前日譚

エコエコ河江(かわえ)

デスブリンガー・エンジェル

 レグネーベルは裏路地の女王となった。幅を効かせていた乱暴者たちは鳴りを潜めて、媚びるものさえ現れ始めた。寝込みを襲われては返り討ちにし、派閥争いをしては勝ち続ける。掃き溜めでもそこそこ快適になってきたが、この座に収まりはしはない。仇はまだ見つからない。


「マム、お言葉ですが、これ以上は外しかないです」

「わかった。留守番は任せるよ」

「行くんですか? 死んじゃいますよ!」


 問う声を背中で受けて、レグネーベルは歩いた。長髪と服の裾を少しでも繕いながら進む。呼び止める声に気づいた大小様々な輩がお供にと申し出るが、すべてを無視して歩いた。上層へ続く扉まで一人だけで歩いた。最後までついてきた足音に気づきながら、ついぞ一瞥もしないままで扉が閉じた。


 レグネーベルは階段を登っていく。錆びついた鉄板は一歩ごとに不愉快な金属音を鳴らす。幅は狭く。すれ違うにもひと苦労だが、掃き溜めの五番区に用がある者などどこにもいない。順々に繋がっていた頃はもっと手入れされていたらしいが、六番区への別の道を作ってからは、完全に無用になった。


 山岳都市イラーミザは、世界の全てを集めたとも呼ばれる巨大な都市で、その半分を四番区が占めている。商店街と中流の居住区がいくつも連なり、少しずつ違った構えで栄える。


 都市と異種族を嫌うエルフはいないが、それ以外のおおよそ全てに適した設備がある。リカントロプの大柄さでも通れる扉があり、蛇人が使う細長い密集路があり、鳥人と空亀の発着場がある。


 煌びやかな都市にも影はある。レグネーベルは真っ先に裏路地を探して、ゴミ箱から五番区との違いを調べた。果物の芯の周りが残っている。齧り付いた。丸まった紙の中にソースが残っている。舐めとった。


 初めて五番区に流れ着いた日と同じことをしている。こちらの方が残飯が多く、質もいい。それでいて虫が集っていない。言い換えるなら、ここを餌場にする者が少ない故でもある。手放しにいい環境と言い切るには早い。その理由がすぐに現れた。


「よう姉ちゃん。噂のゴミ荒らしだな」


 レグネーベルと比べ身長は半分、幅は二倍、筋力は三倍の、ドベルの男が戦斧を構えた。身長以上の柄を巧みに操り、刃がちょうどレグネーベルの頭の高さになる。


「私は今日、ここに来たばかりだけど」

「その言い逃れは聞き飽きたんだとよ」


 問答をしないつもりらしく、ドベルの男は踏み込んだ。戦斧の横振りで迫る。まずはのけぞって直撃だけは避けた。髪の先が散らばる。道の広さに合わせて持ち手を前後させ、ぎりぎりでぶつからない長さに調整している。元より強靭な腕力が第三種テコにより増幅される。当たれば真っ二つだ。


 ドベルの男は姿勢の維持を優先するようで、焦った追い上げをしない。後進でどうにか避けられるとはいえ、長くは続けられない。この先に道そのものは続いていても、通るには荷物の隙間を進むしかなく、通る間は縦振りを避けられない。実質的な行き止まりだ。


 懐へ飛び込もうにも、当然の兜に阻まれて致命傷は与えられない。相手からは戦斧を短く持ち替えるだけで刃が届く。何の優位も得られない。


 それでもレグネーベルは恐れもしない。完全武装の集団から逃げ切ったこともある。一人だけなら、やりようはいくらでもある。


 まずは持っていた果物を投げつけた。爪でつけた傷から汁を滲ませて、ドベルの男の顔へ飛んでいく。あわよくばと思ったが、もちろん手の甲で弾かれた。時間稼ぎにもならないが、これでいい。汁の匂いが手についただけで目的は達成している。


「助けて! ゴミ荒らしが襲ってくる!」


 ゴミ荒らし自身がゴミ荒らしが出たと喧伝する。裏口へ声をかけながら進み、しばらくしたら数人が現れてくれた。これで加勢させたと思ったが、レグネーベルは知らない。ドベルの男が襟内から何かを見せると。全員が剣を収めた。


「知らないのか? 俺は正規の依頼を受けている」


 詳細は後にして、まずは周囲を使った手は封じられたとわかった。ただしこの様子なら横槍もないらしい。飛び出した連中はいくつかの悪態がありつつも、全員が加勢せずに戻っていった。ここではそういう取り決めらしい。


 これならどうか。出てきた者の一人が戻る前に、羽交締めにして盾とする。けれどもドベルの手は何事もないかのように人質越しに戦斧を振る。刃だけは人質に当たらないようにしつつも、脇腹への打撃音があった。


「お前! 卑劣な手を使いやがって!」


 頭に血が上った様子を見せる。無視して振るったくせに、義憤の種だけは押し付けてくる。おかげで移動の時間と勝機が得られた。盾で最低限の受け流しをしながら、ドベルの側面から距離を詰める。勝ち誇った顔で戦斧を引くが、柄の先端が音を立てて弾かれた。盾の奥への調整に注力するあまり、限界を見誤らせた。背後に壁がある限り、これ以上は引けない。


 ソースが残っていた紙をドベルの顔に押し当てた。兜には表面の凹凸が少なく、ぴったり密着してくれた。乾きかけた糖分の粘りで手を使わずには離れない。手を使えば残りは一本になる。レグネーベルの二本の腕に対する隙を見せるか、そうするまでは視界がなくなる。


 この間に襟内を引っ掴んで確認した。黒地に目立つ唯一の、小さなバッジを千切り取った。これの正体がわかれば話は早い。


 レグネーベルは走った。動かれる前に十分な距離を稼いだら、分かれ道の選択肢が多い方へ進む。初めて歩く街並みでも、上から眺めたことはある。ずっと前の記憶を引き出しながら走る。十分に離れたら大通りに出て、適当な通行人に声をかけた。


「すみません、バッジを拾ったんですが、ここからだとどこへ届ければいいでしょう」


 その日の夕刻、教えられた建物の扉をくぐった。


 調度品は場末の酒場に近い置き方をしている。動くものは受付らしい鳥人の男が一人だけだった。定住に利点がないはずなのに、ここにいる。訳ありが集まるらしい。


「よう、お嬢ちゃん。何の用だい?」


 今のレグネーベルは貧相な見た目をしている、白かった服には黄ばみと所々の解れが増えて、髪を精一杯に整えたが傷や古い汚れを隠しきれていない。受付の男は明らかに追い返したそうな言葉を使う。


「仕事をもらいに来た」

「へえ。売店は隣で、キャバレーは向かい側だが」

「傭兵を騙る、何でも屋の斡旋所でしょう。誤魔化しはいらない」

「随分な言い草だな。経験は?」

「直近では、こそ泥を捕まえた」

「そうかい。なら最初はこれだな。達成をもって合格とする」


 試験と称した厄介払いの意図を隠しもせずに難題を提示してきた。このぐらい片付けてやるつもりで読み込む。稚拙な似顔絵の隣に短い文が添えられていた。『頭を暗殺せよ。法律家にも対処せよ』他の誰であっても頭を抱える内容だが、レグネーベルにとっては都合がよかった。仇討ちの相手の可能性がある。

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前日譚 エコエコ河江(かわえ) @key37me

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