第2話 催魔《さいま》

 天登あまとは、学校帰りに夕飯の材料と日用品を買って、家路に着いていた。今日はバイトはない。あかりは後で本を返しにくると言っていたな。いつでもいいのに、ホント律儀なやつだよ。


 アパートに近づくと、敷地前の路上に人だかりができている。


 (なんだ?)


 急ぎ足で近づいてみると、天登あまとは驚いた。


 「か、母さん!」


 天登あまとの母は、寝巻き姿の裸足のまま、アパートの階段下に立っていた。

 手には出刃包丁。目は虚だ。

 警官が拳銃を構えている。パトカーの傍でもう1人の警官が無線を使っている。

 野次馬は警官から少し離れ、遠巻きにみている。


 「う、動くな! 動くと打つぞ!」


 明らかにうろたえている警官。

 天登あまとは、思わず拳銃の前に立ちはだかった。


 「やめてくれ! 俺の母さんなんだ! 撃たないでくれ!」

 「君! どきなさい! 刃物を持っているんだぞ!」

 「俺がなんとかします!」


 「母さん、母さん、俺だよ、天登あまとだよ、わかる?」

 「ア、アマト‥?」

 「そうだよ、天登あまとだよ、さあ包丁を渡して。家に帰ろう」


 天登あまとは母の様子に、強い違和感を感じた。

 母さんは身体は弱いが、精神はとても強い人だ。

 こんな白目を剥いた錯乱状態なんかに、今までなったことがない。


 「ア、アマト、天登あまと、コ、コロス……」

 「えっ?」

 「こ、ころす、天登あまと、殺す!」


 天登あまとの母は右手に持った包丁を振り上げた。

 天登あまとは思わず目をつぶった。

 その時、


 「天登あまと! 逃げて!」

 はっとして天登あまとは目を開けた。

 母の顔に正気が戻っている。

 「母さん!」

 近づこうとした時、

 「離れなさい天登あまと! お母さん、なぜか、身体の自由が利かない。あなたに向かって包丁を振り下ろそうとしてしまう、今精一杯止めてるから、早く逃げなさい!」

 振り上げた母の右手が、プルプルと震えている。

 「逃げるなんて無理だよ母さん! 母さんを元に戻さないと! 一緒に家に帰ろう!」

 「できないの! もう、もたない‥‥」

 「母さん!」


 「へっへっへっ、ここまで粘るやつは初めてだ」


 その声はアパートの屋根の上から聞こえた。

 天登あまとが思わず見上げると、そこには荷物配達員の服装をした長髪の男がいた。

 髪で顔は隠れているが、長い舌が顔の外まで出ている。

 「それっ!」

 男が両手を突き出し、指先に力を込めた。

 すると

 「あぁぁぁ!」

 母が苦しみ出し、包丁が振り下ろされそうになる。


 「母さん! くそっお前は誰だ! お前が母さんを操っているのか?」

 「俺は催魔さいまだ。そうだよ。お前を殺すためにな、へっへっへ!」

 「なんで俺を狙う! なんで母さんを使う! 直接俺に来ればいいだろうが!」

 「へっへっへっ、念には念を入れてな、それっ!」

 再び催魔さいまが指に力を込める。


 「うああっ!」

 母がうめく。包丁が振り下ろされそうになったその時、母の左手が天登あまとを突き飛ばした。

 「うっ!」

 後ろにふっとんだが、おかげで天登あまとは距離をとることができた。

 

 天登あまとは、母の左手に、はっきりと母の意思を感じた。

 しかしすごい力だ。

 母にこんな常人離れした力があるはずがない。


 「天登あまと! おばさん!」

 後ろからの声に振り返る。

 「あかり! 来ちゃだめだ!」


 「お、もう一匹来たな、それっ!」


 催魔さいまが右手をあかりに向けた。

 その瞬間、あかりは「うっ」と叫び、金縛りにあったように直立し、動かなくなった。

 やがて震え出し、口からは涎がしたたり落ちる。

 目はゆっくりと焦点が外れてゆく。

 「うううううううううーー!」

 あかりが奇声を上げる。


 「あかりまで! やめろ!!」

 「お前が死んだらやめてやるよ」


 天登あまとは憤った。

 なんだこいつは? なぜ俺を狙う? なぜ俺の大切な人達を巻き込む? 訳がわからない!


 催魔さいまは考えた。

 (母親はえげつない意思の力だ。それに催眠に入ってから時間が経ち過ぎて、少し慣れてきてやがる。操りきれねぇ。若い女の方で殺るか……)


 催魔さいまは再び指先に力を込め、人差し指を直角に曲げた。

 するとあかりがものすごいスピードで母の方へ突進し、母から包丁を奪った。

 そして包丁を両手に構えた。


 しかしその時、あかりの顔にも正気が戻った。

 「ダメ! 天登あまと逃げて! 身体の自由が利かない! あなたを刺しちゃう!」

 「ちぃ、意思が戻ったか、どいつもこいつもありえねぇ奴らだ。しかし身体の自由はいただいている。このまま殺す!」


 催魔さいまは、右手を力一杯握った。

 その瞬間、一気に加速したあかりは、包丁を構えて天登あまとに突進した。

 警官が発砲したが、信じ難いことにあかりは弾を跳ね返した。

 天登あまとにはなす術がない。


 しかし、と、天登あまとは考えた。

 どうやら催魔さいまの目的は俺のようだ。

 自分が死ねば母さんもあかりも解放される。

 天登あまとは目を瞑り、覚悟を決めた。


 次の瞬間、天登あまとは大きな衝撃で、後ろに突き飛ばされた。

 背中を打った痛みで目を開ける。

 どこに刺さった?

 身体をみても、刺し傷はどこにもない。

 顔を上げると、目を疑う光景が飛び込んできた。


 「母さん!!」


 腹部からおびただしく出血する母。

 血まみれの包丁を手に、茫然と立ち尽くすあかり……。  

 「きゃあああああああ!! わたし、わたし、なんてことを! あぁぁぁぁ!」


 泣き叫ぶあかり。

 あかりが天登あまとに突っ込んだ瞬間、母が間に入って、天登あまとを庇い、代わりに刺されたのだ。


 母は傷口を押さえながら、

 「あかりちゃん、あかりちゃん、私は大丈夫だから、あなたも、天登あまとも無事なら、私は大丈夫だから……」

 「いやぁぁ! おばさん……、わたし、わたし、いやぁぁ!」

 泣き崩れるあかり。

 催眠術は解けているようだ。


 (なんでこんなことになる! なんで俺の大切な人たちがこんな目に遭わなくちゃいけない? みんな何をしたって言うんだ。許せない! 絶対に許せない!)


 天登あまとの感情が高まった時、両てのひらに尋常じゃない熱さを感じた。

 みると、絵の具の原色のような、濃い、真っ白な光がてのひらで輝きを放っている。


 「ハァ、ハァ、君! それを、催魔さいまに向けて、打ちなさい!」

 誰だかわからない、遠くから届く声。

 なんだかわからないけど、なんだってやってやる!


 天登あまとは両腕を催魔さいまに向けて突き出し、思いっきり力を込めて、放った。

 「いけぇぇ!!」


 ドンっという音と共に、光は球体になって催魔さいまへ一直線に飛んでいく。

 まるで大砲のように一瞬だけ軌道が見えたかと思うと、次の瞬間には催魔さいまの胴を貫き、空の彼方へ飛んでいった。

 「うぎゃああぁぁ!」

 苦しむ催魔さいま


 そこに長身の男が到着し、催魔さいまの顔を足蹴にし、踏みつけた。

 「ハァ、ハァ、怪我人が出ちゃったじゃない、ハァ、ハァ、許せないわ、あんた。今殺す」

 「ま、待ってくれ、ま、ま!」


 長身の男は光り輝く鎖鎌のような武器を一閃した。

 「うぐ! ああああ……」


 催魔さいまは首を落とされ、叫び声を残し、息絶えた。

 その身体は急速に腐り、蒸発してゆく。

 あたりに一瞬悪臭が立ち込めたが、すぐに消えた。


 長身の男がアパートの屋根の上から叫んだ。

 「警察! 何してるの! 怪我人がいるんだ! 救急車を呼ばないか!」

 「は、はい!」


 長身の男は地面に降り立ち、母さんのそばに屈み、手から白い光を出して傷口に当てがった。

 「ひどい出血。気休めにしかならないけど、出血のスピードは落ちる。天登あまとと、その彼女さん? お母さんを絶対助けるわよ!」

 「は、はい!」


 天登あまともあかりも、母の傷口に手を当てがい、少しでも出血を止めようとした。

 救急車が来るまでの時間が、永遠のように感じられた。


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