第6話 疑惑解消とわたしの疑惑?
「今日もみなさん、時間通り。集まりましたね」
女の人の声がして、バタンとドアが閉められる。
そーっと近づく。閉められたドアには「自分史講座」と書かれたA4の用紙が貼られている。
自分史講座?
「安藤さん、いろいろ調べたんだって?」
さっきとは違う女の人の声がする。
「ええ、記憶違いがあるといけないと思って。実際の場所に行ってみましたが、五十年前と比べるともう田んぼという田んぼがなくなっていて、あんまり参考になりませんでした」
父が笑って言っている。
「でも、素晴らしいことですよ。過去をきちんと確かめて整理する。それだけでも自分史を書く意味があるってものです」
最初の女の人の声がした。どうやら、この人が先生らしい。……自分史講座とやらの。
それにしても、自分史講座ってなんだよ?
フラフラよろめきながら、エレベーター側の隅に置いてあったソファに腰掛ける。
バッグからスマホを取り出して母にメールする。
チチ、ウワキナシ。ジブンシ。
頭の中に浮かんだのはそれだけだが、もちろんちゃんとした文章を打った。
自分を取り戻すまでしばらくここで充電しよう。
うっすらとしめったツイードのソファに座り目を閉じる。眠るのと眠らないのとの狭間のような時間がすぎた。
ようやく自分を取り戻したら、トイレに行きたくなった。トイレに行って手を洗っていると、外が騒々しい。
自分史講座が終わってメンバーが出てきたらしいのだ。
手を洗うのをやめ、息をひそめる。
トイレの前を過ぎ去る足音、お年寄り独特のゆっくりとしたざわめきが過ぎて、わたしは胸をなでおろした。それでもやっぱり父と出くわすことを恐れ、五分ほど待ってから出る。
しかし、トイレから出てギョッとした。
ちょうど父も男子トイレから出てきたところだったのだ。
「晴美? なんでこんなところに?」
不思議そうに、ちょっとうれしそうに父が聞く。
「晴美ってどなた?」
声色を変えて、他人のふりをしてみた。だって、わたしは今バッチリメイクの変装中のはずなのだ。
「どうした? 体調でも悪いのか?」
父が心配している。もう逃れようがないので、
「あ、いや、仕事の調べものがあって図書館に来たんだけど、下のトイレが混んでて」
と言った。やっぱりとっさの言い訳は得意だ。
「ああ、試験前みたいで学生がいっぱいいたもんなあ」
のんきに父は納得している。
学生よ、定期テストよ、ありがとう。おかげで言い訳に真実味が増しました。
「それより、お父さんは?」
忍者業務に戻って念のため聞いておく。
少し間があったが、
「父さんは、この奥の会議室で講座を受けてたんだよ」
と白状した。
「お母さんに内緒で?」
ちょっとだけ責めるように言う。父はそれには答えずに、
「晴美もお昼どうだ? 父さん、講座の仲間たちといっしょにこれから向かいの店で昼を食べるんだ」
と言った。
図書館の向かいの店のランチはおいしい。おにぎりを持ってきてはいたけれど、わたしは二つ返事で承諾した。
父の自分史講座の仲間は全部で五人だった。皆、父とほぼ同年代だ。
「自分史を書かれるなんて、みなさんすごいエネルギッシュですね」
わたしが言うと、全員が全員否定した。
「やることないからね、この講座タダだしやってみようかなって。まあ、要は暇つぶしよ」
白髪を赤く染めたおばあさんが言う。
「でも、わたしなんて自分史なんて書こうと思っても三行くらいで終わっちゃいそう」
本当にそうだ。何も書くことなんてない。
「おまたせしましたー」
ワンプレートにのった大きなミンチカツサンドからほかほかと湯気が出ている。
「それ、おいしいのよねえ。でも、わたしは七十五のおばあさんだから全部食べられなくって。娘は残せばいいって言うんだけど、わたしたちの世代は残すのが嫌なのよ」
わたしの皿を覗き込みながらうらやましそうにおばあさんが言った。しかし、五年後、母がこう言うとは到底思えなかった。
それからも、たわいもない話を続け、一時間ほどしてランチは解散となった。
「どうしてお母さんに自分史講座に通ってること言わなかったの?」
父と二人きりになったわたしはもう一度聞いた。父は、
「作品集を作るから、それができたら見せようと思ってたんだ。母さんや晴美をびっくりさせようと思ってさ」
と言った。
別に自分史くらいでそこまでびっくりはしないだろう。
あー、ばからしい。
そう思いながら、父と別れる。これまでの忍者業務をふり返ったら、なんだか笑いがこみあげてきた。
そうだ、久しぶりに「ノノハラ」に寄ってケーキを買って帰ろう。
モンブランを買おうか、ショートケーキにしようか、それともこの時期ならレモンタルトかと考えながら歩き始めたとき、
ドンッ!
と誰かにつきとばされた。直後、ブオオオーンと物凄い勢いで車がわたしのすぐ側を通り過ぎる。
危なかったあ。
わたしは大きなため息といっしょに胸をなでおろす。そのとき、影がサササッと動いて消えた。
わたしにぶつかったのってあの人? というか、あれ、人だった?
素早過ぎてはっきり確認できない。
そう言えば前にもこんなことがあった気がした。
わたしがすごく小さい頃だ。
道路に転がっていったボールを拾いにいったときだ。あとちょっとでボールに手が届く、そう思ったとき、突然現れた影にわたしはつきとばされた。その後、トラックがバックしてきた。あやうくわたしはトラックに轢かれるところだったのだ。
あのときも、こんな感じだった。つきとばされたのに、けがもしない。ちょうどいい感じに事故にあわない。不思議な感じ。
家に帰ると、夫がソファに寝ころんでテレビを見ていた。
「調べもの、済んだ?」
と言ったので、ノノハラのレモンタルトを食べながら、ことの顛末を説明した。
すると、夫が急に腹を抱えて笑い出した。死にかけのゴキブリみたいに脚をバタバタさせている。
「そんなに笑うことないじゃない。お母さんだって心配だったんでしょ」
ちょっとムッとする。
「いや、違うんだ。実はぼくも晴美が浮気してるんじゃないかって疑ってたからさ。今日なんてあんなにバッチリメイクして出かけるし。でも、それが変装のつもりだっただなんて」
クックックッと夫は涙を流していつまでも笑っていた。
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