7話 征道の過去

 琴子の弟の宗次むねつぐが母の家出を騒いだので、高ノ倉たかのくら征道まさみちの母が静江しずえ叔母さんの家までやってきた。


「申し訳ございません。こんな夜遅く、家のゴタゴタで来てもらって本当に心苦しいです。母はもう部屋で休んでいて。今、部屋を片付けておりますので、縁側で待っていてください」

 琴子は深々と頭を下げる。征道の母は手を軽く振って、


「あら、気にしないで~。高ノ倉家は理由ないと、外出できないからね。本当に縁側でいいのよ。すぐ帰ります。連絡くれた宗次さん、いい子よね」

 征道の母は、静江叔母さんと似ていておしゃべりが好きそうな感じの人だった。


「はぁ……我が弟ながら恥ずかしいです」

「いいのよ。長いこと夫婦していると、よくあることじゃない」

「……」


「それとね、ちょうどよかった、琴子さんに高ノ倉家に来る前に言っておきたいことがあるの。息子の征道さんのことね。あなたも座ってちょうだい」

「は、はい……」



「……」

 急に義母は静かになり、鈴虫が鳴く声が大きく聞こえる。

(今日は、ちょっと色々なことありすぎで頭が……征道さんのこと?)


「あの子、大学時代に花街に通っていたことがあるの」


(花街。女好き。これは容認してほしい、という話かしら?)


「そこで、征道は貧しくて花街で働く名波なみさんという女子に出会って恋に落ちたの」

「え?」



「若い二人は線香花火のような恋だったと思う。放っておけば静かに消えちゃうような……」


「……」

「だけど、わたしはね、いい家柄の出じゃないのに高ノ倉に嫁いだものだから、その負い目もあって、貧しい名波さんに既成事実を作られても困るからと、大反対しちゃったの」

「……」

「そうすると、素直に育った息子の初めての反抗期なのか、征道さんは名波さんと駆け落ちしたの」


征道さんが、駆け落ち……?)



 はらはら……。


 桜が舞う日、琴子を見下ろす征道を思い出す。話し方も軽い感じで一方的にまくしたてるように話し、余裕でこちらを見ていた―。


「大学にも行かず、安アパート借りて、金もない駆け落ちはね、結果が見えているの。何不自由なく育った息子でしょ。その時に、はじめて貧乏がどういうことか、味わったの。明日の食べる物や着る物に困って、次第に心も荒み、二人は喧嘩するようになって……」

「……」

「名波さんは病気になってしまった」


「え……」

「お金がないと薬が買えない、病院にも行けない。そこで征道はわたしたちに懇願した」

「それで……」

「彼女と別れるからどうか命を助けてほしい―。と」

「そんなことを……」

「私たちは条件を飲み、名波さんを入院させ、征道には大学に復学してもらった。元気になった名波さんに手切れ金を渡したら、彼女は征道の元から姿を消したの」


「別れた後、征道はふさぎ込んで、取り乱して……。こんなことになるなら、交際を認めてあげればよかったと、今は思うのよ」

 暗がりの縁側で涙声だけが響く。少し冷たい風が吹いてきた。


「……」

「あの子、今でも花街に行くけど、女と遊ぶためじゃないのよ。まあ、多少はあるかもしれないけど、花街でも更に最下層のところで、学校に通えない子供たちに読み書きを教えているの。名波さんがそうだったから」

「……え」

「今はもう征道は立ち直って、うちの会社で働くようになったけど、お見合い話はまとまらなかった。一年前、展覧会であなたの絵をずっと見ていた。だから、わたしは、琴子さんをお嫁に勧めた……」

「どうして……私の絵を征道さんは見ていたのですか?」

「さあね、それは直接、本人に聞いたらどうかしら」



「母さん、琴子さんになに吹き込んでいるの?」

「!」

 ムスッとした顔で征道は縁側に座っている私たちを見下ろした。



 ***



 その夜、静江叔母さんと高ノ倉征道の母が意気投合して、泊まることになった。琴子も泊まる予定だったが、あるはずのお客さま用の布団が足りないからと、琴子は追い出されてしまった。


「夜遅いし、送るよ」


 征道はボソッという。桜舞う、結納の日の時のように、余裕しゃくしゃくで琴子に饒舌だった征道は消え、黙ったまま歩く。夕日町ゆうひまちの夜道は街に近いとはいえ、街灯もなく真っ暗だった。


「あの……」

 おそるおそる琴子は征道にたずねる。

「なに?」

「名波さんとはその後どうなったの?」

「……!」


 触れられたくない話題に琴子が直球で質問するので、一瞬、征道の体がふらっとよろけたが持ち直し、指でこめかみを押さえた。

「ああ―もう……。そのこと? 母さんには言ってなかったけど、彼女は結婚したよ。日ノ国女子にしては晩婚だったけど」

 平静を装い腕を組む征道。


「よく、わかったのね。彼女さんは姿を消したって言ってたけど」

「はは、あのおしゃべり……。差出人不明の手紙がきてさぁ~。すごく下手な字で『結婚しました。さよなら』ってね」

 征道は表情を見られたくないのか、暗がりにもかかわらず両手で顔を覆っていた。

「それで、よかったの?」

「えーなにがだよ?」

 

「あなたが」

「……」

 琴子の心配そうな声に顔を隠すのをやめた。



 すると木々の隙間から月明かりが二人を照らした。今日はじめて二人は目が合った。征道はパーマの髪をかきあげる。懐かしむように遠い目をして、ふっと笑った。


「あの、僕だって、まあ……なんだ。他に女と付き合ったことあるし、長続きはしなかったけど。だから……彼女のことは、もういいって、若かったんだよ」

「そう……」


「それより君、先生はどうするのさ」

 思いがけないことを言われ琴子は動揺する。

「ええっ。ちょっと、私のこと、どこかで見ていたの⁉」

「いやぁ、ははは。さすがにデェト現場は見てはいないけど、好きだったんだろ。僕は君が学生の頃、受賞式で見かけて―。察しがついた」

「!」


(なんで? どうしてわかるの?)


 琴子は驚き立ち止まり、手を口に当て征道の顔を見る。琴子の反応に征道は首をかしげる。

「へぇ。自覚なかったの? 学生のころから好きだと思っていたけど……」


(私が先生をすき……?)


 学生の頃から、優しい方だとは思っていた。思ってはいたが……。


「……そんなの、自分がよく、分からないわ。好きだった気もするし……でもこれは、好きっていうにはもっと淡い、すぐ消える泡のようなものだったの―。それに、先生はもうすぐ学校をやめて、〈東の地〉の実家に帰るって言っていた」


「追いかけなくていいのか? 僕は追っかけられたら困るけど」

 琴子は首を横に振る。

「好きだったかもよくわからないのに……。たとえ好きだったとしても、私って、恋でも夢でも結局、〈東の地〉までいけない……。先生の実家が大変で帰るのに、婚約者がいる女子が何もかも捨てて追いかけてくるなんて、先生は迷惑でしょう。そんなに情熱的じゃないの。みんなに反対されてまでできないよ。私、臆病なの、ダメな人間ね。母になにを偉そうに、怒っているんだか……」


 言葉にした途端、はらはらと涙が零れる。夢を叶えるため美和は暁村あかつきむらを出て行ったのに、自分は何もできない人間なんだと思い知らされた。


 征道は、そっと胸ポケットからハンカチを渡す。先ほどとは違う声音で話し始めた。


「……僕は、あとさき考えなかったから、失敗をした。もっと時間かけて説得すればよかっただけなのに。若いから突っ走ることって、それがいいとも悪いともいえない。彼女を幸せにできなかったし、僕のせいで病気になった」


「そんなことはないでしょう。彼女さんだって後悔していないと思います。私なんて……」

  

「琴子さんはダメな人間じゃないよ。相手を思いやり、堅実じゃないか。それに、ちゃんと自分で選択している。僕は君の絵は好きだ。あの絵の少女は君自身なのだろう。何かに抗い、迷いながらも、立ち向かう姿は、美しかったよ」


「……」


「―ごめんな。君の気持ちを知っていながら、惹かれてしまった。見合いを申し込みでもしないと近づけなかったからな。ただ指をくわえて見ている性格でもないし、どの道、君は別の誰かとお見合いすることになる。だから断ってもいいっていっただろう。――だけど、もし僕を選んでくれるなら……」



「……僕ってけっこういい奴だと思わない?」

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