる。性欲とはまた違った欲望が渦巻いているだけである。


「う、うるさい!! な、何じゃ、お主は!? お主はそれでよいのか!?」

「あ゛? 何が? 酒を飲ませてやるって言ってるんだ。文句あんのかよ?」

「え、いや、まぁ、文句はないが……」


 な、何で逆ギレしておるんじゃ、コイツ?

 

「だろ? 本当にタイミングよかったぜ。あ、実は今なら米焼酎なんかも──」

「わ、分かったでござるから!! に、日本酒で良い!! か、かんで寄こせ!!」


 べらべらと酒について語ろうとする陣内を止めるには、ヤツの望み通り酒を飲んでやるしかないと思った。


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「……塩気が効いてて凄く美味しいでござる」


 陣内が作ってくれた熱い日本酒は、何故か塩と梅の風味が効いていた。


「ちょっとだけ梅昆布茶うめこぶちゃの元を入れてある。ほら、日本酒は凄く調和がとれた飲み物だけど塩気だけはないからな。軽く塩分を足して飲むと、また違った味わいがして美味い」

「…………」


 得意気な陣内の解説を聞きながら、タンブラーに入った風味の良い酒を啜る。


「酒本来の味が薄れるけど、塩分が不足気味な夏にはこういうのが沁みるだろ?」

「……」


 素直に関心した。酒類に関する知識にではない。相手を気遣い一手間ひとてまを加えたその手際にである。


「お主のかき氷はどうした?」

「お前がそれを飲み終わったら作る」

「…………」


 アル中の癖して、レディファーストがしっかりしておった。謎でござる。


「それに、今はこれがあればいい」


 そう言って、陣内はビール缶を取り出した。


 プシュッとプルタブを開いて、彼は一気にそれを煽る。夏の雨中うちゅう。湿気高い暑さの中、ゴクゴクと喉を鳴らして、陣内は美味そうに麦の酒精を流し込んだ。


「ぷはッ」


 陣内は満足するまでビールを飲み下した後、缶を床に置く。


 今度はポケットから煙草を取り出した。


 ボックスの底を叩き、煙草を一本だけ飛び出させ咥える。そのまま大きな手で口を隠すように煙草を支えてライターで素早く火を点けた。


「……あ゛ぁ゛ー、うまい」


 陣内は3秒間ほど無言で煙草を吸い、気怠そうに煙を吐いた。


「……雨の日に外で吸うたばこって無性に旨いよな? クールスモーキングってやつがいつもよりできるせいか?」

「喫煙者でない我に同意を求めるでない」


 この頃はまだ、酒はやれど煙草には手を出していなかった。


「あぁ、悪い。そうだったな」


 猫屋か西代と間違ったのであろう。……他人に間違えられるのは生まれて初めての経験じゃ。少しだけ新鮮である。


「お、見ろよ」

「なんじゃ?」

「もう雨が止みそうだぜ」


 陣内が煙草を咥えたまま顎で空を示す。彼の言う通り、雨雲は遠くに行ったようだ。


「そのタオルは持って帰れ。ちゃんと洗濯して返せよな」

「え、あ、うむ」


 少し、意外だった。気の利くこ奴なら『洗濯して返さなくてもよい』と言い、この場でタオルを回収すると思っていた。


「…………」

「あ゛ー、明日の小テストめんどくさいな」

「え、あぁ、そうじゃの」

「……物は相談なんだけど、明日は隣で答案を見せてくれないか?」


 陣内が媚びへつらうような笑顔でこっちを見る。クズの笑顔だった。


「…………はぁ、仕方ないのぅ。今日の礼じゃ。明日は我の隣に座ることを許そう」

「マジか!! いやぁ、人助けはするもんだな!!」

「お主、入学して半年経らずで勉強についていけておらぬようでは不味くないか?」

「うぐ……う、うるさい」

「ははっ、留年だけはしないように気を付けるでござる」


 まだ小雨が降っている外で、酒を飲みながら笑う。雨に濡れてしまったがそんなに悪くはない一時であった。


 この後は、暖かい日本酒を飲み干すまで陣内と適当に駄弁り『また明日』と言って我は帰路についたのだ。


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 その帰り道の途中。


「ぁ」


 陣内と別れて直ぐに気がついた。この時、我のブラは雨で透けていた。夏服の薄い布地から、ピンクの下着が見えてしまっていた。


「──っ」


 急いで大きなバスタオルで体を隠す。


 そうして、また1つ気がついた


 陣内がタオルを持って帰れと言ったのは、きっと、このバスタオルが必要になると思ったからだ。濡れた我の姿を見て、人目を遮るためにタオルを貸してくれた。つまり、陣内は透けた下着に気がついていた。


 なのに、陣内は粘り気のある不快な視線で我を見なかった。邪な素振りを一切見せず、ただ……我を介抱してくれた。


 この瞬間だった。


 先ほど煙草を旨そうに吸っていた友人の顔がとても……大人びて見えたのは。


「…………」


 煙草を吸い始めたのは、その日から。


 


 この我に、そんな日が来るとは夢にも思っていなかったでござる。


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 母の為に、子供が欲しかった。母の様に、子供を育てたかった。母の如く、子に愛されたかった。


 しかし、相棒パートナーといえる男が見つからない。同級生やフリーターをしていた時期に出会った男どもはダメだ。奴らは不純物が多すぎるし、何よりも面白くない。


 そこに現れた、1人の変わった男友達。大うつけの傾奇者。常に酒を飲んでいて、喫煙者で、頭も悪い。ダメ大学生の見本のような男。


 でも、優しくて面白いヤツ。探していたピースの欠片が埋まった気がした。


 そこからは、その……長い時間を掛けて、ゆっくりと、惹かれていったのでござる!!


 夏休みは4人で遊びまくった。何も考えず笑い続けたのは久しぶりのような気がした。


 風邪を引いていたのに居酒屋で酒を飲んだ。陣内に怒られながら熱心に看病された。


 合コンで不埒な視線を受けて気分を害した。グラスを傾けて陣内と一緒に笑い飛ばした。


 陣内の元カノをぶっ飛ばした。彼の心を踏みにじったクズを我は決して許さなかった。


 陣内が母にお供えの花をくれた。言葉少なく、同情や憐れみを感じさせない態度がとても嬉しかった。


 陣内の叔母に器量を見せつけるために、陣内と一緒の布団で寝た。あ奴が色欲を抑えようと必死になっているのは……不思議と不快ではなかった。


 4人で部室暮らしを始めた。酒を過剰に飲む陣内を見て、少し申し訳ない気持ちになった。


 我の口調を、陣内は気に入っていると言ってくれた。素の自分を肯定されたようで心が溶けそうになった。


 陣内が大怪我を負った。自分を大切にしなかった事に対して、視界が眩むほどの怒りを覚えた。


 陣内と仲直りをした。屈託のない顔で笑う彼を見て、照れてしまった。


 彼の隣に居る事への居心地の良さに惹かれた。陣内はいつも優しくて面白かった。


 我は、そんな陣内の事が────!!


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 地上波で流れている恋愛ドラマの一幕。その映像をテレビの前で見ているような気分であった。


「あ、あのね、陣内。こ、これ貰ってくれなーい?」

「え?」


 伏見稲荷大社。赤い木組みと緩い石階段。観光客が多いその場所で、2人は向き合っていた。


 西代がかわやに行きたいと言い、我はその間隙を縫うように御朱印ごしゅいんを貰いに行った。だから、その時……陣内と猫屋は2人きりだった。


「これ、なんだ?」

「か、香り袋ってやつー……」

「香り? …………うぉ、良い匂いがするな、これ!!」


 少しだけ離れた所で2人を眺める。


「でしょー? 香料を自分で選べたからー、シナモンとかドライフラワーを詰めたオリジナルブレンドにしたんだよねー」

「へぇ、そうなんだ。……甘い匂いは好きだぜ、俺」

「あはははーー!! 知ってるー!!」


 2人は我に気がつかずに仲良く話をしている。


「でも、急になんでだ?」

「あ、え、えっと、それはね……皆でペアの物が欲しかった、っていうかーね?」


 陣内が受け取った白色の香り袋。それは我らの物とは少しだけ毛色が違った。それには、ピンク色の糸で柄模様が刺繍されていた。


「…………お前ってたまにマジで可愛いよな」

「う、うぇーい!? な、なに言ってんの、じんなーい!?」

「いや、変な意味じゃなくてな。こう……なんだ? キャピキャピしてるというか女子力高いというか?」


 


「そ、そーう? わ、私って、ちゃんと女の子らしーいかな?」

「当たり前だろ。お前、鏡を見て来いよ。外側だけは可愛いのがいるはずだから」


 陣内は猫屋の為にあそこまでやった。


「え、えへへー。陣内ってやっぱり捻くれてるーー!!」


 視線の先で猫屋が陣内の腕を絡めとる。


 目に映るのは、甘く溶けるような表情。

 どこまでも幸せな感情と気持ち。

 共感できる、強い想い。


 やしろの一角で腕を組みあう2人の男女は、この世で最も綺麗な物に見えた。


「ば、馬鹿!? お前、右手使ってんじゃねぇよ!!」

「えー? だって陣内、私の右側にしか立たないじゃーん」

「うぐっ。お前それ気付いて……!?」

「あははははーー!! 当たり前じゃん、バーカ!!」


 猫屋はきっと……陣内の事が好きだ。


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「はぁ……はぁ……!!」


 走って逃げた。


 直視できずに、人混みをかき分けながら、その場から逃げだした。


「はぁ…………はぁ…………」


 そんなに走っていないはずなのに、息が荒い。


「お、お似合いで、ある、な」


 そう小声に出す。出さないと、ダメな気がしたから。


「あ、アル中とヤニカスのカップルとは、あはは、何とも奇天烈で、退廃的な組み合わせ、で…………」



 ──何故、猫屋なんじゃ。



 あやつ以外なら、認めなかった。邪魔をした。蹴落として略奪した。我は欲しい物を我慢できるタイプではない。策を弄し、狡猾に、どのような手段を使っても手に入れた。


 でも、猫屋はダメであろう?


 一緒に、何度、笑ったのであろうか。馬鹿をやった回数は数えきれない。怒られる時も、暴れる時も、いつも、一緒に、一緒に、何度も、何度も、何度も……!!


 2人から距離を離すようにして、走る。


 西代を探していた。


 今は落ち着くまで、気持ちの整理が着くまで、もう1人の友と居たかった。


 かわやの近くで首を振って、とにかく彼女を探す。荒い息を整える事もせず、彼女を見つけようとした。


 その時、何かが我の頬を伝った。生温い、何か。目を擦って手に付着したソレを見た。


「は?」


 涙だった。


 母の亡骸を目にした時から我の涙腺は壊れている。あの日から、まったく制御ができなくなってしまった。母に関する事を思い出すと勝手に涙ができるようになっていた。


 けど、コレは意味が分からなかった。母の事を考えたわけではない。なのに、勝手に瞳から涙が溢れていた。


「なんじゃこれは……?」


 今、涙が流れるのは違う。おかしい。


「だって、そんなの……」


 ただの色恋ざたと"母の死"が同格とでもいうのか?


「…………」


 母を■■■■にした■■もう3年前。だ■ら、罪の■■は薄■■とでも?


「……にししろ」


 嫌だ。


「どこじゃ。どこに、おる……」


 必死で周囲を見渡す。


「にししろ、どこにいるんじゃ……」


 オカシイ。胸が痛い。嫌じゃ。こんなのは嫌。考えたくない。これ以上は考えるべきじゃない。


 掻きむしりたくなるような切迫感。それに従って彼女を探した。そして、ようやく見知った人影を見つける。


「い、いた……!!」


 大勢の参拝客に紛れて、背丈の小さな西代がポツンと立っていた。見つけた瞬間、彼女に目掛けて一目散に走った。


「西代!!」

「え、安瀬?」


 飛び込む様にして西代に抱き着く。何でもいいから、誰でもいいから、いつもと変わらない者が欲しかった。


「は、え、あ、安瀬!? ど、どうしたんだい!?」

「違う!! これは違うからな!!」


 周りの目を憚らず、激情を彼女の胸の中で吐き出した。そうすれば、声は周りには聞こえない。陣内達までは聞こえない。


「す、少し、母の事を思い出しただけでござる!!」


 このナミダはチガウ。絶対にチガウ。


「母?」

「ぁ……」


 馬鹿だ。我は大馬鹿だ。母の事は陣内しか知らない。それを忘れて、涙の理由に母を使ってしまった。


 いや、そもそも、今の言い訳は、なんだ? 私は、自分の醜さの言い訳に母の死を利用するのか? そんな事に、都合よく、母の死を使うのか?


 母が死んでも子供のように母にすがるのか?


「ちが、あ、ちが、ぅ。これは、違う。何でもないからぁ」


 何が何だか分からなかった。胸を占領する苦しさが、私の心を引き裂いていた。母の事じゃないのに、意味が分からない。振られたわけではない。関係は何も変わっていない。友達の恋心を知っただけ……それだけの事なのに……!!


「…………大丈夫だよ」


 グチャグチャの脳内に、突如として西代の体温が沁み込んでくる。西代が、優しく我を包み込む様に抱きしめてくれた。


「分かるよって言うのは、ちょっとだけ図々しいかも知れないけど……僕にも、どうしようもなく泣きたくなる事がある」


 控えめな声音が我の耳に入ってくる。


「えっと、ね」


 西代は、何故か震えていた。抱き着いたまま顔を見ると、少しだけ不安そうな顔をしていた。彼女は震えたまま一呼吸だけ息をゆっくりと吐きだす。


「……僕、色々あって高校を退学しているんだ」

「っ!!」


 聞こえてきたのは自白じみた過去の話だった。


「辛かったことや後悔がいっぱいあるし、たまに思い出して死にたくなる…………もちろん、泣きたくなることもね」


 違う。違う。違う。そんな話じゃない。過去の話ではないんじゃ。


 西代は泣き喚く我に共感して、慰めてくれようとしている。自分の辛い過去の出来事を話して、寄り添ってくれようとしている。


 でも、違う。こんな物はただの失恋の話で……いや、失恋さえもしていない。だから、何でもないはずなのに。こんなに悲しくなるはずがないのに……!!


「昔は、僕もたまにそうなってた。訳も分からず、急に悲しくなることがあった」

「違うんじゃ。そうではないんじゃ!!」


 西代の告白を止めたくて、大声を出した。


 お願いだからやめて。こんな、こんなクズの為に、そんなこと言わないで。


「ううん。一緒だよ。辛いのなら一緒さ」


 強い意志が込められた否定。それと共に、西代の小さな手が頭に軽く被さった。


「辛い時は泣かないと。いっぱい泣いて、忘れてしまおう」

「そ、そんな。そんなのは……」


 許されない。嫌だ。泣くのは嫌じゃ。涙は嫌いだ。本来なら、我に泣く権利なんてない。


「安心してくれ。僕は、今日の事を2度と口に出さない。何が君の心をそこまでかき乱したのかなんて聞かない。君が落ち着いたら、全部元どおりさ……だからね、何も心配しないでくれ」


 西代の抱擁が強くなった。大切な物を包む様に、我を抱きしめてくれる。


「僕たちは、えっと、その…………友達だろう?」

「────ぁ」


 耳元で聞こえる、親友の口から出た友愛。



 その言葉が終わりを告げた。



「…………そ、ぅ、で、ござ、ござるな」


 涙はまだ止まらない。あぁ……でも、西代のおかげで気持ちの整理はついた。


 猫屋は大切な友人だ。


 まだ、1年と少しの付き合いではある。しかし20年以上生きて、この4人ほど気が合う奴らはいなかった。2年もの歳月を無駄に過ごした、品性も倫理もない、最低で碌でなしの4人組。


 4人で傷をなめ合うように馬鹿をやって過ごす日々は、甘露を味わうように幸せであった。


「あ、ぁりがとう……西代」


 言って、彼女の胸に顔を埋めた。


「いいんだ、安瀬。仕方ない時はある」


 忘れよう。


 きっと猫屋なら陣内と付き合いだしても、我らをあの家から追い出す事はしないであろう。関係は何も変わらず、たまに2人がイチャつくのを我らが茶化す。そのような楽しい日常がちゃんと続いていくはず。


 だから、忘れて、猫屋を応援しよう。邪魔なぞせずに猫屋の恋路を支えよう。


 それが、一番綺麗な散り方だと思った。

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