2話 美術の沢野先生

 ―親から無理やり、結婚を強いられた被害者の顔をしている―


 (なんでわかったんだろう……)

 琴子は言葉に詰まった。


 高ノ倉征道たかのくらまさみちは笑みを浮かべ琴子を見下ろしたまま言う。


「だから君に猶予を与えようと思う」

「猶予、ですか?」


「そうだな、これから高ノ倉家に入るまでの三ヶ月の間に、誰でもいいから男とデェトしてこい」

「はぁ? ご冗談でしょう。そんな相手……」

「僕は冗談など言っていない。これは未来の夫からの命令だ。君だって、このまま、わけわからない女好き男と結婚するためには、腹をくくる時間がぜったい必要だ。別の男を知ること。そう、これは結婚する上で必ずやり遂げる高ノ倉家の時期当主の命令だ」

「……」

「いいね。結婚したからには離縁はだめだ。ただし、結婚前なら、恋愛して駆け落ちでもなんでもしろ、それで心変わりするなら、すきにしろ。そのかわり松野家への支援はなしだ」


「もし、仮にお断りなんて、そんなことをしたらあなたに恥をかかせる。結納金だって……」

「結納金なんて、はした金、何でもないし、贅沢することが趣味の退屈なご婦人方の笑い話のひとつになるくらいで、かすり傷にもならない。婚約解消したところで、恥どころか、好機とばかりに僕に群がる女なんてといるんだよ」

 征道は琴子に顔を近づけ覗き込む。


「はい、決まり。三ケ月後、会おう」

 にっこり微笑み、上着を肩にかけ征道は去っていった。


 高ノ倉の実家である、〈中の地〉の一等地に居を構える広い屋敷に、三ケ月後、琴子は結婚見習いとして家に入る予定だ。行儀作法や夫を支えるべく、高ノ倉家のしきたりも学び、一年後の春に結婚することになっていた。



 ***



 松野邸では琴子は三ケ月後の引っ越しの準備に追われていた。広い部屋の片隅に置かれた、琴子の描いた油絵が、整然と並べられている。絵具や筆の画材は、お嫁入りの時にいっしょに運んでいいのか悩んだ。絵を描くことなど、そんな暇はないだろうが、そばにないと落ち着かない。


「琴子さん、準備しているの?」

 寝間姿の母が琴子の部屋の前にいた。

「お母さま。起きていていいの?」

「ええ、ちょっとなら大丈夫よ」

 このところ、体を壊していたためかすっかり痩せた母。今でも家で伏せがちだ。それなのに父上はあまり気をつかわない。相変わらずあれこれ母に言いつける。


「結婚は一年後だけど、私たちにとっては三ケ月後にお嫁に出す気分だわ」

 寂しげにため息をつく。母はどちらかというと静かな人だ。いつも父上を支え、叱責されても側にいて健気にお世話をして、本当によくいえば、日ノ国の鏡のような妻。



 ***



「琴子くん。おーい、こっちだ」


 中学校を卒業してから、もう一度、学校に出向いた。

 職員室にいた、美術部の顧問、沢野肇さわのはじめ先生が手を振る。髪は七三分け、四角い黒ぶちメガネをした、もう温かくなったというのに年がら年中、茶系のチェック柄の上着をはおる野暮ったい先生。

 もう五月、桜の花びらも散り、新緑が芽吹いてきた。


「悪いね、学校に来てもらって」

「いいえ、今は花嫁準備期間で暇なんです」

 琴子は中学時代に着ていた羽織袴姿で現れた。後ろ髪を上下に分け、上側を大きなりぼんで結んである。肩より長い髪は風で揺れていた。


「そうだったね、御曹司とのご婚約、おめでとう」

「ありがとうございます」

「じゃあ、美術室に来てもらえるかな」

「はい」


 長い廊下を二人で歩く。窓を全開に開けはなって、心地よい風が通り抜ける。


「いやー琴子くんの絵は評判で、本当に金賞を獲った油絵を寄付してくれるのかい?」

「はい、嫁ぎ先に持っていけないです。それに、弟の結婚相手も内々で決まっていて、実家には物を置いておけないし、ずっと管理していただけるので丁度いいのです」

「そうか」


 美術室に入ると、独特の匂いがした。かび臭い、油のような墨のような。もうこの場所で絵を描くことはできない。


「わたしは学校の審査会の時に、琴子くんの絵を推したんだ」

「そうだったのですか、ありがとうございます」

 窓の外の校庭を見る黒ぶちメガネの沢野先生は穏やかな優しい空気をまとっていた。


(そうだわ、先生なら)


「え、琴子くん……わたしは意味がわからないです」

「すみません。夫となる高ノ倉征道はわたしが嫁に入る前に、自分以外の殿方とデェトしてほしいと命令するのです」

「はぁぁぁぁ……。金持ちの考えることはわからないなぁ~。わたしなら自分の妻となる女子が他の男とデェトなんてしてほしくないと思うものだが、海ほど広い心の持ち主なのか」

「広いとかそういうことではないですが、わたし困ってしまって。それで、心当たりの殿方が見つからず日が経ってしまい、途方にくれているのです」

「それで、わたし?」

「はい。お願いします」


 沢野先生は頭をかきながら、困った顔をした。しばらくして、


「うーん。琴子くんの婚約者がいいっていうなら、わたしにはデェトする相手もいないから、別にいいけど……」

「いいのですか? でもご迷惑じゃ……」

「うん、まあ、いいよ。ただし、もうすぐ知り合いが個展を開くので、その手伝いをしてくれるなら、ついでに帰りの短い時間なら、あらぬ噂もたたずに、琴子くんの婚約者のよくわからない望みが叶うことができるよ」


「よかった。沢野先生、ありがとうございます」


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