第33話 猫屋李花の受難②


 猫屋家の玄関前。俺達よりも年下に見える少女と、少女の母親と思わる人物が飛び出してきた。


 猫屋の母親と妹と思われる2人組。


李花りか! アンタ、ようやく彼氏ができたのかい! ……男っ気の無かったアンタがねぇ。ママは嬉しいよぉ……オヨヨ」

「姉ちゃん、女子高だったもんねー。やっぱ大学って出会い多いんだー」


 母親の方は俺の母さんと違い、まだかなり若そうに見える。女性の年齢を勝手に推測するのは失礼だが30代後半ぐらいに思えた。二人の子供がいるというのに、若々しくエネルギッシュに見える。


 妹と思われる方は、まるで垢の抜けてない猫屋だ。その緩い口調もあって、非常に姉によく似ている。きっと高校生くらいの年齢だろう。


「だーかーら!! 違うってーー!! 友達!! 友達だから!! 雨が降るから泊めてあげて欲しいって言ってるのー!!」


 俺達の関係を勘違いする2人に対して、猫屋は顔を赤くして必死に事情を説明する。帰宅早々、玄関前で楽しそうに大騒ぎ。猫屋が明るく育った理由がよく分かる。


「ほら、陣内もボーとしてないで何か話せーーー!!!」


 冷静に猫屋家について想い馳せる俺を見て、猫屋はこちらに話題を振る。どうやら、俺にも弁明を手伝えと言っているようだ。


 確かに、挨拶もせずに棒立ちは印象がよくない。今日はお世話になる予定なのだし、しっかりと自己紹介をしておこう。


「初めまして、陣内梅治と言います。ね……李花さんとは同じ学年でいつも仲良くしてもらっています」


 猫屋の家族に対して軽く頭を下げる。俺は酒飲みモンスターズの事を苗字で呼ぶ。恋人でもない女性を下の名前で呼ぶ事には抵抗があるからだ。しかし、今この場には猫屋が3人。誰の事か分からなくなりそうなので、猫屋の事を李花と呼ぶ事にした。


「これはどうもご丁寧に。あたしは母親の猫屋 勝美かつみ

「私は猫屋 花梨かりんねー、よろしくー」


 気っ風の良い姉御肌の母親と、ダウナーで少し背伸びしたような口調を見せる妹。

随分と個性的な家族だ。


「あ、はい。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくね。……それで、梅治君はいつから李花と付き合ってるんだい?」

「あ、いえ、俺達は本当にただの友達で、今日は急に大雨が降るという予報を見まして、それで、あの……」


 その続きを俺の口から出すのは図々しいように思えた。

異性の友人の家に泊めてくれと頼む男など本当にふてぶてしい。


「ほら、事前に連絡してたでしょー? 服取りに帰るってー! 陣内にバイク借りたのに大雨降りそうだから泊めてあげたいの! 別にいいでしょ、ママ?」


 猫屋が俺の代わりに事情を説明してくれた。

言いづらかったので助かる。


「あぁ、なんだ、そういう事かい。もちろんいいよ」


 勝美さんは少しがっかりした様子を見せたが、快く了承してくれた。

俺の両親もそうだったが、子供に恋人ができるというのは親としてはそこまで嬉しいものなのだろうか。


「バイクはガレージに適当に止めといてくれていいよ」

「もう私が止めといたよー」

「そうかい。アタシはこれから仕事で12時くらいまで帰ってこないから、李花、アンタがちゃんと梅治君をお持て成するんだよ」

「分かってるってー」


 勝美さんはどうやらこれから仕事のようだ。今日は土曜だから何かのサービス業の仕事に就いているのだろう。


「いえ、そんな、持て成すなんて。……どうかお構いなく」

「アハハ! いいんだよ気を使わなくて。李花の友達なら大歓迎だよ。ご飯はカレーがあるから、李花と仲良く食べておくれ」


 ……うん? カレー? 猫屋家の? え、大丈夫か、それ?


「それじゃあ、アタシはもう出るから」


 そう言うと勝美さんは俺の方を向いて、ポンっと俺の肩に手を置いた。


「災難だったね梅治君、今日は家でゆっくりしていきな。何か不便があったら李花に言いつければいいから」

「あ、いえ。どうもお気遣いありがとうございます」


 俺は自分の失礼な考えを心の底から恥じた。人様の家に泊まろうとして、なおかつご飯まで提供していただけるのだ。心の中であろうと、出てくるご飯にケチをつけるのは人として最低の行為だ。


「今日はお世話になります」


 俺は心を込めて、猫屋家の面々に対し深くお辞儀した。


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 ぐつぐつと煮えたぎる溶岩だまり。俺の目の前に出された皿を形容するなら、まさにそれだ。血の様に赤い、トロミのついた流動性の液体。気化した香辛料が目に入って、まだ一口も食べていないのに涙が出てきた。


 先ほどの発言を撤回させてもらおう。これは人の喰えるものではない。

サイボーグ、もしくは地球外生命体にしか食べられないような劇物だ。


「美味しそうーー!! 私、ママのカレー久しぶりー!」

「姉ちゃん、最後に帰ってきたの正月だからねー」


 地獄の窯で作られたような危険物を前にして、猫屋姉妹は嬉しそうに眼を光らせていた。どうやら、彼女たちは人間ではないらしい。


「な、なぁ、李花さん」

「ん? なーに、陣内」

「あの、申し訳ないんだけどさ…………牛乳ってある?」


 この猫屋印の激辛カレーをちゃんと食す気ではいる。人の家で出された食べ物を残すつもりはない。だがせめて、胃の粘膜に保護液を張らなくてはいけない。でないと、俺の胃が焼け落ちる。


「あーはいはい、全くもー。いつも思うけど、この程度の辛さで情けないよねー」


 やれやれといった風に彼女は肩をすくめる。

そのまま席を立って冷蔵庫から牛乳を取ってくれた。コップに注いで俺に渡してくれる。


「ほーい」

「ありがとよ。……あと、明日のバイクの運転も任せた」


 恐らく、牛乳を飲んでいたとしても、明日は確実に腹痛だろう。

バイクの運転に支障をきたしそうだ。


「え、いーの!? やったねー!!」

「…………」


 猫屋が無邪気に喜ぶ様子を、彼女の妹である花梨ちゃんがジーと眺めていた。


「姉ちゃんさー、マジで梅治さんと付き合ってないのー?」

「はぁ? カリン、何度言えば分かるのよー? 私達はそんなんじゃ──」

「手料理、振る舞ってあげてるのに? 『いつも』、『この程度の辛さ』ってことはさー、間違いなく姉ちゃんの手作り料理じゃーん」

「……友達と一緒の時に振る舞ってんのっ!!」


 妹の詮索を強引に振り切ると、猫屋はガツガツとカレーを食べ始めた。

ここは一応、俺もフォローを入れておこう。


「カリンちゃん……でいいかな? お姉さんの言ってる事は本当だよ。いつも同じ学科で遊んでる奴等と一緒にご飯を食べてるから」

「へぇーーそうなんだ。……姉ちゃんも大変だねー」

「……? なにがよー?」

「恋敵が多くてー」

「ふ゛゛っ!?」


 猫屋が盛大にむせ込んだ。

この激辛カレーが気管支に入ったら絶命すると思うんだが……


「ちょっと、カリン!! 友達の前でふざけたこと言ってると本気でぶっ飛ばすよーー!!」


 流石、猫屋。俺の心配をよそにピンピンとしている。

味蕾だけではなく、内臓器官までステンレス製のようだ。


「え、そーいう話じゃないの?」

「違うから! 陣内とは友達!! 私は恋愛とか興味なーい!!」

「はぁー、んだからさー……いい加減、男の1人くらい捕まえてきなよー」


 ピシっと猫屋の体が硬直する。

へー、妹さんには彼氏がいるのか。


「か、か、カリン……アンタ、いつの間にー……」

「半年くらい前からー。姉ちゃんには黙ってたー」

「な、なんでよー!?」

「いやーほらー、妹にそういった経験を追い越されるのは、姉としては傷ついちゃうかなーって」

「ぐっ!!」


 妹の危惧した通り、猫屋は結構ショックそうだった。


「男を家に連れて来たからー、そろそろ言ってもいいかなーって思ったけどー。なんか、ごめんねー姉ちゃん」

「う、ぐぬぬぬぅ」


 うん、なんかいいな。こういった姉妹の微笑ましいやり取り。俺は1人っ子だったから少し羨ましい。


「ハハハ、仲いいんだな2人。まぁでも、李花さんほどの器量良しならすぐに恋人くらい見つかるだろ。そんなに落ち込まなくていいんじゃないか?」


 適当に会話に混ざってみる事にする。

かわいそうなので、妹に馬鹿にされている猫屋をフォローしてやった。


「「………………」」


 猫屋姉妹が何故か黙って俺の顔をジッと見てくる。


 え、俺、なんか変な事を言っただろうか?

事実として、猫屋はモテる。この1年、他学科の男子に告白される所を俺は何度か見た事があった。


「……姉ちゃんも大変だねー」

「そうかもだけどー。……でも、別に、そ、そういうんじゃないからね」

「はいはーい」


 姉妹は彼女らだけに分かる会話をしながら、ガツガツとカレーを食べ始めた。

いったい、さっきの間は何だったんだろうか?


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 死ぬような思いをして何とかカレーを食べきった俺は、風呂を借り、その後猫屋の部屋に通された。


 シンプルな机とベット、空のガラス棚にクローゼット。それだけの簡素な部屋。酒飲みモンスターズの中では唯一女子っぽい彼女。それにしては、寂しい部屋だ。


「賃貸とはずいぶんと違う内装なんだな」


 以前、彼女の賃貸に訪れた事があるが、その時に見た彼女の部屋は女子力全開のキャピキャピした物だったと記憶している。


「まぁねー……子供部屋なんてそんなもんじゃなーい?」


 猫屋は俺の分の敷布団を敷いてくれながら、適当に答える。


「よく考えたら、俺の実家の部屋もベットと勉強机以外はゲームと漫画くらいしかなかったな」

「今はそこにー、酒の空きビンもあるんでしょー?」

「……よくお分かりで」


 成人してからの正月は西代が居たせいで、部屋で滅茶苦茶酒を飲んでいた。

未だにベッドの下には無数の酒瓶が転がっているだろう。


「今日はもう、お酒飲まないの?」

「い、今は口内に刺激物はちょっとな」


 それに、口内の痛みのおかげで性欲は一切湧かないだろうしな。


「猫屋は?」

「私、実家では酒も煙草もやらないんだー」

「え? ……なんでだ?」

「ママがうるさくてさー。飲みたいときは居酒屋に逃げるー」

「へー」


 世の中には子供と晩酌を楽しむ親もいれば、子供の健康を願って飲酒を咎める親もいる。そういう事だろう。


「愛されてるんだな」

「んー、そうなのかなー? でも、結局隠れて飲んで吸ってるし」

「ハハハ、親の心子知らずだな。まぁ、俺達も成人してるんだし、親に縛られる必要もないか」

「学費出してもらっててそれ言うー?」

「……最低限、留年だけはしないようにしようぜ」

「酒カスの私達にできる親孝行はそんなものかー」


 適当に冗談を言い合いながら、ケラケラと2人で笑う。


「あ、布団を勝手に引いたけど、もしかして私と同じベットで寝たかったかにゃー?」

「……はぁ? なんだ急に?」


 意味の分からない煽りを猫屋は言い出した。


「いやー、陣内ってば女子と共寝するの大好きじゃーん? だから今回も期待しちゃってたのかなーって」

「おい、なんで俺が女子と同衾するのが好きなキャラになってるんだよ」

「西代ちゃんと安瀬ちゃんと寝てたからー。今日は私と一緒に寝て、コンプリートを狙ってるんでしょー?」

「変な邪推は止めろ、阿呆」


 なんだコンプリートって。

お前たちのどこにコンプリートして嬉しい要素がある。


「はぁー……布団ありがとよ」


 一応、お礼を言って猫屋の敷いてくれた布団にドスンと横たわった。

今日は楽しかったが、疲れた。早めに就寝したい。


「……ん?」


 寝そべった態勢になった事によって、ベットの下が目に入った。

そこで手袋のような物を発見した。恐らく猫屋の私物だろう。布製のように見えるし変な物ではあるまい。


 俺は何も考えずに手をベットの下に入れて、それを引っ張り出し、猫屋に突き付けた。


「なんか落ちてたぞ、ほれ」





 猫屋の顔が酷く歪んだ。





 彼女の急な表情の変化を見て、俺は固まる。

明るい彼女の辛そうで苦々しい表情。俺は猫屋と知り合って半年以上が経つが、そんな彼女の顔は見た事が無かった。


「あーあ……全部、捨てたと思ってたのになぁー」


 彼女の声は低かった。

心底、不愉快そうな目で俺が取り出したものを見ていた。


「わ、悪い! 勝手にベットの下を漁ったりして……!」


 俺はすぐに謝った。何が彼女を不快にしたのかは分からないが、とにかく謝らなければいけないと思ったからだ。猫屋が俺のせいで嫌な思いをした。

それだけで針の筵に座った気分になる。


「…………」


 彼女は俺の手から手袋のような何かを受け取った。

そして、握ったそれを勢いよくゴミ箱に向かって投げつけた。


 ゴミ箱が投げつけられた物の勢いに耐え切れず、バタンと倒れる。


 俺は呆気に取られていた。何が彼女の琴線に触れたのか分からない。

正確に言えば、きっかけは分かる。先ほど投げられたあの何かだ。


「……凄いよね、陣内は」


 下に俯いて猫屋はポツリと呟いた。内容は意味が分からなった。


 俺が? 凄い? 何で? 俺は今、友の怒りの原因すらわからなくて情けなく狼狽えているというのに。パンチの効いた皮肉だろうか?


「皆で群馬旅行に行った時さー、私の、……私の無神経で馬鹿な質問に答えてくれたじゃん。辛い過去の話なんて、したくも無かったでしょ?」


 群馬旅行と辛い過去。彼女が言っているのは、俺と猫屋が深夜に旅館で2人きりで飲んでいた時の話か。確かに、あの時、俺は自身の過去について少しだけ話した。


「私はさー……、少しも話す勇気が出ないんだよね」


 彼女の声はどこまでも暗い。聞きたくない。何か不快な思いをさせたのなら謝るから、いつもの明るい猫屋に戻って欲しい。


「皆に運動神経が良いって褒められて、昔、? って聞かれた時とかさ」


 これは恐らく、彼女の暗い過去の話だ。


「……別に、いいじゃないか。人に言いたくない事なんて、生きてればいっぱいあるだろう? それに、辛い過去を話す人が凄いなんて事は絶対にないよ」


 俺は言葉を選びながら彼女に相槌を打つ。

思い出したくない暗い過去は、蓋をして墓場まで持っていけばいい。


 しかし、彼女は俺の言葉など耳に入っていないかのように話を続ける。


「聞かれるたびに、馬鹿みたいに、ヒミツなんて言って誤魔化して、さ。別にそんな大したことじゃないのにね」


 俺には彼女の思いが痛いほどよく分かった。


「俺だってそうだ。たかが女にふられただけだ。恥ずかしくて情けなくて、何も凄い事なんて無い。お前たちに助けて貰ったおかげでやっと吹っ切れたくらいだ」

「私なんて、もっと、下らないよ」


 猫屋は自身を徹底的に卑下する。

見ていられない。


「……それを決めるのはきっと他人じゃない。お前自身なんだ。猫屋にとって、何が大切だったかなんだよ」

「っ、は、はははー! 良いこと言うね、陣内!」


 俺の方を見ずに俯いて空虚に笑う彼女。


 俺が見つけた物は、多分、猫屋にとってのトラウマだった。

俺は彼女の柔らかく腐った心の一部に土足で踏み込んだ。


「なぁ猫屋……本当にごめん! 俺が変なこと──」

「謝らないでッ!!」


 絶叫。


 俺の謝罪は彼女の大声で掻き消された。


「あ、ご、ごめんね? 本当に下らない話だから、ね? 陣内が謝る事ないよ」


 申し訳なさそうに俺に謝る彼女。


 なら、なんで、そんなに苦しそうなんだ。


「ねぇ、聞いてもらえる? 私もさ、陣内みたいに勇気をだしたい……」

「お前の話なら何でも聞くよ」

「……本当にやさしいねー! 陣内は!」


 口調を戻して彼女は明るく振る舞った。

気を使っている俺の様子を察したのだろう。


 違う、本当に優しいのはお前だ。

俺はお前の底を抜けて優しい性格を知っている。


「……猿腕さるうでって知ってる?」

「え、いや、悪い。知らない」

「そっか。肘の可動域が人より広い事を言うんだけどね、私がそうだったんだー」


 そう言って彼女は自身の左腕を水平に伸ばした。

その腕は、肘の所からくの字に大きく曲がっている。確かに、一般的な可動域ではない。


「ちょっと気持ち悪いでしょ?」

「んなことねぇよ」


 俺は彼女の自虐を強く否定した。

猫屋はどこを切り取っても綺麗だ。


「アハハ、ありがと。そ、それでさ、実は私、んだー」

「……そうか」

「うん、防具着けて打ち合うやつでね。あ、さっき投げたのは昔使ってた拳サポーターなんだ」

「へぇ、そんなのがあるんだな」

「うん。そ、それでね、……私、強かったんだー! 肘のせいか拳の軌跡が予想されずらくて、面白いように打撃が通ってー。あ、ママの仕事がキックボクシングジムのインストラクターでね? 小さい頃から格闘技を習ってた事も相まってさー」


 懐かしい過去を思い出すように彼女は語る。


「本当に、凄かったんだよー、私! た、大会とか全部、優勝! 50キロ級の全日本強化選手に選ばれたりしてさー! 本当に無敵だったんだー!!」

「……やっぱり、お前、凄いヤツだったんだな」


 猫屋は一見すると楽し気に自身の過去を話している。凄い話だった。彼女は如何にも自分には才能があったように話すが、その結果を叩きだすには並大抵の努力では足りなかっただろう。誇りたくなる事が当然の自慢話。


 だが、俺には虚構にしか感じられない。

彼女の張り付けた笑顔の下は、苦痛で歪んでいるようにしか思えない。


「でもね、高校3年の最後の大会。その1試合目で


 猫屋の目が死ぬ。


「猫屋」

「偶然だったんだ。私が右腕を振りぬいたとき、相手の子が拳を避けようとしてつまずいた」

「猫屋、辛いならもう……」

「伸びきった私の腕を、相手の子が巻き込みながら、倒れて」


 暗い、暗い、闇に沈む両眼。

その深い闇に一縷の光が見えた。

涙が光って流れ落ちていた。


「それで、開放骨折」


 俺は思わず目をつむり顔をそむけた。

彼女の骨が、皮膚を突き破ったその瞬間を想像してしまった。


「そこからは、そこからは、……り、りは、リハビリを、して──」


 猫屋の目から大粒の涙が滝のようにあふれ出した。彼女の言うリハビリが上手くいかなかった事は一緒に大学生活を過ごしている俺には分かった。辛いのだ。思い出す事が本当に辛くて苦しいのだ。


 見ていられなくて、俺は急いで彼女を抱きしめる。


「そうか、そうか! お前は頑張ったんだなッ!! 肘が折れても諦めずリハビリして! 必死にッ!!」


 俺も泣いていた。泣きながら彼女を必死で肯定した。


「ぅん、……うん! 私ね! 高校卒業しても諦められなくてッ!! でも、でも、全然治んなくてッ!! 前みたいに動かなくってッ!!」


 そんな不幸が無くてもいいではないか。

昔から彼女は優しい奴で努力家だったのだろう。だから、そんな何もかも奪い去るような不幸など彼女に与えなくていいはずだ。


「全部! 全部が嫌になってっ! だから、トロフィーとか道具とか全部捨てて、煙草を一杯吸って全部台無しにしてやった!!」


 俺と同じだ。逃避の為に酒に頼った俺と同じ。

だが、彼女のショックは俺とは比べ物にはならなかっただろう。彼女の半生にも及ぶ努力は、たった一度の事故で全て無に帰したんだ。苦しくて、振り返りたくもない過去。大学に入って、なんとか前に向かって進みだしたけど、足枷のように絡みついてくる辛い過去。


 だから、吐き出したいんだ。これは急な告白ではない。きっかけは何でも良い。俺の時は淳司との喧嘩だった。恥ずかしいけど、打ち明けて、完全に過去のものにしてしまいたいんだ。でないと、心の底から笑って進めない。


「頑張ったんだなぁ、猫屋……本当に、凄く……」

「でもっ! わた、私は結局、あきらめて──」


 自身を否定する彼女を俺は強く抱きしめた。

必死に努力して苦しんだ彼女の事が愛おしくて仕方なかった。


「いいや、お前は頑張ったんだ。逃げたんじゃない。不幸な事故にあって、でもちゃんと立ち直って、前に向かって歩き出せたんだよ」

「っ!!」


 俺を助けてくれた彼女の全てを肯定してあげたかった。


「お前は誰よりも立派だ。俺は心からお前を尊敬するよ」


 お前は誰よりも凄い奴なんだって、言ってやりたかった。


「っ、ひ、う、うぁぁぁぁあああああああん!! あり、ありが、ありがとうっ! ありがとう、陣内!!」


 彼女は俺の胸の中で大声を上げて泣いた。

俺は黙って彼女が泣き止むまで抱きしめ、幼子にしてやるように頭をなで続けた。


************************************************************


 涙が止まった猫屋はそのまま俺に抱き着いて離れなかった。俺も暗い過去をすべて吐き出した不安定な彼女を離す気にはなれず、抱き合ったままベットに横になった。


 俺たちは何も言わず、ただ横たわっている。


「ねぇ、起きてる?」

「あぁ」


 しばらくの間、会話の無かった俺達。

しかし、猫屋が会話のきっかけを作った。


「ごめんね? 急に、見苦しい所みせて」

「いや、その原因を作ったのは俺だろ? 俺がお前に昔を思い出させたのが悪い」


 俺が彼女のベットの下に手を突っ込まなければ、彼女は涙を流さなかっただろう。


「でも、そのおかげでスッキリした。ありがとっ」

「嘘でもそう言ってくれると助かる」

「ほ、本当だからねー! こんなに本音をさらけ出した事、家族にもないんだからー」

「あぁ、なんか分かる。俺も自分の体質の事を家族に言ってないし」


 受験に失敗して迷惑をかけたせいなのか、それとも単純に家族には話づらいの内容だと感じているのかは分からないが、暗い過去という物は親には相談しづらい。


「……私と陣内ってさ、少し似てるよね」

「俺と、猫屋が? どこらへんがだよ?」

「見栄っ張りでー、偏屈なところー」

「おい、お前な」


 猫屋の自虐とも罵倒ともとれる発言。だが、偏屈は彼女には当てはまっていない様に思える。確かに、俺は偏屈な所があるかもしれないが、猫屋は素直な方だ。


「空手を諦めた後はさー、別の何かで穴埋めするように、メイクの勉強したりお洒落して遊んだんだー」

「……俺も振られた後、必死に別の女を探そうとした」

「ほらー、やっぱり似てるー」

「ははっ、確かにな」


 猫屋は嬉しそうに笑った。それに釣られて俺も笑った。

傷をなめ合うように寄り添う俺達。不思議と悪い気分ではない。


「……私、さ」

「なんだ?」

「多分、もう、言えるよ。昔、空手やってたんだって」


 先ほど、全ての膿を彼女は吐き出した。

他の人が自身の過去に触れても、平気になったのだろう。


「……そうか。多分、2人とも驚くぜ。強化選手に選ばれるくらいなんだから」

「えへへー、そうだよねー。私、本当に凄かったんだー」

「今でも、お前は十分凄いよ。運動神経が半端じゃない。たまに見惚れる」

「……あ、ありがとー」


 俺の胸の中で彼女はポリポリと頬を掻く。

どうやら落ち着いてきたらしい。


「あ、でも、これで私の言った通りになったねー?」

「? 何がだ?」

「私達全員と一緒の布団で寝た事になるじゃん。やーい、陣内の女たらしー」


 良かった、いつもの猫屋だ。

俺を揶揄って笑う、憎たらしい俺の大切な親友。


「うるせぇな。あれは全部、不慮の事故だ」

「という癖にー、今回は私から離れないんだー」


 確かに、俺は彼女を未だに抱きしめたままだ。

だがこれは、下卑た目的のある拘束ではない。

親愛を伝える事を目的とした、友愛の抱擁だ。


「……辛い時は誰かが傍にいなくちゃな」

「っ」


 猫屋に教わった事だ。文化祭で傷ついた俺を、彼女は傍にいる事で励まそうとした。まぁ、結局、俺はその救いの手を振り払ってしまったわけだが。


 だから、今回は俺の番だ。


「覚えててくれたんだ」

「忘れるかよ。あの時は……ありがとうな」

「ううん、私も、今、ありがとう」


 礼を言い合って、俺たちは再び強く抱き合った。

お互いの体温がどこまでも溶けていき心地が良い。


 泣き疲れた子供と同じように背を丸める。外ではザァーザァーと雨が降っていた。雨音が良い子守歌になり、よく眠れそうだ。


 今日、俺は猫屋の辛い過去を知った。そして、彼女はまた一歩先に進むことができたようだ。


 その補助が少しでもできたという事が、俺には死ぬほど誇らしくて嬉しかった。


************************************************************


 ──カチャリ


 錠前はまた一つ外れる。

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