第13話 冬の街

 季節は移り、温暖なベイルートにも冬がやって来た。

 ピーク時に比べれば観光客はぐっと減り、道行く人々も厚着になる。レバノンの海岸沿いは地中海気候であるので、冬は雨季で曇り空が多めだ。


「映画面白かったね。パニックもの見るのは初めてだったんだけど、普通に良かった」


 人混みの中、ラティーファはハーフィドの隣を歩きながら声を弾ませた。

 二人はハムラ通りにある映画館で映画を見た帰り道であった。

 ベージュのオフタートルネックに茶系統のチェックのジャンパースカートを着て髪をゆるく編んだラティーファは、冬らしい姿で可愛らしい。


「音響がいい映画館だったから、地震の震動もすごい迫力だったな」

 素直に映画をほめて、ハーフィドも同意する。


 ラティーファと付き合い始めて数か月。ハーフィドはラティーファと恋人同士になりながら、何とか工作員を続けていた。


「えっとハーフィドは、この後はガァニィに会うんだっけ?」

「あぁ、ちょっと呼ばれてる。多分この前ガァニィが上からもらったリストか何かに載ってるやつらの暗殺についてだと思う」


 残念そうに尋ねるラティーファに、ハーフィドは答えた。

 シャクールが死んだ今、ハーフィドが会って話すのはラティーファとガァニィしかいない。


「そっか。じゃあ、また今度ね」

 大通りが交わる十字路で立ち止まり、ラティーファが微笑む。

「うん、また」

 ハーフィドもうなずき、二人は別れた。


 ラティーファの後ろ姿遠ざかり、人ごみに紛れて消える。

 この国が内戦寸前であることを忘れさせるほどに、ベイルートの街は賑わっていた。


 一人になったハーフィドは寒空の下、港近くのガァニィの事務所へ向かった。


 ◆


 事務所に着くと、ガァニィが時計のカタログを広げながら待っていた。


「お、来たな。なんだ、いつもよりも上着が立派だな。デートにでも行ってきたのか?」

 ガァニィはカタログを閉じ、ハーフィドの服装をじろじろと見た。


「ラティーファと会ってきたけど、それが何だ? 用事は恋愛話じゃないだろ」

 よそ行き用に選んだ黒いレザージャケットをハンガーに掛けて、ハーフィドは少々苛立ちながら答えた。叔父としての親近感がすべて消えたわけではないが、もうハーフィドはガァニィに対して良い感情を抱いていなかった。同志だった人間を殺すよう命令を下す冷酷な男を、好きにはなれない。


 だがガァニィの方は、甥に嫌われていても気にせず笑った。

「そう急かすことないだろうに。ま、こっちは忙しいがな」

 時計のカタログを読み耽っている時点で説得力がないのだが、ガァニィにとっては時計選びも仕事のうちなのかもしれない。


「で、俺を呼んだ理由は?」

 早く終わらせたいハーフィドは、余計なことは言わずにガァニィとテーブルを挟んで座った。


 素っ気なく振る舞うハーフィドに、ガァニィは仕方が無さそうにソファから立ち上がった。そして、事務机の引き出しから封筒を取り出す。


「この間も少し話したが、次の仕事はこの間上層部から送られてきたリストをもとにした暗殺だ」

 ガァニィは封筒から書類を出して、ハーフィドに渡した。

「とりあえずまずは、この男を殺してもらう。ビジネスマンのふりをした、イスラエルの諜報員だ。我々の組織の動向を調べている。モサドにいたこともあるプロだから、気を抜くなよ」


 モサドというのは、イスラエルの情報機関のことである。

 ガァニィから書類を受け取り、ハーフィドは書類にざっと目を通した。写真に写るのは、スーツを着て髪をリーゼントにした特別な印象はない若い男である。


「まずはこいつだけでいいんだな」

「あぁ、そうだ」

「わかった。また終わったら連絡する」


 書類を封筒にしまい、ハーフィドはすぐに承諾した。


 以前にも増して、ハーフィドはただ粛々と命令に従うだけになっていた。

 今はもう、故郷のために戦う熱意も薄れている。

 だがシャクールを殺してしまった手前後にも引けず、ハーフィドは暗殺者であり続けた。

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