第10話 遺跡へのドライブ

 翌日、ハーフィドとシャクールは車でジュベイルに出かけた。

 ジュベイルは、ベイルートから車で一時間弱で着く沿岸の町である。


 よく晴れた空の下、シトロエンGSは海沿いの環状線を景気よく走った。大きな電灯が配置された中央分離帯がある、広くて新しい道だ。


 窓から入る風には、潮の香りがしている。


 カーステレオからかかるのは女性ボーカルのアップテンポなポップ・ミュージックで、突き抜けるようなハイトーンボイスが心地がよい。


「良かったな。調子よくなって」

 全開の窓からきらめく海を眺めながら、ハーフィドはシャクールに言った。シャクールはつい最近まで風邪を理由にハーフィドを避けていた。

「あぁ。心配かけてごめん。だが何で急にそのジュベイルってところに?」

 シャクールはハンドルを軽く動かし、不思議そうな顔をして尋ねた。シャクールは組織を辞めるという決断を、隠すことができていた。


 風になびく髪をかき上げ、ハーフィドも本当の目的を隠しながら表向きの理由を答えた。


「ジュベイルはフェニキア人の発祥の地として遺跡も残っていて、いろいろ歴史があるらしい。だからレバノンに来たからには一度行っておくべきだと思ったんだ。あとお前とどこかに出掛けてみたかったし、俺は車の運転したくないし」

「結局俺がお前の運転係ってだけじゃないか」


 今までの関係と何も変わらないように、シャクールは笑って応酬した。


(こいつの気持ちを確かめるために誘ったわけだけど、でも一度行ってみたかったのは本当だ)


 ハーフィドは笑いかえしながら、助手席にもたれて心の中で弁明した。

 もう友達同士でいられる時間はあまり残されていないのかもしれないが、だからこそ最後くらいは楽しいことがしたかった。


 海沿いの一本道のドライブは特に迷うことはなく進み、何事もなくジュベイルに到着した。


 標識の指示に従って道を曲がってしばらくするとすぐに史跡公園の看板が見える。

 二人は公園の近くの駐車場に車を止め、入場料を払って中に入った。

 入場口をくぐると、古い石造りの建築物が点在する野原が眼前に広がる。


「お、何だか本当に遺跡っぽいな」

「遺跡っぽいって何だよ。そりゃ多少は復元部分もあるだろうけど」


 あまり遺跡の価値を感じていなさそうなシャクールをたしなめて、ハーフィドはまずはあたりを眺めた。


 第一印象は、思ったよりも小さくて地味な場所であった。史跡公園と言ってもそれほどの広さはなく、じっくり回っても二、三時間もあれば見終わるだろう。

 だが青い空の下に並ぶ遺跡群は太陽にまぶしく照らされて白く輝き、それなりの趣は感じられる。巨大なモニュメントがないので有名な遺跡に比べれば迫力に欠けるが、数千年の歴史がにじみ出るような雰囲気はハーフィドの気に入るところだった。


 案内図を見て何となく全貌を把握し、二人は適当に歩き出す。他の観光客の姿も少なく、基本的には人のいない静かな場所だ。


 多くの遺構は建物が立っていた跡にわずかな石が埋まっているだけだが、城壁や城などはしっかり残っているので見ごたえがある。隙間なく石が積まれた城壁と城壁の間を歩けば、現代人ではないような気分になれた。


「見る分には面白いけど、ここは要するに結局何なんだ?」


 シャクールはとりとめもなく埋まっている柱や建築部跡を見回して尋ねた。

 入口で買ったガイドブックを見ながら、ハーフィドは軽く説明する。


「えっと一番有名なのがオベリスク神殿で、その他にあるのが十字軍の城塞、新石器時代の住居跡、ペルシャ時代の砦だから……。まぁ様々な時代の遺構が重なってる場所ってことだな。ちなみに今立っているあたりは、アムル人の住居跡らしい」

「いろいろありすぎてよくわからない場所だな。あ、でも海は綺麗だ」


 海が見えることに気付いたシャクールは、公園の端の海岸に駆け寄った。

 ハーフィドも後を追うと、青く澄んだ地中海が見えた。遺構の向こうに見える海は、ベイルートの海とはまた雰囲気が違って綺麗である。

 その海を見ていたら昔授業で習ったこと思い出したので、ハーフィドはせっかくなので薀蓄を披露することにした。


「ジュベイルは昔はビブロスって言われたんだが、ビブロスはギリシャ語でパピルス、つまり紙って意味なんだ」


 海を覗きこむシャクールの後ろ姿に、ハーフィドは話しかける。

 シャクールは、それは目の前の海と一体どんな関係があるのかと不思議そうな顔をして振り返った。


「それで、何でここがそんな名前に?」

「フェニキア人がレバノン杉を売ってエジプトから紙を輸入して、それをまたギリシャとかに輸出してたから、この街の名前が紙の名前になったらしい。フェニキア人は海運が得意だったからな」

「へぇ……、昔の人も頑張って商売してたんだな」


 ハーフィドの説明に納得して、シャクールは面白そうな顔をした。海の光を反射するように、眼鏡の奥の瞳が楽しげにきらめく。


 その反応が何となく心地よくて、ハーフィドはじっとシャクールを見つめた。だがシャクールは気付かずに海を眺めつづけていた。

 シャクールは大事な友達なんだと、ハーフィドは心の底から実感する。皮肉な話だが、もしかしたらシャクールを殺さなくてはならないからこそ、よりそう思えるのかもしれない。


(もしもシャクールが本当に組織を抜けるなら、俺は始末ってやつをつけなきゃいけない。だけど、今だけは……)


 暗い現実が決断を迫るが、ハーフィドは最後のその時まで目をそらすことにした。

 結末に背を向けて、一瞬の幸福だけを考える。せめてそれくらいは、許されたかった。


 ◆


 その後史跡公園を一通り見て回った二人は、遺跡近くの古びた商店街で昼食をとった。


 そして、午後は街に下りて市内にも残る遺構を見て回った。

 そう見るところはないと思っていたが、普通の人々が生活している現代の街並みと調和するように残っている遺跡はなかなか雰囲気があったので、思った以上に楽しめる。


 ところどころに残された城壁を探してローマ時代の列柱が無造作に立つ道を歩けば、気付けば夕方になっていた。夕食の店を探して港の方へ出ると、ちょうど十字軍の時代に作られた城が夕陽に照らされている時間帯であった。


「午前中に見た時よりも綺麗に見えるな」

 ヨーロッパ式の雄大に角ばった城を夕日が赤く染めている様子に、シャクールはじっと見惚れた。

「そうだな。この時間だからこその光景だ」

 ハーフィドもうなずいて、シャクールの隣で城を見上げる。

 城は港よりも少し高い場所に作られていたので、建物に遮られることなくよく見えた。


 ベンチに座ってその美しさを眺めていると、だんだん空は暗さを増した。

 すると、今度は石造りの遺構が多く残された港が、電灯によってライトアップされ出した。港は漁師の船が泊まる日常的な場所であったが、その電灯の光が海の水面に反射して輝く光景は、それは幻想的だ。


 シャクールはわずかに微笑んだ横顔で、そっとささやくようにハーフィドに言った。


「お前が友達で良かった」


 夜が近づく夕暮れの中で、シャクールのつぶやきは妙に切実に響く。


「……俺もそう思うよ」


 その想いが伝染したような気持ちになって、ハーフィドは静かに答えた。

 何を急に恥ずかしいことを言うのかとか、組織を抜けるらしい人間の言うことだから何かしら複雑なものを読み取るべきだろうかとか、いろいろな考えが頭をよぎる。

 しかし口をついて出たのは自然な肯定だった。


 偶然選ばれただけの関係だったとしても、二人には二人だけのこれまでの時間がある。

 程度はどうであれ、ハーフィドにとってシャクールが大切な存在であるように、シャクールにとってのハーフィドもおそらくそうなのだろう。この澄んだ感情を前にすると、他のことは何もかも些細な問題なような気がしてしまう。


 ハーフィドは命令も任務も忘れて夕焼けを見つめた。シャクールも同じように黙ってそばにいた。この先はもう言葉も必要なく、ただ並んで隣にいるだけで満たされた。


 しばらくそのまま過ごした後、二人はテラス席のある店を選んで夕食をとった。港は夜の景色も美しかった。

 そうして、一日は終わろうとしていた。だがハーフィドにはまだやるべきことが残されていた。

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