3話 初デェト
「――浮かれているね、姉さん」
松野家で夕食を食べていると、二歳年下の弟の
「結婚が決まった時はこの世の終わりみたいな顔していたのに、どういう風の吹き回し? もしかして都会の〈東の地〉へ家出の準備でもできたのかな。ちょっと受賞したくらいで、絵で食っていけるとでも思っているの? 甘いなぁ姉さんは」
「は? してないし。黙りなさい」
「琴子さん、宗次さんにいちいち怒らないの」
祖母の
(もう、すぐ宗次を擁護するんだから)
何かあれば、跡取り息子、次期当主、ってどれだけ息子に生まれただけで偉いのか。私はもういなくなるからちょっとは気を使ってくれてもいいのに……。この家では私の方が反論することが許されない。
「ごちそうさま」
ため息をついて箸を置き、自分の部屋に戻った。
***
近年、〈中の地〉は大きな河の恩恵をうけ、電車が開通した。それに伴い駅前の商店街がにぎやかになった。沢野先生に呼ばれ、琴子は商店街にある朝日橋で待ち合わせをしていた。今日は花柄のワンピースを着て、やはり噂は立ちたくなかったので、帽子を深くかぶった。
「おーい、こっちだ。琴子くん」
日曜のお昼過ぎ、学校で会う時よりも、沢野先生の髪型は若干ぼさぼさだった。相変わらず茶系のチェック柄の上着を着ていた。
「こんにちは」
「いやー悪いね。わざわざこんな所にまで足を運ばせちゃって」
「いいんです。家にいたら家族と喧嘩しちゃって」
「けんか?」
「ええ、まあ、けんかっていうか、私が家にいたくなくて、ちょうどよかったんです」
二人で商店街を歩き、衣料品やお団子屋、総菜屋にパン屋などのお店が並んでいた。一番奥にある空き店舗を案内する沢野先生は学校の時より緩んだ顔をしていた。
「ここに入って」
「失礼します」
すると、黒いシャツによれよれのズボン。髪はうねって長く、髭も剃らず伸び放題、とても清潔そうに見えない男がカンバスに向かって絵を描いていた。
「お―い。つっちー」
「おう、さわ」
「琴子くん、こちら土田さんだ。愛称は、つっちー。大学時代の友人で画家だ」
そう紹介してから「差し入れだ」と沢野先生は食料を土田に持たせた。
「金のない、おいらのためにすまないな。そして琴子殿もありがとう」
「いえ、本当にひまだったので大丈夫です。それに絵は好きなので」
「は~うれしいね。もしおいらが売れたら、自慢してくれ」
土田は筆を置き、散らかった床をまたぎ、木箱に座り、沢野先生からもらったおにぎりをほおばりながらしゃべる。
「もうすぐ個展を開くんだけど、その準備に追われていて、ここは広い空き店舗だ。まだまだ作品が足りなくてな。そこで、さわの生徒が描いた絵を何点か展示しようって話になってね~。もぐもぐ」
「それで、私の絵を?」
嬉しそうに沢野先生は話す。
「そうなんだよ。琴子くんや他の生徒にも声をかけて、展示するつもりだ」
土田は食べながら口を挟む。
「ほんとうは、おいらだけの個展が夢なんだが……。なかなかおいらの個性的な絵だけじゃ客が入らないし、その点、さわの生徒の絵を展示したら、絵に興味ない一般の人も来てくれるだろうって~。もぐもぐ」
琴子は土田の絵が気になり、こっそり見たが、裸婦画が並んでいた。
(大陸画家の裸婦画はきれいだけど、土田さんの裸婦画は、色、派手。構図がめちゃくちゃで、家で飾りたくないというか、購買意欲がわかないかな……)
「今日はお掃除しかできないな。展示できるように床は磨かないとね」
床がみえないほどの散乱した紙くずを
「ふう、じゃあ、今日の所はこの辺で、琴子くん、帰ろうか」
「はい」
二人は空き店舗をでる。この辺は大学があって、学生街だったので、飲食店など安く提供しているので賑わっていた。
「暑いな~。じゃあ喫茶店でも入るか」
「はい」
「本当に、こんな感じでいいのか? デェトって」
頭をかくので、沢野先生の髪は余計ぼさぼさになった。
「いいと思います」
商店街を抜けると、古びた喫茶店があった。喫茶〈まつの〉の扉を開けた。
カランコロン
「いらっしゃい。いつもの席が空いていますよ。おやまぁ、今日はめずらしく女の子連れちゃって」
喫茶店を一人で切り盛りしている良子さんだ。良子さんは家族に先立たれ、知り合いに頼まれ、週に数回お手伝いをしている。ここは安くて学生さんがよく訪れるそうだ。
「いやだな~。からかわないでくださいよ。琴子くんはこの春、中学を卒業したばかりの、わたしの元教え子で、もうすぐ御曹司との結婚が決まったお嬢さんですよ」
「そうなのね、ごめんなさいね。たしかに先生はよく生徒さんを連れて来ますものね~ふふ」
「や―男子生徒ばかりだけどね」
奥の角のテーブルに案内された。薄暗い店内、年季の入った飴色の床、ソファーの後ろの棚には雑誌、漫画、小説が乱雑に並び、天上に吊るされたつる性の植物が伸びてテーブル近くまで垂れ下がっていた。出窓には観光地のお土産が無造作にたくさん置かれ、出窓のフリルなカーテンは色あせていて、シミが目立った。
良子さんはおしぼりとお水をテーブルに置く。
「良子さん、僕はコーヒーを。琴子くんは? お手伝いのお礼だ、おごるよ」
「では、お言葉に甘えて、私は紅茶のレモン入りで」
「はいはい」
良子さんはカウンターの奥に戻った。
「沢野先生は、ここによく来るのですか?」
「ああ、大学時代、よく通っていたから」
「え? 沢野先生は〈東の地〉の芸ノ美大学じゃないのですか?」
「あはは、そこだったらよかったな~。実家は〈東の地〉だが、そこは落ちて、この辺の大学の美ノ大だよ。地方の美術の指導師なんてそんなもんだよ。それにね、実を言うとわたしはコネで先生になれたんだ」
「……まさかぁ」
「さらに白状してしまうと、わたしは色盲なんだ」
「……」
(色盲? なんで美術の先生なのに)
「はは、驚くだろう。青色だけが認識できない三型二色覚というのだ。わたしは本当は美術の世界に生きるには致命的な欠点だ」
「じゃあ……」
「そう、じゃあ、どうして、わたしが美術の顧問になれたのか、それはだね、昔、聖獣が視えたような気がしたんだ」
「聖獣ですか?」
「たまたまだと思う。
その姿を描いた絵を、ちょうど美ノ大の展覧会に出展したら、偶然、皇族関係の誰かが訪れていて、気に入ってくれた。わたしの絵は特別賞に選ばれた―」
沢野先生は不思議な出来事をうれしそうに話す。
「……私は暁村に住んでいて、一度も見たことないのに、先生ってすごいわ」
「いやーほんと、たまたまなんだけどなぁ」
そう言って沢野先生はおしぼりで汗を拭くと黒ぶちメガネがずれた。
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