6話 ふたたびの岐路

 二人は川沿いの土手に着いた。


「ここがデェト場所?」

 琴子がたずねると、照れながら頭をかく沢野先生。


「ああ、そうなんだ。わたしの思うデェトとは、学生時代よく行った場所を案内することだ。喫茶店もそうだけどね」

「よくここに?」

「ああ、つっちーとよく河原に来て、何時間もとりとめのない会話をした。絵を描いたり、酒飲んだり、まあ、他にも仲間がいてバカ騒ぎしたなぁ。卒業制作は徹夜して家に帰る途中、この土手で寝っころがった」

「大学生って楽しそうですね」

「ああ、本当に女子も大学に行けるといいのにと思うよ」

「……」

「じゃあ、次の場所に行こう」


 広い門をくぐると、学生たちがいた。

「ここって」

「そうだ、〈中の地〉のわたしの通った美ノ大だ。土日は誰でも入れるんだよ」


 広い講堂、硝子張りの天井、制作中の学生は床にカンバスを直置きして描く。噴水のある庭園に目を向けると大きな木の下で芝生に寝転がる学生たち。


「琴子くん、こっち」

「?」


 案内されたのは、高い天上が続く長い廊下の奥、そこに飾ってあるのは……。


「これが、わたしが特別賞を獲った作品だよ。この絵は大学に寄付したので、この場所にずっと展示してある。もし、また見たくなったらここに来るといい……」

「……はい」


「すごい。これが聖獣なの?」

「そうだね、色はわからなかったが、暁村あかつきむらでみた空を飛ぶ、龍の聖獣だよ」

 夕方と夜の狭間、薄暗い夜空を一筋の光る龍が駆け抜ける。銀色の光の粒がまるで箒星のようだ。沢野先生の心が澄んでいたから龍が見えたのかもしれないと思った。


「この丸いのは何?」

「わたしも知らなくて、人魂と思ったら、木霊こだまらしいんだ」

「こだま」

「人間が好きになると人の姿になるんだってね」

「そうなんですか。かわいい」

「伝え聞いた話では聖獣が木霊の命を吹き込むらしい」

「聖獣って神秘的な生き物ですね」

 二人はしばらく見ていた。



「今日は、本当にありがとうございました」

「いやいや。御曹司くんのお望みのデェトだったか、あやしいけど、わたしは思いがけず琴子くんとデェトできて楽しかったよ」

「……」


「実はね、わたしは学校を辞めるんだ」

「え?」


「弟が先日の空襲で足を負傷して、父も病気で倒れ、実家のある〈東の地〉に帰ることになった。あっちでも美術の指導師ができるかわからない。連絡もらってからしばらく迷っていたんだけど……。でも、長男だし、家が大変だから、わたしは家を継ぐことにした」

 落ち着いた穏やかな表情の沢野先生だった。

「そうですか……」


(じゃあもう、会えないの?)


 薄暗い街灯をぼんやり見ながら、とぼとぼと無言のまま自転車を引き、駅に着く。

「ここから、帰れるね?」

「はい」

「じゃあ、元気で。君が教え子でよかった」

「……」

 先生は商店街の方にゆっくり歩き出し、琴子に背を向けた。


(まって、何か言わなくちゃ)


 沢野先生は、急に立ち止まり、くるりと振り返った。

「あ、琴子くん、そうだ、思い出した。あの時か……」

「なにがですか?」

「そうかぁー。やっぱりね、ってあるんだよ……。御曹司くんは、琴子くんのことを知っているよ。展覧会の時に君の絵を熱心に見ていた」


 琴子にほほえみ、黒ぶちメガネの奥の沢野先生の瞳は優しさであふれていた。

「さようなら」

「……」



(待って……私……)



 自転車を引く、うしろ姿の沢野先生に声をかけようとしたら、どこからか声がした。



「ねぇーちゃーんっ!!」


 振り向くと宗次むねつぐが全速力で走ってきた。すごい勢いで走ってくるのでのけぞったが、顔は青ざめて深刻そうだった。

「びっくりした……。なに、こんな所にまで来て。よく私のいる場所がわかったね」

「はぁ、はぁ……。あの、あちこちさがして、中学の美術部の学生に……。はぁ。それより大変なんだ!」

「なに?」

「母さんが、母さんが……」

「なんなのよ。怖いな」

「母さんが、家出した」

「!」


(え? あの母が……?)


 ――そして、どうしていつも時機タイミング悪く、母は私の人生を左右するのか。



 ***



 夕方、家に戻ると、男たちは落ち着きがなかった。祖父は盆栽の手入れをしていて、父上は庭先をうろうろしていたが、帰ってきた琴子と目があったら、サッと部屋に戻ってしまった。その中で、祖母の八重だけが堂々と座卓に座っていた。

 宗次の話によると、例によって、父上が母に八つ当たりをしていたら、その日に限って、母は言い返し、それに激高した父は「それなら出ていけ」というので出て行った。


(は―どうしてそうなるの。じゃあ、父上が悪いじゃない)


 琴子が家に入り部屋で着替えようとしたら、祖母の八重がスッと後ろに立ち。

「琴子が迎えに行きなさい」

「なんで私? 父上じゃないの?」

「いいから、いきなさい」

「どこよ?」

静江しずえの家よ」

「え? 静江叔母さんの家?」

 静江叔母さんとは、祖母、八重の娘であり父の妹だ。



 ***



 暁村から隣町の夕日町ゆうひまちに到着した。大きなお屋敷で、叔母さんは家族と暮らしている。


「あら、琴子さん、いらっしゃい」

「すみません……母は?」

「いるわよ~ふふっ」

 静江叔母さんは片目をつぶる。祖母・八重の娘と思えないくらい、静江叔母さんは天真爛漫だ。広い玄関を上がり、長い廊下を渡ると、奥座敷の座卓に小さく座る母がいた。

「まあ、琴子さんが来たの?」

 琴子はジトっと恨めしそうに見た。


「私が迎えに……」

「まあ、お義母さまに頼まれたのね。すまないわねぇ琴子さん」

「いいから、座って」

 静江叔母さんは座卓の上にみかんとお茶を置き、思い出し笑いをする。

「なに? 静江叔母さん」

「宗次さんたら、一番知られたくない、高ノ倉たかのくら家にまで連絡して、『母はそちらにいませんか?』ってね。ふふふ」

「ええ?」

 琴子は驚く。


(宗次ったら、母がいなくなっただけで、気が動転していたのかしら)


「そうね、二、三日したら、帰るわ」

 みかんを食べながら母がぽつりと言う。

「どうして?」

「どうしてって、このままいてもしょうがないでしょう。家のこともあるしねぇ」


 家出までしたのに、さして深刻でもなさそうな母。


(出ていけと言われて何とも思わないのか?)


「なんで、どうしてよ。父上なんて、放っておけばいいのよ」

「そうもいかないわよぉ~。あのひと家のこと何にもできないんだから」

「母さんはいつも我慢して耐えて、あんな父なんて、尽くさなくてもいいのに。どうしていつも母さんはそうなの」

「でもねぇ……日ノ国の女は……」

 そういって女の美学を語りはじめた。女とは耐え忍ぶことが常である。家出したことで少しは夫も反省したでしょう。面と向かって衝突は避けるべき。

 だんだん腹がたった琴子は


「いい加減にしてよ。母さんの女の話はもうたくさん! どうして「女だから」って、女のせいにしないでよ。母さんはどうしたいかよ。私に「女の呪い」をかけないで、だから結婚なんてしたくないのよ。男とか女とか関係ない、母さんが全部、自分で決めればいいでしょ‼」

「……」

「琴子さん、やめなさい」

 静江叔母さんが慌てて口を挟む。


「やめないわよ。だって、母さんが悪いんだよ。ぜんぜん幸せそうじゃない。そんな姿を私に見せないで。私は、母さんのような人生なんてまっぴらよ」

 母は琴子を見て、涙をためた。


「ごめんなさい。琴子さん……」


(ああ、もう最悪……)


 

 今日は満月。山の夜空は冴え冴えとして空気も澄んでいる。琴子はしばらく静子叔母さん家の庭先の縁側で夜空を見上げた。ここは暁村より街に近い夕日町。暁村ほど星は見えないが、夜風に吹かれ、葉音がささやく。


(なんで母にあんなひどいことを言ったんだろう……。外で働いたこともない母に父を捨ててどうやって生きていけと言うのか……)


「少し落ち着いた?」

「静江叔母さん。私……」

 静江叔母さんは優しく微笑みながら片目をつむる。琴子の横に座った。今までのたまりにたまったことを言ってしまって、少し気まずい。


「琴子さんの気持ちもわかるよ。どうかお母さんを責めないであげて、あなたのお母さんは兄に対して、遠慮しているところがあるわ。それは親から当り前に教えられてきたからね。でも一番は、兄が悪いと思う。私からも父母からも兄にきつく言っておくからもう大丈夫よ。安心して」

「……」

「でもね、琴子のお母さんはあなたに処世術を身につけさせたかったのかも」

「処世術?」


「その昔、女子にとって自由の村であり、女子の駆け込み寺である、「女村おんなむら」があったの。でもあまりにも大きくなりすぎて、廃村させられたのね。だから、女が強くなると叩かれるから、そうならないための―親心なのよ」

「……」


(お母さん……私って本当に、自分のことしか考えてなくて、ばかだ……)


「うん、分かったわ。明日、お母さんに謝っておく」


 星が瞬き、庭先で虫がリーンと鳴く頃、

「この家にいるって聞いたんだけど、それに、琴子さんもいるじゃない」

 暗闇から、聞いた事のある声がした。

高ノ倉たかのくらのお義母さま⁉」


 静江叔母さんの家の前に、なんと高ノ倉家の義母が立っていた。


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