水棲の人
詩縞隻
D.C.
僕は僕と二人暮らししている。比喩ではなく、物理的に。コピー&ペーストで僕は容易く増殖した。
*
記録的な雷雨だった。繁忙期の職場、デスクに向き合いながら数え切れないほど雷の音を聞いた。建物に設置されている避雷針のおかげで死なずに済んだが、停電が起きたせいで作成中のデータは消失してしまった。僕らはデス・マーチの残骸となった。天井に嵌め込まれた蛍光灯に小さな蛾がとまっていて、あれも死なないかな、と思う。
午前二時に退社した。会社から住んでいるアパートまで徒歩十五分。斜めを通り越して真横に降るひどい雨が僕を水浸しにするには充分な時間だった。傘は途中で骨が駄目になったから畳んで手に持つことにした。辺り一面、街路樹もアスファルトも街灯も飛沫をあげて水煙に巻かれる。
アパートの近く、交差点のすぐ側にある溜め池を右手に通過した時、とうとう落ちた。目の前に、雷が。眩しくて、耳が聞こえなくなるくらいの轟音が降ってきて、僕はたぶん気を失ったんだと思う。その時のことはよく覚えていないから。
気がついたら目の前に、もう一人「僕」がいた。
かくして僕は増えてしまった。遥か昔に神さまが一日に人間を千人殺すだの千五百人増やすだの適当なことを言ったから、バグが発生してしまったんだと思う。無理もない。星のシステムを保守・運用する不可視の天使たちに同情する。無神論者である僕は息をするように宗教を混同する。
ところで、僕と彼(僕)は本当にそっくりだ。一卵性双生児のように。容姿も記憶もすぐ眉を顰めてしまう癖も一昨日欠けた小指の爪の形も同じ、完璧な模倣。悪い冗談みたいだ。スワンプマン実験! そして僕らは互いに思う。
どっちが本物(original)なんだ?
口には出さないけれど。
「どうしてこんなことになったんだろうね」
僕は冷えたビールをグラスに注ぎながら、彼に問いかけてみる。答えが存在しないことは知っている。とにかく気を紛らわせたかった。
「困るよ、ほんと」彼の声は沼の底みたいに暗い。何がどう困るんだよ、とは訊かないでおいた。
彼の視線がテーブルの上を彷徨う。煙草を探しているに違いない。僕だから分かる。同居人の考えていることが大方理解できるという点においては、赤の他人とのシェアハウスより数段暮らし易いかもしれない。
「煙草は水に浸かったよ」
僕の言葉に、彼は僅かに顔を顰めた。きっと舌打ちを堪えた。
僕は元々悲観的な性格で、四六時中途方に暮れているのが仕事みたいなものだった。根暗の自覚はあるけれど、客観的に自分を見ていると流石にだんだん胸が苦しくなってくる。グラスに広がる一滴のインクじみた暗澹をビールで胃の底へ流し込む。炭酸の刺激が仄かに気分を浮上させる。継ぎ足して彼に差し出すと、彼は煙草を諦めてグラスを手に取った。このままだと酒も飯も消費量二倍だ。彼がビールを飲む間、僕は黙ったまま自分のつま先のあたりを眺めた。綺麗に掃除されたフローリングに真新しい傷がついている。テーブルの位置がずれていた。
僕らは積極的に会話を交わさない。自分がもう一人いるってすごく変だし、気まずい。部屋を分けてなるべく一緒に過ごさないようにしているけれど、たまに洗面所でばったり会うとちょっと緊張する。彼はいつもストレスが錆び付いて取れなくなったみたいな酷い顔をしていて、きっと僕も同じ顔をしている。鏡合わせで眉を顰めた。全く同じ仕草をする二人というのは第三者から見ればきっと可笑しい。笑ってみる。すぐに憂鬱で喉が詰まって、目を逸らした。僕らは息を長く吐く。ガラスコップに立てられた色違いの二本の歯ブラシは、両方とも新品だ。前まで使っていた古い歯ブラシはゴミ箱の底に落ちている。丁度毛先が開きかけていたから。僕は慣れた手つきで二人分の食器を並べ、〇・五人前の朝食を食べ、弁当を持って家を出る。ドアを開けるのと同時に、背後で食器を洗う音が聞こえてきた。一人分の生活を奇妙なバランスで折半する。
仕事には毎日交代で行っている。出勤日数が半分になるから楽だ。元々一人で完結する仕事の多い職場だったから、僕の増殖に気づいた者は一人もいなかった。僕と彼の仕事の引継ぎは完璧で、突然上司に「昨日の件だけど」と切り出されても全く問題ない。会社に行けば全てがいつも通りで、誰も僕のことなんて気にしないで、時報は鳴るし雲は流れるし星辰は天使の紡いだ緻密な
♩=60 夜(単調なリズムは僕らを盲目にする)
永遠に終わらないかと思った仕事にやっと一区切りがついた。手早くPCの電源を落とし、退社する。冷たく湿った風が頬を撫でた。雫が窓ガラスの表面を滑り、街路樹の枝先に引っかかった。残業でできた光を反射するビジネス街は眩しさに反して陰気だ。太陽を受けて光る月は灰色の砂岩だ。えたいの知れない不吉な塊、という一文が過る。檸檬の匂いを想起する。梶井基次郎が病んだ肺を抱えて歩いた新京極も空疎な煌めきに包まれていたのだろうか。僕にだってイエロウが必要だ。目の覚めるようなアレグロの音楽が。庇を目深に被った青果店は僕の前には現れない。腕時計を見ると午前二時に差し掛かっていた。昼はテラス席まで人で埋まっているカフェも、僕の好きなレコードショップも、小さい頃からずっと変わらない丸善も、軒並みCLOSEDの看板の裏で沈黙していたが、駅前のコンビニだけは変わらず僕を迎え入れてくれた。仕事でどうしても疲れ切ってしまった時はケーキを買うことにしている。二人暮らしを始めてからは同じものを二つ買うことにした。一応。翌朝、向こうも礼を言ってくる。一応。
「ありがとう」
「うん」
一日の会話がこれだけの時もある。ケーキはいつも通り美味しい。玄関に落ちた白い蛾を潰す。
♩=72 苺(檸檬の代わりにはならない)
*
僕は読書が趣味だった。たくさん本を買ってたくさん読んだ。当たり前だけど僕と彼の趣味は一緒だから、僕が読んでいる本は彼も読みたい。最初は一冊の本に二枚の栞を挟んで一日交代で読み進めていたけれど、次第に二冊買って個別に読むようになった。どこまで読んだのか互いに監視しているみたいで厭だった。同じ場所に栞を挟まないといけない気がして、その発想自体が薄ら寒い。きっと仕事も別の方がいいんだろうな、と思う。でもそれ以上に僕は本当に面接が嫌いだから、軽々しく「別の職に就いてくれよ」なんて言えない。
読み終わった本を伏せるのと同時に、夕飯の皿がテーブルに乗る音がした。料理も交代制だ。ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、ビールが注がれたグラスの縁を合わせる。僕らの生活は常に奇妙なシンメトリーを描く。噛み合う歯車のリズムを生じる。
「突然だけどさ」彼はそう言って、皿の上に乗った白ワインとローズマリーで香り付けしたチキン(僕が休日にスーパーで買ったものだ)を、黒い漆塗りの箸で半分に裂いた。ナイフとフォークみたいな上品なカトラリーは揃っていない。
「何」僕はビールを三分の一ほど飲んでから、揃いの箸に手をつける。
「別の職に就く気はない?」
僕は耳を疑った。次いで、自分の喉のあたりに視線を落とした。一瞬、無意識のうちに言葉を発してしまったのかと思った。確かに彼が言ったのだと理解すると、途端に腹が立ってきた。
僕でもないくせに。
喉まで出かかったけど、鶏肉の欠片を嚥下し、なんでもないように取り繕った。
「ない」
「だよね」
♩=null 無音(僕らは音楽の福利を知る)
次の食事の時には、レコードの一枚でもあった方がいい。彼は無言のままチキンを咀嚼し、ビールで流し込んでいる。
連日の長雨は一旦の終焉を迎え、空には銀の矮小な星々が瞬いていた。日を追うごとに月が欠けるように、互いの皿に乗った肉片だけが音の無い真空の中で形を変えていく。僕らは透明の言語に従い、肉を裂き、咀嚼し、嚥下する。Da Capo.
「美味いよ、これ」
「そうかな」
実際、彼の料理の腕は悪くない。見た目も美しいし、焼き加減もバターの量も適切だ。美味しい。イタリア料理店を営んでいた父のレシピを忠実に再現している。チキンにはローズマリー、ポテトにはオレガノを、調理よりも材料選びに時間をかけるべきだよ。何度も聞かされた言葉。瞼の裏には薄暗い石畳の路地、斜めに突き出した木製の青い看板、チーズの焦げる香り、古いレコード、花模様の硝子が嵌まった扉を開けると、亡き父と僕の家がある。
ごめん、と彼が小さい声で謝る。
気持ちは分かるよ、と返す。
彼は曖昧に笑おうとし、僕はその白々しさに笑う。
*
仕事で三日間の出張が決まり、どっちが行くかで大いに揉めた。さいころを振って、結局僕が行くことになった。仕事なんてやりたくないけれど、何故かほっとした。
出張の前日は僕が夕飯を作った。彼はレコードラックからシューマンの作品集を取り出そうとして、逡巡し、ドビュッシーを選んだ。
父の遺したレコードプレーヤーが回っている。もう針の替えがないから修理はできない。彼は僕がいつもそうするように、B面からかけた。僕は針が落ちるのと同時に、白い皿にサーモンのムニエルを乗せる。焦がしたバターソースを回しかけ、乾燥パセリを散らす。これは父のレシピじゃない。僕はムニエルが大好きだけど、父は絶対に作らなかった。彼が決して作らない、僕が僕のためだけに覚えた料理は他にもいくつかある。フレンチトーストとか、ホワイトシチューとか、ハンバーグのホイル焼きとか。イタリアン以外にも美味い料理はたくさんある。
彼が席に着き、僕らは場違いに日本的な箸で魚肉を割った。舌の上で溶け出すバターと薄い衣の歯触り、パセリの仄かな香り。
「美味いよ、これ」彼が言う。
「そうだね」檸檬があればもっとよかった。
彼が微笑みすら浮かべて箸を運ぶ様子から目を逸らすと、窓外に弱々しく光る月が見えた。アパートの窓は雨戸がないから嫌いだ。蛾が張り付く。この部屋はお前のために光ってるんじゃない。
ピアノを聴きながら、行儀悪くスマートフォンでヒットチャートを眺める。僕は僕のために好物を作った。ピアノは好きだ。それでも苦しかった。何をやっているんだろう。最近仕事の引き継ぎも上手くいっていない気がする。一日にこなした業務は全てメモを残している筈なのに、身に覚えのないことで怒られる。僕があんなことでミスをする筈がない、双方が同じ主張をするせいで生じる矛盾が、皿の上で厭な音を立てた。机上に知らないタスク、同僚が持ち出す知らない飲み会の話、不透明な出金記録。同じ船に乗ったストレルカとベルカ。これ以上僕の知らない僕を増やされるのは困るんだ。
*
翌朝、僕はスーツケース片手に溜め池の前で立ち尽くしていた。
朝陽に照らされて輝く池の淵に、緑の藻に絡まる僕の死体を見つけたから。
*
♩=132 光(檸檬を手に)
僕が出張から帰ってきた時、街は記録的な雷雨に見舞われていた。
傘はすぐに駄目になって、畳んで手に持つことにした。とても楽しい気分だったから、スーツケースを引き摺りながらSingin' in the Rainを口遊んだ。このまま街ごと沈めばいいのに。宇宙の真ん中でたった一粒の雫になればいい。
アパートのドアを開けると、彼は明かりをつけたまま呑気にソファで寝ていた。酒の匂いが霞のようにたなびいている。ビールと煙草と睡眠薬がテーブルの上でいくつも横倒しになっていた。何もしないで一人で家に居ると僕はこうなる。深呼吸をひとつして、三日前から決めていた手順通りに台所から一番大きい包丁を取り出し、寝息を立てるそれに振り下ろした。首筋や腹部からいかにも人間らしい赤い血が溢れてカーペットを重くする。間違っても二度と起き上がってこないように何度も、確認するようにやった。近くにあったブランケットをかぶせて血を吸ったカーペットと一緒にガムテープで巻いた。僅かに息が上がった。
僕らは雨の中を、時間をかけて散歩する。もう一人の僕が眠っている溜め池へ向かう。誰かに見られても良いと思っていた。そうなったら手伝いを頼もう。
やっとの思いで辿り着いた場所で、僕は柵から身を乗り出すように死骸を池へと放り込んだ。派手な音を立てて、黒い飛沫が上がる。
警察に見つかった時のことを考えるとなんだか可笑しくなってきた。どれだけ捜査しても指紋も血液も毛髪も、僕が僕を殺した証拠しか出てこない。これは完璧な自殺なんだ。僕は自殺の罪で裁かれるのだろうか。どうでもいい。とにかく今は清々しい気分だ。驟雨に打たれる池の水面は首を垂れた街灯から降り注ぐ絢爛を受け、一層輝く。銀河。
♩=60
「ただいま」鼻歌混じりに、普段言わないような挨拶までして部屋に上がれば、「おかえり」と暗い声が返ってきた。
大きな金属音がして、手から家の鍵が滑り落ちたことに気がつく。
電灯の消えたリビングの、真ん中だけがいやに明るかった。
彼は静かにレコードを一枚選んでいる。
火の匂いがしていた。蝋燭の橙の光が僕の眼に眩く射し込む。懐かしい光。こんな景色を何処かで見たことがある。遠い昔の、僕が忘れていた僕の記憶。
テーブルの上には苺のショートケーキが二つ乗っていた。向かい合って席に着けば、新雪のようにきめ細やかな白いクリームの上に寸分違わぬ二つの黒い影が落ちる。
そして
水棲の人 詩縞隻 @seki00138
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