第4話 母の激励?
それでも、忍者業務は続行された。
三日目の今日は実家からはちょっとだけ離れているが、近所の人に会いそうにない月極めの駐車場で待ち伏せた。昨日や一昨日に比べれば、忍者業務はだいぶうまくなったと言っていい。しばらくの間、尾行できたのだ。父が近所のチェーン店のドーナツ屋に入って行くところまで確認し、わたしはドーナツ屋の自転車置き場で待ち伏せをした。しかし、いつまで経っても父は出てこない。一人おじいさんが出てきたけれど、今日の父の服とは違う色だったし、足が悪いのか杖をついていた。
二時間ほど待って、しびれを切らして店の中に入ったが、父は店の中にいなかった。念のため、男女兼用一つしかないトイレも確認したがそこにもいなかった。
父は消えたのだ。
母にメールで伝えると、すぐさま電話がかかってきた。
「今すぐそこに行くから、店の中で待っとって!」
母はそう言って電話を切った。
コーヒーだけ頼んで母を待つ。ここのコーヒーはおかわりができるのがいいところだ。十分ほどすると母がやってきた。
「こっち、こっち」
きょろきょろしている母に手を振る。全然気づいてないので、近くまで行って声をかけた。
「うわっ! あんたが晴美かね。わたしゃ、知らん人が手を振っとるなあ、誰かと間違えとるんだなあと思っとたわ」
母はまじまじとわたしを見た。
フフフ、変装はどうやら成功しているらしい。
しかし、母の興味はすぐに逸れた。
「あ、こんなんやっとるんかね」
壁のポスターを指さす。ポスターには「ドーナツ六十分食べ放題 千二百円」と書かれている。
「お母さんがおごってあげるよ」
母はそう言ったと思ったら、レジにいた店員に向かって、
「食べ放題二人ね」
と言っていた。
ダブルハニーツイストとトリプルチョコレートパイを食べたら、もうお腹はいっぱいだった。母はすでに四つ目のドーナツを食べ終え、クリームソーダを飲んでいる。食べ放題かつ飲み放題なのだ。
「甘いもの食べた後に甘い飲み物ってキツくない?」
聞くと、母はストローをすったまま首を横に振った。
六十分丸々食べ続けられる人なんて滅多にいないだろう。そう思ったのだけど、滅多にいないどころかすぐ近くにいた。
「はああ。歳を取ると食べられんくなるねえ」
制限時間の六十分が過ぎ、母は残念そうにしている。
わたしはそれを見ながら、
「お父さんのことだけどね。諦めてお父さんに直接聞きなよ」
と言った。
「だめだめ。証拠をつかんで、がっぽり慰謝料貰って別れるんだから」
母は父が浮気しているといよいよ確信を強めていた。
それはわたしがことごとく尾行を失敗したせいでもある。
母は、父と別れたら、母の故郷に戻って古民家を買い自給自足の生活をすると言った。古民家の大きさ、畑の大きさ、その相場、貯金の金額、果ては育てた大根のたくあん漬けの作り方までまくしたて、
「前から憧れてたの」
と言う母は結構楽しそうだった。
「じゃあ、むしろお父さんと別れたいの?」
母を見つめたままコーヒーに口をつける。
「あちっ!」
さっき、店員さんがおかわりをついでくれたばかりなのを忘れていた。
「ほんと、ドジだねえ。明日はドジをふまないでね」
心配されるどころか、くぎを刺された。
結局、母が父と別れたいのかどうか、本当のところを聞かずじまいに終わった。
昼の間ろくに翻訳の仕事ができないので、夜に翻訳の仕事をすることになる。父の尾行を始めてからずっとだ。
しかし、昼間に母の言っていたことが気になって、浮気した場合の慰謝料やら、たくあん漬けの作り方なんてのをネットで調べていると、軽くドアがノックされた。
夫がカモミールティーを持ってきてくれたのだ。カップを机に起きながら、視線がパソコンの画面にいっている。水色のサークルが画面は浮気の慰謝料について書かれたページを開いていた。
そっとノートパソコンを閉じる。
「最近、仕事が忙しいの?」
夫が言った。
「ううん。そんなに忙しくもないんだけどね。ちょっとてこずってて」
本当のことだ。翻訳ではてこずっていないが、忍者業務にてこずっている。
「そう。ぼく、先に寝るね」
夫はそう言うと、一度何か言いたそうにふり返ってから、部屋を出て行った。
再び、ノートパソコンを開くと新着メールがきていた。母からだ。わたしが夜の仕事をしていると近所でうわさになっていると書かれていた。
どうやら路駐のサラリーマンがうわさを広めたらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます