第40話 母の日


「なぁ、俺達って毎回こんな事してないか? コソコソ隠れて誰かを監視するみたいな……」

「今はそんな下らない話しをしている場合ではござらん。あの汚髭兄貴おひげあにきが若い女と逢引しとるんじゃぞ?」


 山梨県の某遊園。その園内で俺と安瀬は観賞用植物の生垣いけがきに身を隠して、安瀬の兄である陽光さんを尾行していた。


「別に普通の事なんじゃないのか?」


 俺たちの視線の先で、陽光さんは綺麗な女性と楽しそうに会話しながらアトラクションの待ち列に並んでいる。至って普通な成人カップルの姿に思える。


「ほら、見てみろよ。普通に楽しそうに話し合ってるぞ? 援助交際とか美人局つつもたせの類じゃないだろ?」

「いいや……! お主は分かっておらん。自堕落で放蕩ほうとうであり、得意分野と言えば柔道くらいしかないのが拙者の愚兄である。あの野蛮人にどうして恋人ができようものぞ!」

「今まで陽光さんに恋人はいなかったのか?」

「おらんかった! 部活ばっかりに熱心で色恋などまるで興味を示さなかったド変人である! それが今になって恋人ができるなど怪しさ満点でありんす!!」


 安瀬の話を聞く限りでは陽光さんは学生時代、真剣に部活に取り組んでいたらしい。素晴らしい青少年だったのだろう。だが社会人になり部活動などの打ち込めるものが無くなれば恋人ができることは当然に思える。安瀬の兄である陽光さんの容姿は当然優れている。休日にデートをしていても何の不思議もない。


「…………はぁ」


 俺は露骨に溜息をついて見せた。大好きな兄を見知らぬ女に取られて嫉妬している妹、といった図にしか見えない。酒でも飲まなければやってられないな。


 懐から水筒を取り出し中のアルコールを煽る。口内に穀物類の深い味わいが広がって心地よい。嫌酒薬の効果は1日経ってすでに消えているし、園内は飲酒可能だ。安心して酒を楽しめる。


「今日の中身は何かえ?」

「少しだけ加水したバランタインのファイネスト」

「我にも寄こせ」

「はいはい」


 俺は彼女の望むがままに水筒を手渡す。安瀬は俺が口をつけた水筒を何も躊躇せずグビグビと飲み下す。


 バランタインは度数40%のスコッチ。加水していると言っても中身はまだ30%近くある。スコッチの中では圧倒的に飲みやすいバランタインだが、それを苦も無く嚥下する安瀬の勇ましさには舌を巻く。


「ぷはっ……けっこう効くのう。気合が入るでやんす」

「何でもいいから俺達もアトラクションの列に並ぼうぜ? けっこう距離もあるからバレないだろ?」

「……まぁ、そうであるな」


 せっかく高い金を払って入園したのだ。このまま尾行に1日を費やすのは御免被る。


「む、ちょっと待つでござる」


 安瀬が俺の服を掴んで静止を促した。


「え、なんだよ?」

「あれを見るぜよ」


 そう言って彼女が指差したのは手押し屋台の売店だ。油で揚げたお菓子類や遊園地らしいカラフルな装飾品が売ってある。


「あれで変装するでござるよ」

「……え、そこまでするのか?」

「念には念を入れよ、である。金は拙者が出すから頼むでござるよ」

「別にいいよ。それくらいは自分で出す」

「ふむ……ならお主はここで待っておれ。買い出しくらいは拙者が受け持とう」


 そう言うと安瀬は俺を置いてスタスタと売店の列に並ぶ。まだ開園して早い時間の為か売店にそこまでの人は並んでいない。5分もしない内にお目当ての物は購入できるだろう。


 その時、スマホが静かに振動する。画面を見るとそこには西代からのメッセージが届いていた。


『そっちはどうだい?』


 俺達は猫屋と西代と行動を共にしてはいない。彼女たちは猫屋の妹である花梨ちゃんの方を監視している。


 俺はこちらの現状を伝えるためにメッセージを送信する。


『どうにも安瀬が暴走気味だ。兄に初めての恋人ができて心配で堪らないらしい』

『猫屋も似たようなモノさ。口では悪態をつきまくってるけど、妹に変な虫がついてないか心配しているよ』

『不器用な奴らだ』

『本当にね』


 俺と西代は1人っ子だ。兄弟姉妹を持つ者の感覚は正直よく分からないが、その家族愛に溢れるさまは少し微笑ましい。


『暴走しすぎないように俺達で見張っておこうぜ』

『そうだね。何かあったらまた連絡する』


「陣内っ!」


 西代との連絡が終わった瞬間、売店に行っていた安瀬が帰ってきた。


「おう、おかえ……う゛っ!」

「どうじゃ! 中々、ハイカラでござろう?」


 ハイカラと言われればその通りだと思う。毒々しい色で塗装されたサングラスにビカビカと過剰に光るカチューシャ。加えて、遊園地のマスコットぬいぐるみを安瀬は傍らに抱えている。


「おま、お前な……」


 修学旅行中の高校生でもそんな浮かれた恰好はしない。


「ほれ、お主の分も買って来てある。ぺ、ペアルックになってしまうが気にしないであろう?」

「ぐぇ!?」

「……なんじゃ? 何か文句でもあるのかえ?」

「いや、あの……ここまでやる必要があるのかなって」


 正直、遊園地の回し者のような恰好はしたくはない。


「当然であろう。お主も一応、兄貴とは面識があるんじゃから、やるなら徹底的にである」

「……ちなみに、コレらのお値段は?」

「お主の分だけで税込み4800円」

(た、たっか……!?)


 やはり、安瀬は完全に暴走している。普段ならこのような買い物にお金を費やす奴ではない。……というか、こんな物にお金を払いたくない。自分で言った事だが即座に撤回したい。


 しかし、そんな男として糞ダサい事を口にできるはずもなく。


「……はい、これ」


 俺は財布を取り出してお金を払い、渋々と奇々怪々グッズを身に纏うのだった。


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 くるくると回る無数の馬と荷馬車。ぴかぴかと綺麗に装飾された円環が何とも美しい。


「子供向けとは言え、酔ってると結構楽しいな」


 俺は上下する馬の玩具に跨って幻想的な体験を楽しんでいた。

程よい振動と風が何とも心地よい。


「ぐぬぬ……南瓜の馬車になんぞ乗って愉快そうに談笑しおって」


 俺のすぐ横で、奇人が忌々しそうに声を上げた。安瀬は和式馬術の立ち透かしもどきにより上半身を安定させ、双眼鏡で実の兄を監視している。馬術の話は先ほど並んでいる際に安瀬が楽しそうに解説してくれた。無駄な知識が増えた。


「仲良く話してちゃ駄目なのか?」

「…………あれ? そうじゃ、別にいいんじゃ……だがこの胸に去来する鬱陶しい感情は一体??」

「嫉妬だろ? 大好きなお兄ちゃんを取られて寂しい、みたいな」

「張ったおすぞ、アル中」

「へいへい、すいません」


 自覚がない感情に振り回される奴ほど面倒くさいものはない。


「むぅ、せめて相手の女子の情報が欲しい所である」

「あぁ、陽光さんの彼女さんか。美人だよなぁ」


 黒いロングの綺麗な髪をした大人の女性。大柄で目立つ陽光さんの隣に居ても目を引く存在感だ。


「ふん、あのように面が良い女という者は内面が腐っておると相場が決まっておる」

「……腐ってるとまでは言わないが、容姿が整っているほど変人の割合が多いと俺も思う」

「で、あろう?」


 トラブルメーカー、辛党ヤニカス、博打狂い。俺の心に居る美人たちは皆どこか気が触れている。


「そもそも、兄貴があのような女と出会った経路が想像できん」

「え、普通に職場とかで──」

「兄貴の職業はスポーツ新聞の記者じゃ。そんな場所、ほぼ男しかおらん」

「へー」


 そういえば、陽光さんは柔道3段というスポーツエリートだ。自身の経験を活かせる職というのは羨ましい限りだ。


「なら出会い系アプリとかで知り合ったんだろ? 最近、よく流行ってるしな」

「……我はああいうえにしを軽んじる物は好かん」

「お堅いな」


 俺たちは大学では情報……つまりはパソコン関係の技術を学んでいるわけだ。そう言った技術は日進月歩。流行り物には柔軟に対応する気質が求められると思うのだが。


「顔しか分からない者といきなり逢引きなどとは、我には考えられん」

「……言われてみれば確かに」

「もし出会い系なぞで知り合ったのなら、あの女が詐欺師である可能性すら考えられる」

「考えすぎだろ」

「それくらいの心意気で監視せよ、という事じゃ」

「はぁ……了解」


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 その後、執拗に陽光さんを監視する俺達。ほとんどの時間はアトラクションの列に並んでいるだけだったが、陽光さんたちは常にデートを楽しんでいる様子だった。強いて不審な点を挙げるとするなら、絶叫系のマシンに乗っていない事だけだ。


「なぁ、もういいんじゃないか? 凄く仲がよさそうだぞ??」

「…………」


 俺の事を無視して、安瀬はどんよりとした雰囲気で兄たちを眺めている。


「ありえん……兄貴に……恋人なんぞ……」


 ぶつぶつと呪言を周囲にまき散らしている安瀬。彼女がここまでのブラコンだとは思わなかった。


「ん、あれ? 二人が別れたぞ?」

「なにぃ?」


 陽光さんとその恋人が二手に分かれた。陽光さんはどこかに赴き、恋人はポツンと日陰の下で佇んでいる。トイレ休憩だろうか?


「チャンスじゃ!!」


 安瀬はその様子を見て溌剌はつらつとした声を上げた。


「陣内、あの婦人をナンパしてくるでござるよ!!」

「はぁ!?」

「あの女狐の本性をこれで暴いてくれようぞ!」

「いや、お前な……」

 

 支離滅裂な彼女の提案。気の多かった浪人時代でもナンパという不貞な行いはやった事がない。


「俺の容姿で見知らぬ女が釣れるわけがないだろうが」

「……え? いや、我は結構いけると思うんじゃが……」

「はぁ?」


 何をどう思ったら俺ごときがあの黒髪美人の気を引く事ができると思ったのだろうか。


「とにかく、俺は絶対にそんな事しな──」

「成功したあかつきにはハバナクラブの7年物を進呈しよう」

「大船に乗ったつもりで待っててくれ!! 酒でも飲みながらゆっくりとな!!」


 俺はなりふり構わずに持っていたバランタインを全て飲み干し、意気揚々と突貫を決行した。


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 結果は惨敗に終わった。


「……う゛゛、オエ゛゛。ぐ、ぐるじい……ここ゛ろが悲鳴をあ゛げているぅ゛」

「す、すまん、見当違いであった……まさかあそこまでとはのぅ」


 挨拶からの容姿褒め殺し作戦、気を引くために小粋なジョーク集、最終手段の1人漫才。その全てがあっけなく撃沈し、最後には冷笑と侮蔑の目をこの身に受ける羽目になった。


「ウ゛、ぐぉぉおおっ、や、やっぱり俺なんかにナンパなんぞ無理……どうせ俺は不細工で話も面白くないへちゃむくれなんだ……」


 俺は傷心の重圧に耐えきれず地に膝をつき、己が身の不幸を嘆く。恥と屈辱で心が張り裂けそうだ。


「そ、そんな事はないぞ? わ、我は、その……お主の事をいつも面白くて頼りがいのある2枚目だと思って──」

「酒ぇ……酒が飲みたい゛……俺の心の乾きを癒してくれるのはお酒だけだぁ……」

「…………そうかそうか」


 安瀬は懐から日本酒の2合瓶を取り出すと、なんとそれをそのまま俺の口にねじ込んできた。


「んぐっ!?」

「ほぉれ、たんと飲め。お主の大好きな、お、さ、け、じゃ!!」

「ごぼごぼごぼごぼっ!?」


 口内になだれ込む、切れ味の良い清酒の濁流。あまりの勢いに息ができず、酩酊とはまた違った方法で俺の意識が飛んでいきそうになる。


 酸欠に陥る前に、俺は安瀬の腕を掴みとり瓶を口元から強引に引きはがす。


「ぶはぁっ!! ……こ、殺す気かテメェ!!」

「ふんっ! そのまま酒の滝つぼに溺れるなら本望であろう?」


 悪びれない安瀬の太々しい態度。


「んだと……? お前の頼みだから仕方なくナンパしてきたんだぞ! このブラコン女!!」

「ぶっ!? だ、誰がブラコンじゃ!! この糞アル中め!!」

「言ったな、気狂い問題児!!」

「お主なんぞ唐変木の朴念仁のすけこましであろうが!!」

「うっせぇ馬鹿ッ!」

「阿保ッ!」

「ボケッ!!」

「間抜けッ!!」

「2人ともそのくらいで……」

「兄貴は黙っておれ!!」

「その通りだ! 陽光さんは黙って──」


「「……え??」」


 大声で罵りあう俺達の後ろから聞こえてきた優しい声音。声の方に振り向くと、そこには俺達が尾行していた陽光さんがいた。


「あ、兄貴……ど、どうしてここに……」

「それはこっちのセリフだ、桜。トイレから帰って来ようとしたら、2人が言い争っててビックリしたぞ……まさかデート場所が被ってるとは思わなかった」

「で、デートではござらん。誰がこんな偏屈なんぞと」

「あ、お前、また言ったな……!」

「まぁまぁ、陣内さんもそのくらいで」


 陽光さんが俺を宥めようと声をかけてくれる。


 ううむ、俺も兄の前で妹と喧嘩するほど気が強くはない。


「改めて、久しぶりですね陣内さん」


 渋々と矛を収める俺に対して、陽光さんが軽く頭を下げた。


「あ、はい。お久しぶりです……。前から思ってましたが、俺の方が年下なので敬語はちょっと……」

「ん、あぁ、そうか? まぁ梅治君がそう言うのなら、そうさせて──」

「何を呑気に話しておる!!」


 俺と陽光さんの社交辞令の場に安瀬が強引に割って入る。


「なんだよ桜。また大声をだして……」

「あそこで兄貴を待っているあの女子おなご! アレは一体全体、何でありんすか!!」


 安瀬は遠くでポツンと佇んでいる謎の黒髪女性を指差した。まぁ、順当に考えて彼女は陽光さんの恋人だろう。


「何って……嫁?」

「ぶっ!!??」

「お腹に子供もいる」

「こ、こっ! こっ! 子供ぉ!!??」


 今日一番の大声が安瀬から飛び出した。俺も安瀬と同じ気持ちだが、合点がいった。なぜ絶叫系のアトラクションに乗らずにいるのかと思っていたが、母体の影響を考えての事か。


「お、おめでとうございます陽光さん」

「はは、ありがとう梅治君」

「こっ!? こ……こっ!?」


 あまりの衝撃で安瀬が奇声を発するだけの人形に成り下がっている。


「陽光さんって若く見えますが何歳なんですか?」

「ん、あぁ、私は今年で24だよ」

「そ、それは随分と早婚ですね……」


 確か、日本人の平均結婚年齢は男性の場合だと30歳とかだったはずだ。平均と比べかなり早い。


「けっ! けっ、けっ!?」

「桜……いつまで驚いてるんだ?」

「だ、だって兄者あにじゃ! 正月の時はそんな事は一度もッ!!」

「そう言えば親父には報告したがお前は後回しになってたな。再来月あたりには式をあげるからそのつもりで予定を開けておいてくれ」

「…………」


 陽光さんから語られる衝撃的な話を受け、安瀬はポカンと口を開けたまま固まってしまった。


「おーーい、桜?」

「…………」

「完全に思考が停止してますね」

「まいったな。会ったついでに嫁さんを紹介しておこうと思ったんだけど……」

「この調子じゃ無理だと思いますよ?」


 このブラコンが急にできた兄嫁の存在を今の精神状態で受け入れられるとは思わない。


「はぁ……我が妹ながら情けない。……これ以上、アイツを待たせるわけにもいかないし私はもう行くよ」

「あ、はい……その、デート中にご迷惑おかけしました」


 俺は陽光さんに頭を下げる。恐らく、これから忙しくなる前に2人きりで思い出を作りに来たのだろうが、そこを俺達が邪魔してしまった。俺に至っては陽光さんの知らない所でナンパまでしたので非常に心苦しい。


「あぁ、気にしないでいいよ……そうだ、梅治君も是非、桜と一緒に式に参列してくれないか?」

「え、あ、俺もですか?」

「もし良かったらね。式に呼ぶのは私と嫁さんの知人ばかりだから桜も梅治君がいた方が楽しいだろう……コレ、私の連絡先だから参加するなら連絡してくれ」


 そう言って陽光さんは俺に白い名刺を手渡してくる。


「あ、ありがとうございます」


 俺はそれを受け取って財布の中にしまった。


「じゃあ、私は戻るよ。……桜とのデートを楽しんでくれ」

「え!? あ、いや……」

「ははは! また会おう未来の兄弟!」


 陽光さんは豪快に笑いながら俺達の前から去って行った。紳士ぶっていても偶にお茶目なところが安瀬によく似ているな。


「陽光さん、俺たちの関係を勘違いしてるよな。……なぁ、安瀬?」

「こ、こ、子供。兄貴にこ、こ、こぉ……」

「お前、どんだけショックなんだよ」

「…………」


 安瀬の放心状態はまだ続いていた。

石像になってしまったコイツをどうやって正気に戻せばいいんだろうか?


************************************************************


 上空から見る日本で一番大きな山。立派な富士山を背景に、緩慢な速度でゴンドラは回る。安瀬の気分を落ち着かせるため、俺たちは観覧車に乗っていた。


「綺麗な景色だな」

「……そうであるな」

「お前は広島出身だから富士山をこんなに近くで見る機会なかったろ?」

「……今はあんな山どうでもいいぜよ」


 2人で外の景色を眺める。標高が高くなるにつれて安瀬の様子は落ち着いていった。口数が少なく、不機嫌そうであるが、この状態ならゆっくりと話しができそうだ。


「しかし、驚いたな。結婚式に招待されたのなんて初めてだ」


 あえて、陽光さんの話題を蒸し返す。突然の事態で混乱している安瀬に冷静に現実を受け止めて欲しかった。


「ご祝儀ってどれくらい包めばいいんだ? 3万円ぐらいか?」

「我への連絡を蔑ろにする不心得者への祝儀なぞ300円で良い」


 安瀬の辛辣な言葉。先ほどまでのブラコンっぷりはすっかりどこかに消え失せていた。


「……まぁ、ちょっと話が急な気がするが、そこまで怒らなくても──」

「勘違いするでない。拙者ほど兄貴の結婚を喜んでいる者はいないでありんす」

「……本当に?」

「くどい」


 なら、なぜ彼女は不機嫌そうなのだろうか。


「……先に母の本懐ほんかいげるのは我だと思っておった」


 突然、安瀬の綺麗な瞳から一滴の涙が零れた。


「…………」


 彼女は自身の急な変化に気が付いていない。それを見て、事情を知っている俺は余計な感情を全て消した。


「……ん? あぁ、見苦しいものをみせたな。無意識じゃ、許せ」

「…………それは見苦しいものなんかじゃないだろ」

「そうかえ? ……未だにこのありさまである。あれからもう3年も経つというのに……我ながら情けない」



 安瀬桜の母親は、3年前に死去している。



 安瀬が18歳の時分に急死したらしい。その不幸は、強く明るい彼女でも耐えきることができず心に深い傷を残していた。


「情けなくなんてない……母親を想って涙を流せるお前は何よりも綺麗だよ」

「ふん、そんな歯が浮くようなセリフをよく口にできるでござるな」

「うるさい、本心なんだから仕方ないだろ」

「…………ふふ、本当に阿呆じゃ」


 安瀬はクツクツと静かに笑う。安瀬の態度はいつもと何ら変わらない。しかし、瞳から流れる涙は決しておさまることはない。


「……そっちに行って良いでありんす?」

「あぁ、遠慮すんなよ水臭い」


 俺の許可をわざわざ取って、安瀬は隣に移ってくる。古臭いゴンドラが体重の変動によりギィっと音を立てた。


「余計な慰めは決してするでないぞ」


 そう言って、安瀬は身体から力を抜き俺の肩に頭を預ける。


「誰がそんな事するか」


 下手な気を遣わず、同情しない。ただ安瀬が居心地が良いと思えるように自然体に振る舞う。それが弱みを見せたがらない安瀬に対して、これから俺ができる精一杯の配慮だ。


「お主と母の話をするのは何時ぶりの事であろうか」


 安瀬は静かな声音で昔を思い出す。


「確か、去年のだったろ。入学してすぐの頃だ」

「そうか、もうそんなに立つのであるな。光陰矢の如しとはよく言ったものでありんす」

「あの頃はバラバラで仲が悪かったよな、俺達」

「ははっ、そうでござるな。猫屋は何故か荒れてて、西代は無口な一匹狼、我は転学のためにずっと図書室で勉強漬けであった」

「俺も最初はやたらとお前らを敵視してた……懐かしいな」


 俺たち4人は入学してすぐに意気投合した訳ではない。紆余曲折あって彼女達と仲良くなり、酒飲みモンスターズは俺の部屋に集まるようになった。


 安瀬の母親の事を知ったのは、俺と安瀬が初めて深く関わった時だ。


「時の流れは本当に早いぜよ……。あの兄貴に赤子ができるとは」

「おめでたい話だよな」

「そうであるな…………。それと同時に母の願いが叶う話でもある」

「願い? さっき言ってた本懐とやらか?」

「母は生前、孫を欲しがっておった」


 安瀬の涙はまだ止まらない。断続的に溢れ、彼女の端正な顔に水の通った跡を作る。


「自分の寿命が長くない事を悟って、孫の顔を一目見たかったのかもしれん」

「…………」

「だが、兄貴はあのように木偶の坊のド天然であろう? ……母の墓石に赤子を見せるのは、女である我の役目だと思っておった」


 安瀬にそのような強い使命感があったとは知りもしなかった。


「ただ、子とはそのような打算的な感情で作るものではない」

「愛の結晶と言うくらいだからな」

「その通りである。しかし、この我に相応しい伴侶なんぞ世界中を探してもいるかどうかわからんであろう?」

「はいはい」


 不遜な物言いで彼女はニヤリと笑う。落涙する彼女の強きな笑顔。俺もそれに釣られて微笑を浮かべる。


「大学を卒業するまでにつがいを見繕えなければ、精子バンクにでもお世話になろうと本気で思っていたくらいである」

「ははっ、お前らしいな」

「む、どこらへんがじゃ?」

「目の前にある強固な壁を自前の行動力で薙ぎ払おうとする所が」


 安瀬はやはり強い。自分で辛い過去に立ち向かう気高さがある。


「……物は言いようであるな。あぁ、もちろん今はそんな事は考えておらんぞ? 昔の我は本物の阿呆じゃったからな」

「今でも大して変わんないだろ」


 普段通りに、悪態をつく。


「ははっ、口を慎め下郎」


 入学当初の安瀬は今みたいに明るくは無かった。常に隙を感じさせない冷徹な口調で誰も引き寄せない独特な雰囲気を漂わせていた。今の安瀬を基準に考えると別人のようで、思い返すと少し痛々しい。


 無理をしていたのだと俺は思う。


「陽光さんは……」


 今の話を聞いて、俺の頭にある妄想が思い浮かんだ。


「うん?」

「お前のそういった強い所を見抜いてたんじゃないか?」

「え……?」


 母親の死が、これ以上安瀬の負担にならないように陽光さんは早期の結婚に踏み切ったのかもしれない。


 もちろん、自身の半生を共にする結婚相手を適当に選んだわけではないだろう。だが、陽光さんはまだ若く、急いで結婚をする必要はない。安瀬の心労を取り除くため無理に想い人との結婚を早めた。


 それには周囲の協力が必要不可欠なはずだ。結婚とは自身の周りの環境を大きく巻き込む祝い事。嫁家族、職場、友人。陽光さんはそれら全てに頭を下げて、説得していった。


 陽光さんは安瀬にその事を勘付かれたくなくて、恋人がいる事さえ言わなかったとは考えられないだろうか?


「……………」


 俺は自分の考えをこれ以上口に出す気はなかった。間違っている可能性の方が高い推測。だが、その可能性は確かに存在している。それをさとい安瀬が気づかない訳が無い。


「なぁ、陣内……」


 感情を読み取らせない声で安瀬が俺に話しかける。


「なんだ?」

「結婚式には猫屋と西代も呼ぶぜよ。母の話題が出るかもしれんが、あ奴らなら別に良い」

「……そうだな」

「お主はずっと我の傍にいて、この鬱陶しい涙を隠す盾になれ。主賓の妹が泣きっぱなしでは恰好がつかん」

「あぁ、分かった」


 安瀬は決して嗚咽や弱音を口には出さない。


「結婚式ではタダ酒が飲める、それが褒美で十分であろう」

「そんな物なくても、お前の頼みならどこでも行くよ」

「っ……今、そのように優しい事を言うではない、このうつけ」

「悪い、失言だった」


 俺は安瀬の顔から目を離した。

 

 彼女を可哀そうなどと思ってはいけない。

 安瀬は親が死ぬ事は誰しもが通る苦難だと考えている。自分だけが特別に苦しんでいる訳ではないと本気で思っているのだ。若くして親を亡くす苦痛が、平等な物であるはずが無いのに。


 安瀬は自身の不幸を特別扱いされて、慰められることをとにかく嫌う。


「この観覧車から降りる頃には涙も止まるであろう」

「うん、そうだな」

「だから……だから、この事は忘れて欲しいでありんす」

「あぁ、酒でも飲んですぐに忘れる。だからお前もこの記憶が飛ぶまで付き合ってくれ」


 慰めが許されないのなら、せめて逃げ道くらい提供させて欲しい。もっと力になってやりたいが、ただの友人である俺にできる事はそれくらいしかない。


「……ははっ、本当に陣内はどうしようもないアル中でござる」

「まぁな……でも、俺達らしくていいだろう?」

「で、あるな。降りたら猫屋達と合流するぜよ。猫屋の暴走をつまみに一杯やるでありんす」

「それは楽しそうだが、骨が折れそうだ」


 回るゴンドラが円の頂点に達する。


 その時、安瀬が抱きしめるようにして俺と腕を絡めた。体を押し付けるように寄りかかる安瀬に対して、俺は何も反応を返さない。


 ここで抱きしめ返すような下手な慰めを彼女はきっと望んでいない。

 

「後、どれくらい乗っていられるのじゃろうか」

「まぁ、10分くらいだろ」

「そうか、たった…………たったそれだけか」 


 そこからの10分間、俺たちは一言も喋る事は無かった。


************************************************************


 観覧車から降りて快晴な青空の下を2人でゆっくりと歩く。先ほどまでの雰囲気が残っていたため会話の口火を切ることが俺にはできなかった。


「さて、猫屋達はどこにいるでござる?」


 だが、俺とは正反対に安瀬はあっけらかんとした様子で話しかけてくる。


「……今、西代に連絡してる。というかもう昼頃だ。お腹がすいた。先に飯にしないか?」

「お、良いでござるな! 拙者、今日は蕎麦の気分でやんす」

「遊園地に蕎麦ってあるのか?」

「ん、まぁ、ないであろうな」

「和食がいいのなら丼物でいいだろ。それならフードコーナーで見たぜ?」

「うぅむ、仕方ない。今日はそれで手を打つで候」


 先ほどの出来事を本当に忘れてしまったかのように、俺たちは会話を続ける。


「じゃあ、アイツらにも連絡して一旦フードコーナーに集合するか」

「で、あるな……ところで猫屋の妹ってどんな感じでありんすか?」

「すっごい、猫屋と似てる。髪を染めてない猫屋って感じだ」

「ほぅ、それは恋人がいても不思議ではないな」

「それに加えて猫屋レベルの辛党」

「う、うぇ!? そ、それは彼氏がかわいそ…………」


************************************************************


 俺たちはその後、猫屋の暴走に付き合いながら遊園地を満喫した。


 俺は酔っ払いのふりをして花梨ちゃんの彼氏君に因縁をつけ、安瀬が猫屋の命令で彼氏君に逆ナンして、猫屋は彼氏君の食べ物に激辛香辛料をこっそりと忍ばせ、西代は無理やり連れ込まされたお化け屋敷で気絶した。


 そんな無茶苦茶をした結果、当たり前のように花梨ちゃんに尾行がバレて、猫屋姉妹のキャットファイトが勃発。本格的な格闘技戦が始まり、俺たちは制止するどころかどちらが勝つか賭け事を始めた。


 安瀬はその様を見て終始笑っていた。


 それだけで、この騒動の結果としては100点満点だ。

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