第12話 彼女の肯定
その後ベイルートに戻ったのは、深夜のことだった。
ぼんやりとしたまま帰宅すると、アパートのドアの前に誰かがいた。
一瞬敵か何かかと思って身構えたが、よく見るとそれはラティーファだった。
ラティーファはハーフィドが来たことに気付くと、手を振って微笑んだ。
淡い緑のタイ付のブラウスに揃いのプリーツスカートを着たラティーファの姿は、暗い廊下の電灯の下でふわりと浮かぶように照らされていた。
「何で、君がここに……?」
ハーフィドはラティーファの突然の来訪に驚いて尋ねた。
以前話した覚えはあるので住所を知っているのは不思議ではないが、今この時にやって来る理由はわからなかった。
しかしラティーファは、まったく言いよどむことなく訳を述べた。
「ガァニィから話を聞いて、どうしてるかなって思ったから。シャクールを殺しに行ったんでしょ」
ラティーファはハーフィドのことを気遣っているようではあったが、その言葉は何も包み隠さなかった。
人の死を恐れない直接的な問いかけに、ハーフィドは何も言えずに見つめ返した。
ラティーファの黒い瞳は、迷いのない目でハーフィドの弱さを映している。
ハーフィドはただ黙って、ラティーファの前に立ち尽くしていた。
その無言の答えに、ラティーファは自分が必要とされていないと思ったのか、少し考えて肩にかけていた鞄を抱え直した。
「帰った方がいいなら、帰るけど」
ラティーファが気を使って、出直すことを提案する。ハーフィドのためなのか自分のためなのか、無理してそばにいるつもりはないようだ。
慌ててハーフィドは、一旦身を引こうとするラティーファの腕を掴んだ。
ハーフィドは一人になりたくはなかった。自分のしたことと向き合わなくてはならないなら、誰かが隣にいてほしかった。
「いや、帰らないでくれ」
震える声で、ハーフィドはラティーファを引きとめた。
「じゃあ帰らない」
ラティーファはハーフィドに歩み寄り答えた。
その凛とした声はハーフィドの耳に心地よく響いた。
「ごめん。ありがとう」
「勝手に来たのは私でしょ」
申し訳なさそうにお礼を言うハーフィドに、ラティーファは小さく笑った。
こうしてラティーファを家に入れることを決めたハーフィドは、ポケットから鍵を出してドアを開けた。
「そうたいした場所じゃないけど、とりあえず座って」
ラティーファを中に通し、ハーフィドは言った。
玄関から入ってまず見えるのはキッチンとダイニングだが、ハーフィドは掃除が苦手ではないので、家の中もいつもそれなりに人を招ける状態になっている。オレンジ色の電灯が物件の古さを隠し、雰囲気はそう悪くはない。
「お邪魔します」
あたりを興味深げに見回して、ラティーファはダイニングセットの椅子に座った。
今までずっとシャクールがいた場所にラティーファが座ったので、ハーフィドは胸の奥がざわついた気がした。
シャクールの記憶から逃げるように、ハーフィドはラティーファに尋ねた。
「お茶とコーヒー、どっちがいいか?」
「うーん。じゃあコーヒーで」
「わかった」
返事をしてキッチンに向かうと、ハーフィドは無言でコーヒーを用意した。すぐ後ろにはラティーファがいるのだが、何を話すべきなのかはまったくわからなかった。
「お菓子は切らしてて」
コーヒーだけを盆に載せ、ハーフィドはラティーファに声をかけた。
「ありがとう」
ラティーファはコーヒーを受け取ると、ゆっくりと飲みだした。
ハーフィドが気まずく感じている沈黙は、ラティーファにとってはまったく苦ではないようである。
その雰囲気に甘えて、ハーフィドは何も考えずに自分もコーヒーを飲んだ。
静かにただそこにいるラティーファを前にすると、気持ちが落ち着く気がする。
その後コーヒーを飲み終えるころには、ハーフィドはラティーファが家にいることをほとんど受け入れていた。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
ラティーファはお礼を言って、空のカップを置いた。
そして立ち上がり、部屋の隅に置かれた棚の前に立った。その棚の中にはハーフィドがよく聞くレコードとプレイヤーが入っている。
「レコード、すごいたくさんあるね。あんまり名前を聞いたことのない人のもある」
「まだ寝室にもあるんだ。前の家にいるときからよく聞いてるから」
レコードの表紙の縁を指でなぞるラティーファに、ハーフィドは答えた。家を出るときに厳選したとはいえ、ハーフィドのレコードの所有量はそれなりに多い。
「前の家って、アメリカだよね」
レコードを眺めながら、ラティーファは尋ねた。
ガァニィから聞いたのだろうかと思いつつ、ハーフィドは軽く説明した。
「あぁ。家族でラマラからデトロイトに移住したんだ」
「そっちでは、うまくやっていたの?」
「まあな。親の仕事も上手く行ってたし、なじめなかったわけじゃない」
家を出て武装組織に入ったが、ハーフィドはアメリカという国が嫌いなわけではなかった。運が良かったのか極端な差別も受けなかったし、新しい友達だってできてはいた。
ハーフィドの身の上話を聞いたラティーファは、羨望を隠すことなく遠くを見た。
「いいなぁ。私、アメリカに行ってみたいんだよね。この街もお洒落で明るくて気に入ってるけど、でもアメリカはもっとたくさんのものがあるんでしょ? 服とかミュージカルとか、楽しいことが」
まだ見たことのない楽園を思い浮かべて、ラティーファは目を輝かせた。
どうやらラティーファは、都会に憧れてベツレヘムの実家から出てきたらしい。ラティーファにとっての外の世界は、生まれ故郷を捨てでも行きたい場所なのだ。
それは、立ち去らなければならなかった故郷を未だ求めているハーフィドには共感しづらい感情である。だが理屈としては理解できるので否定する気持ちにもなれず、ハーフィドは困惑して黙り込んだ。
ハーフィドの反応が良くないことに気付いたラティーファは、静かに真面目な表情になった。そしてすべてを見抜くような視線で、ハーフィドをとらえた。
「……でもあなたにとっては、それらはそう意味のないものだったのかな」
「意味がまったくなかったわけじゃない。あの国で良い教育を受けさせてくれた親には、感謝してる」
じっと向けられたラティーファの顔から目をそらし、ハーフィドは小さな声でつぶやいた。非合法な存在にならなければ外の世界に出られなかったラティーファを前にして先進国に移住した過去を否定することはできなかった。
ゆっくりとハーフィドに歩み寄り、ラティーファはその退路を断った。逃げ道を失ったハーフィドは、ただ目の前のラティーファを見つめた。
「じゃあどうしてあなたは、恵まれた生活を捨ててここに来たの? テロリストなんかになった理由は?」
ラティーファの声色は優しかった。だがその言動は、ハーフィドをなぐさめに来たのか、それとも問いただしに来たのかよくわからない。
(俺がここにいる理由……それは……)
原点を問うラティーファの言葉に揺さぶられ、ある記憶がハーフィドに押し寄せる。
それはハーフィドの人生においてある意味もっとも大きな出来事であり、それゆえに普段は向き合うことができないものだった。
ラティーファの強い問いかけに負けたハーフィドはうつむき、ゆっくりとその記憶を話し出した。そう話したくはなかったが、なぜか逆らうことのできない力を感じる。
「……ラマラに住んでいた時、難民キャンプに友達がいたんだ」
過去を語るハーフィドの声がわずかに震える。
相づちもうたず、ラティーファは静かに黙っていた。その静寂を埋めるように、ハーフィドは話し続けた。
「母親はそんなやつと遊ぶのはやめろ、同じパレスチナ人でも立場が違うのだから関わるなと言ったけど、俺はそれでもそいつといた。友達は他にもいた。だけどそいつとは特別気が合ったんだ」
自分の家と土地を持っているラマラの街の人々は、難民キャンプの住民に対して同情をしていると同時に見下してもいた。彼らを浮浪者として扱い、自分たちとは違う存在だと考えた。ハーフィドの母親もそうであった。だがハーフィドはそんなことは気にせず、その少年と会い続けた。しかしそれは、そう長くは続かない日常だった。
幸福だった日々の終わりを思いだし、ハーフィドは目をうるませる。
「でも六月戦争でイスラエル軍が来て、状況は急に悪くなった。あいつらは銃と暴力で俺たちを支配した。その中でもやっぱり、街よりもキャンプの方がずっと占領は厳しくて……。それで、そいつはある日撃たれて死んだ」
六月戦争というのは、イスラエルが多くの土地を獲得した1967年の戦争のことである。イスラエルの巧妙な奇襲にアラブ各国は大敗し、ハーフィドの住んでいたヨルダン川西岸も占領された。その動乱の中で、幼いハーフィドの友達は殺されたのだ。
ハーフィドは、無力でしかなかった過去の自分が悔しかった。
「街には外出禁止令が出されていたから、そいつが死んだことを知ったのは何日もたってからだった。友達が殺されたのに、俺は何も出来なかった」
ラティーファに話していながらも、ハーフィドはシャクールのことを思い出していた。
(本当はこの話は、シャクールに聞いてほしかった)
これまでハーフィドは、誰にもこの話をしたことがなかった。これはガァニィも知らないことである。
ハーフィドは殺してしまう前に、シャクールが何を考えていたのか聞くことができた。
だがハーフィドの一番大切な気持ちはついに話すことができなかった。
「異国で平和に暮らせるとしても、すべて忘れて幸せになんてなれない。そんなこと許されないし、許されたとしても俺は俺を許せない」
ハーフィドは声が裏返りそうになるのをこらえて、うつむいたまま吐露した。
家族とアメリカで暮らしているとき、ハーフィドは何度かもうこのまま普通の移住者として生きていこうかと思った。だがその度に、死んだ友達のことが思い出された。故郷の記憶は美化されて、ハーフィドを責めるように心にずっと残り続ける。
ハーフィドはその日々を忘れることはできなかったし、かと言ってそれを抱えたまま別の場所で生きていくこともできなかった。
すべてを打ち明けたハーフィドに、ラティーファはそっと顔を近づけてささやいた。
「あなたは優しいね」
「だったらシャクールを殺したりしないだろ」
ハーフィドはラティーファの蠱惑的な声から逃れようと後ずさったが、後ろは壁だった。
冷たいラティーファの手が、ゆっくりとハーフィドの頬を撫でる。
「他人は殺せるのに身内は殺せないあなたなら、わたしは好きになったりしないよ」
耳元でラティーファが何を言っているのか、ハーフィドには意味がよくわからなかった。だがハーフィドは許されるべきではない罪まで受け入れられてしまったような気がして、嫌な気持ちになった。
「俺はそんなふうに君に肯定されたくて話したわけじゃない」
もうすぐ触れてしまいそうなほどに近いラティーファの艶やかに整った顔を見つめ、ハーフィドは抵抗した。どんなにラティーファの微笑みが甘くても、シャクールを殺したことを正当化はできないと思った。
しかしラティーファは、ハーフィドの意思に反してさらに言葉を重ねた。
「でも好きだから。何度だって、私は肯定するよ」
ラティーファがとろけるような声でささやいて、ハーフィドの顔を両手で包む。
そしてラティーファは目を閉じて息を止めて、ハーフィドの頬に口づけをした。やわらかくてほんのり冷たいくちびるの感触が、ハーフィドから判断力を奪う。
反応を試すように、ラティーファはすぐにそのくちびるをハーフィドから離した。
ハーフィドはぼうっとした頭で、熱を帯びたラティーファの瞳を見つめた。
物質的な幸福を追い求めるラティーファが望む世界は、ハーフィドが願うものとは違った。だがそれでもハーフィドは、今このときだけはラティーファの存在が欲しかった。
衝動に流されるように、ハーフィドはラティーファのくちびるに自分のくちびるを触れ合わせた。そしてそのまま、ラティーファのブラウスのタイに手を伸ばす。
逃避でしかない馬鹿馬鹿しい行動だとわかってはいたが、ハーフィドはすがるようにラティーファに身を任せた。
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