第11話 海と二人
探索の最後に、二人は観光地から外れた人気のない海岸を散歩することにした。
月のない夜空の下、今はもう使われていない木製の桟橋の上を歩く。港の光が遠くに見える岸辺は暗く静かで、聞こえるのは波の音だけである。人の姿はまったくなかった。
少し先を歩くシャクールが、機嫌が良さそうに言った。
「夜の海もたまにはいいな。風も涼しいし」
「あぁ、そうだな」
ハーフィドは上の空で、無難な返事をした。もうそろそろ、これからのことを考えなければならない時間だ。
「シャクール」
緊張を隠しきれないうわずった声で、ハーフィドはシャクールを呼んだ。
「ん、どうかしたか?」
シャクールは立ち止まり、振り返った。
それがあまりにも普段通りの反応過ぎて、ハーフィドは一瞬何も言えなかった。
それでもどうにかして覚悟を決めて、ハーフィドは本題を投げかけた。
「お前、ガァニィに組織を抜けるって言ったんだって?」
「……やっぱり、知ってたんだな」
そうつぶやいたシャクールの表情は、すべて予想していたかのように変化が小さかった。
その悟り顔が気に入らなくて、ハーフィドは語気を強めた。
「やっぱり、じゃないだろ。本気なのかよ。普通に辞められると思ってるのか?」
ハーフィドの鋭い声が、静かな海辺に刺々しく響く。
だがシャクールの方の反応は、もう何もかも受け入れているのか穏やかなものだった。
「辞めることを許してもらえなくても、もう続けられないと思ったんだ。でもそうすると、お前が俺を殺すことになるんだな」
「そうだよ。お前を説得できなかったら俺がやるって、ガァニィと約束した」
ハーフィドは、羽織った上着で隠して持ってきたスチェッキンAPSを出した。弾も消音器も何もかも準備は散歩前に済ませているので、いつでも撃てる状態だ。
それを見たシャクールが、ちょっと困ったように笑って言った。
「それはお前に悪いことをしたな。でも何となく、こうなるような気がしていたよ」
シャクールは自分が死ぬことよりも、ハーフィドが自分を殺す人間であることを気にしていた。だがそのわりにはあっさりと結末を受け入れていた。
利他的なのか利己的なのかわからないその思い遣りにさらに腹が立ち、ハーフィドは叫んだ。
「だったら、来なきゃよかっただろ! 俺に何も言わずに決めるくらいだったら、黙っていなくなれば良かったんだ」
もう本音が零れるのを止めることはできなかった。何もかもを、すべて口にしつつあった。
シャクールは、憤るハーフィドを真っ直ぐに見つめた。
「でも、俺はお前と最後に会いたかったから」
突きつけた未来は残酷なのにも関わらず、その声は時折聞こえてくる凪いだ波音と同じくらいに優しげに響いた。
シャクールの決意は、もう絶対に変わらないようだった。
その場合、ハーフィドは何をしなくてはならないのか。
その結論はもう出ていたが、ハーフィドはすぐには実行できなかった。例えよりつらい状況になるのだとしても、もっとシャクールが何をどう考えたのかを知りたかった。だからハーフィドは、銃を向けられずに立ち尽くしていた。
「お前はどうして、そんな……」
「俺はお前とは違う決心をした。お前は迷いを振り払う努力をしたみたいだけど、俺の方は逆に向き合うことにしたんだ」
シャクールは慎重に言葉を選んで、ハーフィドから逃げなかった理由を答えた。
「そういえば、お前にはちゃんと俺の昔の話をしたことがなかったよな。せっかくだから最後に聞いてもらうか」
そして決意できずにだらだらと問い続けるハーフィドの気持ちを理解しているのか、シャクールはゆっくりと自分の過去を話し始める。
「イスラエルのやつらが俺たちの村に来たのは、俺が確か十二歳くらいのときだったかな。やつらは自分たちの植民のために勝手にやって来て、俺の父と兄を殺した。俺と母さんと、妹だけが生き残った。故郷を追い出された俺たち家族は逃げて逃げて、ヨルダンの難民キャンプへと流れ着いた。そのときには妹が病気で死んでいた。俺の家族は母さんだけになった。だけどそれでも、母さんは俺にまっとうな暮らしをさせようとしてくれた。母さんが頑張って働いてくれたから、俺は行かせてもらった学校で必死で学んだ」
遠い昔のおとぎ話を語るように、シャクールは淡々と自分の半生について語った。月明かりに眼鏡が反射して、表情は見えない
シャクールの過去について何となく想像はついていたが、改めて聞くといたたまれない気持ちになった。そうめずらしい話ではないからと言って、それで悲惨さが薄れるわけではない。
同じパレスチナ人であったとしても、難民ではなく移民として生きることができた裕福な育ちのハーフィドと、奪われ続ける人生を歩んだシャクールとでは、痛みを共有できるはずもなかった。
そして、ハーフィドにとってはどこまでも触れることができない世界の話を、シャクールは静かに話し続けた。
「でもちょっと勉強したくらいじゃ、難民の俺の道は広がらなかった。普通に生きてるだけじゃろくな仕事が見つからなくて、だから俺は母さんに楽してもらいたくてゲリラ組織に入った。そこが一番お金をくれたから。母さんが生きているうちは、何だってしてみせた。だけど、母さんも病気で死んでからは……」
そう言って言葉を詰まらせた一瞬、シャクールがうつむく。それはわずかなことであったが、シャクールの抱えていた苦しみをハーフィドに感じさせるのには十分だった。ハーフィドはそのときやっと、シャクールの本当の姿を見た気がした。
かつてのシャクールが見返りを求めて選んでしまった破壊と暴力は、その後の人生に重く暗い影を落としていた。それは決して消えてなくなることはなく、今もなおシャクールを悩ませ続けている。
ハーフィドも同じ罪を背負っているはずであったが、それとは選択の意味が違うのだ。シャクールの罪はシャクールの罪で、ハーフィドの罪と重ねることはできない。お互いに想い合ったとしても、手が届かない場所にいる。うつむくシャクールを見ていると、そのことがよくわかった。
しかし、シャクールはすぐにその苦悩をしまい込んでしまって、再びゆっくりとハーフィドに向き合った。
「何で俺はこんなことをしているのか、俺はずっと考えてた。お前は違うのかもしれないけど、俺はもっと昔から引っかかっていたんだ。だから最近は人を殺せなかった。あの俺たちに話しかけてきてくれた人を、お前が殺した日にはっきりしたよ。俺にはもう、何もせずにお前を見ていることすらできないんだ」
シャクールはハーフィドとの間に線を引くように、はっきりと結論を述べた。
(そうか。シャクールは俺と違って、最初からこの戦いの意味を疑っていたのか)
どうやら二人の間の断絶は、気付いたときよりもずっと以前からあったらしい。実行犯がハーフィドで、援護がシャクールであったことにも理由があった。
これまでも何となくは知っていたけれど、今はっきりとシャクールがどういう人間なのかがよくわかる。だが、殺すそのときにわかったって仕方がないのだ。
無駄だと知っていながらも、ハーフィドは自分が信じるべきだと思っている考えを伝えた。
「俺たちには、そうする理由があった。あれは間違いじゃなかった」
「だけど仮にその理由に正当性があったとして、理由があれば人を殺してもいいのか?」
シャクールが、ハーフィドの正しさを根本から揺るがす。その目は遥か遠くから、ハーフィドを教え諭すようなあたたかさがあった。
それはハーフィドにとって手痛い一撃であった。だがそれが真理に迫る問いであるがゆえに、ハーフィドは反論するしかない。
「ここまで来たら、もういいも悪いもないんだよ。俺はすべてを失ってきたお前とは違う。俺は平凡でいられた人生を否定してここにいる。今更引き返すなんて、許されないんだ」
銃を握りしめたまま、ハーフィドは破れかぶれになりながらも言い返した。
ハーフィドの生き方はもう、倫理や道徳で変えることができない段階にある。シャクールの決断が覆らないのと同じように、ハーフィドもまた戻れないのだと思った。
だがシャクールは、ひどく優しげな声でハーフィドに語りかけた。
「俺はそうは思わないよ。でもお前にとってそれが正しいのなら、俺を撃てばいい」
シャクールの言葉が、ハーフィドの理屈を否定しながらも包み込む。シャクールはすべてを受け入れて、ただ闇夜の中で立っていた。
「俺は……」
未だに迷いながらも、ハーフィドは状況に負けてシャクールに銃を向けた。
シャクールとの距離は数歩しかないので、外そうと思わなければ外すことはない。覚悟をしたわけではないが、もうシャクールを撃つことは避けられなかった。
ここでハーフィドが撃たなかったところで、ガァニィが手配した人間がシャクールを殺すだけである。
静かな海の水面が、桟橋に立つ二人の姿を映しだす。
シャクールは微笑み、ハーフィドを急かすように別れの言葉を告げた。
「じゃあな、ハーフィド。俺がお前に殺されることが、そう悪くはない選択であることを祈るよ」
「――シャクールっ!」
そしてハーフィドは、シャクールの名前を呼ぶと同時に発砲した。
弾はシャクールの頭を眼鏡ごと撃ち抜き、シャクールの長身を後方へと倒す。割れた眼鏡の破片が散らばる中、シャクールは桟橋に崩れ落ちた。
ハーフィドは銃を下ろし、友達だった男の死体を見つめた。
◆
それからしばらくたった。五分か十分か、それとももっと長かったのか。
気付くと、海から一艘の小舟が近づいてきていた。その舟にはガァニィが手配していた、死体の片付けを担当する者が乗っているものと思われた。
(あれがガァニィが言っていた舟か)
ハーフィドはシャクールを殺したという実感もなく、舟が近づいてくるのを眺めていた。
小舟が桟橋の横にとまると、男が一人下りてきた。
どこかで見たことのある顔だとおもったら、それはガァニィの事務所でいつもコーヒーを持って来る、アミンと呼ばれる男だった。普段何やっているのかよくわからない男であったが、どうやらこういった処理を行う人間だったらしい。
アミンはハーフィドを眠たそうな目で一瞥したが、すぐに自分の仕事をし始めた。
「後は、こっちでやっておくので」
ビニールシートを広げながら、アミンはハーフィドに立ち去るよう促す。おそらく、シャクールの死体は海に捨てられるのだろう。
「わかった。それじゃ」
ハーフィドはうなずき、シャクールの死体をアミンに任せて桟橋を立ち去った。
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