その4 ここに女神からお借りした筆記用具があります
目の前には原稿用紙が置かれていた。一枚や二枚ではない。数えたくもないほどの厚さである。
真新しいわけではないが、なかなかに色合いが落ち着く印象の座卓の前で胡坐をかいて原稿用紙に向かうことになった。
万年筆も置かれていた。使ったことなどありゃしない。だから、艶やかなそれがいかほどするのか見当もつかないが、いかにも文豪っぽい感じになれるのなら、筆不精であっても何かしらの名文がかけるのではないだろうか。
万年筆をもって書き始めようとしたが、浮かんで来やしない。あれこれ考えてみる。考えている風にしてみる。プロットも資料もないのだ。
ハタと思いついて書き始めた。半ページ行きそうになって止まった。万年筆を置いて原稿用紙を丸めて脇にポイと投げた。なんかこういうのも文豪っぽい。書いてみる。半ページくらいで止まる。原稿用紙丸める、ポイする。書く、半ページ、丸める、ポイ。
何度繰り返しただろうか。丸めた原稿用紙の数を数えれば、それは簡単に明示できる。けれどもしなかった。
「やっぱ、万年筆ってのは慣れてないからな。ボールペンがいいな」
高価そうな万年筆を指でつまんで持ち上げながらそんなことを言った。万年筆がボールペンに変わった。
タイトルから書き直してみた。サラリとした軽妙に綴ることできた。書き心地がいいなんて初めてだった。そんな興奮で続けると、一ページを楽勝に書けた。二ページ目に入った。一行書いて、二行目の途中で止まってしまった。また。原稿用紙を二枚まとめて丸めた。ポイとした。
気を取り直してタイトルを書いて、書き始めた。筆が進む。一ページ楽勝、二ページ目の半分クリア、二ページをどうにか辛勝した。この勢いを三枚目にぶち当ててみた。半分を過ぎて止まった。丸めた、三枚。ポイとした。
原稿用紙の厚さをつまんだ。確認だった。げんなりした。音にならないため息だった。ふと見上げると女神がそばにいた。冷たい目をしていると思った。いや、あるいは哀れみなのかもしれなかった。タイトルを「金の転生」にしても、「銀の転生」にしても、ろくすっぽ書けないのだ。原稿用紙マックス三枚なんて書いたうちにすら入らない。
女神は与えた機会をぞんざいにしているとあきれているのかもしれなかった。そのせいだろうか、女神はスウッと肘から指先を上の方に上げた。原稿用紙が舞い上がった。雪のように降って来る原稿用紙はこんな枚数もあったのかと逆ギレしたくなるほど積もって行った。このまま降り続ければこの身さえ原稿用紙に埋もれてしまいかねなかった。もう鼻が隠れて息ができなくなると思った。女神は窒息死を狙っているのかといまさらになって打開策をと動こうとした。瞬く間にもう原稿用紙の積雪はすっかりなくなっていた。座卓の上には原稿用紙が置かれていた。文字がびっしり書かれてあった。気づくとボールペンは赤いインクのボールペンになっていた。
原稿用紙をひとまず読んでみることにした。読み進めると、記憶の中の思い出が浮かんできた。頭の中に再起されているはずなのに、映画でも動画でも見ているような錯覚になっていた。文章の卓越さと言ったらそこまでなのだろうが、まさに目がそう見ていた。目ばかりではない。遠足のお弁当がうまかった、味覚もあった。文化祭のクラスの出し物の劇でセリフが飛んでしまった、恥ずかしさもあった。今考えればデートだろと思えるような女子とのお出かけ、鼓動もあった。勉強したのにテストで芳しくなかった、悔しさと挽回したろうと言う若干のやる気があった。
文章を読むと気持ちが波となった。乗り物が得意な方ではない。だから仮に船に乗ったら確実に船酔いをするだろう。酔い止めを飲む、出航間もなく寝るなどなど対策を取るだろう。と同時に穏やかな波を望む。同じだ。穏やかな波がいい。酔わないように、酔っているかどうか大丈夫かなと気にかけないように、吐かないように。
ん? と思う箇所が出て来た。こんなことあったろうか、こんなこと言うはずはない、こんなことするはずがない。思わず赤いボールペンで二重線を引いていた。書き込もうとして、はっとして女神を見上げた。鉄面皮を見下すような視線。
それを見なかった風にごまかすようにまた読み続けることにした。ほどなく止まった。読むことも止まった。動悸がする。激しい動悸がし出した。読めない、これ以上は。見たくない。思い出したくない。赤いボールペンはこれから二重線を引かない。書くのは×だ。原稿用紙がびしょびしょになるほどのインクを漏らすかもしれない。あるいは書いてしまえば原稿用紙が無残なまでにぐしゃぐしゃになる力がこもってしまうかもしれなかった。
赤いボールペンを動かそうとして、勢いよく女神を見上げた。
女神は薄ら笑いを浮かべていた。
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