第13話 残暑

「母が亡くなってすぐ、めかけだった女が朱翔あやとを連れて後妻として迎え入れた」

 蒼翼は静かにいう。


 そういえば、朱翔さんも初めて会った時「異母兄弟」って言っていたな。

 私と同い年ってことは蒼翼そうすけさんのお母さまがまだご存命中に産ませたことになる……。胸の奥がざわついた。


「父に妾がいるのは黙認だった。母は体が弱くて迷惑かけているからいいのだと。複雑だったよ。だから僕は朱翔の母とは折り合い悪くてね」


 眉根を下げ、遠くを見つめ思ったより明るく話す。その声音とは裏腹に水面に一滴の雫が小さく波うつように感じた。

 貧乏な美和の家には無縁だが、裕福な家庭のよくある話だ。法律では禁止されているものの、罰せられたとは聞いたことはない。例えば、昔は貴族のたしなみとして妾を数人抱えていて、嫁は妾にも何かとお世話をしたりするとか。

 日ノ国ひのくにでは「よき妻」の見本が、夫を立て、ひたすら尽くし、浮気の一つや二つで大げさに騒がずドンと構える、理解ある妻。美談として称賛され語られることが多い。だけど、だからって家族が傷ついていないわけはないのだ。


「そんな……」

 蒼翼さんにかける言葉も出てこない。


「心配しないでくれ。もう家を出て何も思うことはない。朱翔とも仲は悪くないしね。ただ美和は僕の婚約者だから聞いてもらいたかった」


 そう言って蒼翼さんは両手で私の頬をムニっとつまんだ。


「ちょっと蒼翼さん。私の頬っぺたで遊ばないで」


 恥ずかしくてちょっと怒った。

(急に触るからびっくりするな……)


「ははは。悪かった」


 軽やかに笑い風に揺れる前髪をかき上げ、でも何かを思い出して寂しげに美和を見る。


「君との距離を縮めたいと思いながら、また会えなくなるな」

「そうなのですか……」


 なんか残念だ。心の中で気持ちが萎える。手紙では何回かやり取りしているけど、会った回数って十回も無いんじゃ……。時々しか会えないから久しぶりに会うだけで緊張してしまうよ。それにせっかく気持ちが近づいた気がしていたのに。


「僕は、もしかしたら、海を渡って大陸の零ノ国ぜろのくにに留学するかもしれない。またしばらく会えなくなるけど、その……」

「?」


 口に指を置いているからかな、蒼翼さんは少しぼそぼそと小さい声になる。顔はこちらを向いているのに目を逸らして話す。


「美和は治癒師ちゆしになるために勉強があるから集中して欲しいが……」

「はぁ」

「ピヨピヨ」

 ヒヨコまで会話に参加してきた。


(蒼翼さんは何を言おうとしているの?)


「コホン。できれは僕のことは記憶の片隅に残しておいてほしい。無理にとは言わないけど」


「……はい」


 セミの鳴き声で聞こえにくかった。横を向いた蒼翼さんの顔に少し熱を感じた。これはきっと夏の暑さのせいだ。



 ***



 夏休みが終わって再び学校が始まる。小学校最後の夏が終わろうとしていた。琴子が朝、待ち合わせ場所に美和を待っていた。高学年ともなると背も伸びてランドセルが似合わなくなるから、夏休み明けは、斜め掛け鞄に切り替わる。しばらく会わない間に少し大人びた顔つきになっていた。真っすぐな黒髪。真っ白な肌に人形のような顔の琴子。目線を合わせてくれないが、怒ってはいないようだ。


「おはよ」

「琴ちゃん、おはよう」

 美和は嬉しくて、すぐ駆け寄って謝った。

「ごめんね……私、言えなくて……」

「ううん、美和ちゃんのせいじゃないよ」

「でも」

「私自身の問題なの。美和ちゃんの夢を応援するよ」

「琴ちゃん」

「だってさ、美和ちゃんは私と同じように女学校を出て、結婚すると思っていた。そうやって自分を納得させていたの、だからまさか自分のやりたいことをかなえようとしているなんて夢にも思わなかった。目の前が真っ暗になったの。置いてきぼりされたような、焦り、嫉妬かな……」

「そんなの――」

「聞いて美和ちゃん」

「……うん」


「私ね、絵の勉強がしたい」


 いつもどこか冷めていて、一歩引いたような、落ち着いた琴子が、今まで一緒にいてはじめて聞いた、透き通った希望の声だった。息をゆっくり吐き、言葉にして満足そうに笑った琴子。でも涙を溜めているのは何故なんだろう……。


 琴子はごますように後ろを向き、目をこする。

「はー言っちゃった。私ね、女子が言葉にしてはいけないと思っていたので、本当はずっと言ってみたかった」


 松野家は良家だ。親戚のほとんどが良家と結婚して跡継ぎを産む、と決められた人生だった。平民からは「お金に苦労せず幸せだね」「羨ましい」といわれ。自分は恵まれているのだから、疑問を持たないように自分を納得させていた。そうしないと女子は生きていけないから。


「だけどね、もう少し抗ってみたいと思う。それが夢で終わったとしても」


 琴子は力強く決心するように遠くを見ていた。

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