第2話 港近くの事務所
家事がだいたい片付くと、ハーフィドとシャクールは灰色のシトロエンGSに乗ってガァニィの元へ向かった。
運転はシャクールで、ハーフィドはいつも通り助手席に座る。
空は良く晴れていて、ヤシの木の街路樹の隙間から太陽の光がきらきらと注いだ。車の窓を全開にすると風が心地よく、ちょっとしたドライブをするには良い天気である。
そのうえカーステレオのラジオから流れるのは、調子の良い流行のディスコソングだ。明るく意味の無い歌詞が、気分を無駄に高揚させる。
「うーん、何かこのままどこかに行きたくなるような曲だ」
「まずはガァニィのところだからな」
「はいはい」
海岸の方へとハンドルを切りたげなシャクールを、ハーフィドは軽くたしなめた。
シャクールは残念そうにスピードを落とす。
商業や金融の中心地として中東のパリと呼ばれるほどに栄えるベイルートは、巨大なビルがいくつもひしめく賑やかな街並みだ。西洋風の装飾が施されたビルはどれも違うデザインなのに、それでいて一つの街として調和している。
道行く人々も開放的な服装の人が多く、夏ということもありバカンス中らしき観光客もいた。
政治的な問題を抱えていても、ベイルートの繁栄は翳りを知らない。
そんな街の中で二人の上司であるガァニィが拠点にしているのは、港近くにある古びたビルである。昔の戦争で手に入れたシリアとのつながりを生かして貿易会社の社長として武器商人業も営んでいるガァニィは、そこを事務所として仕事をしていた。
目的地に着いた二人は、ビルの手前に駐車し車を降りた。
入り口で座っている顔見知りの見張りに挨拶をして、狭い階段を上る。その三階にある部屋が、ガァニィの事務所だ。
「ガァニィ、来たよ」
ハーフィドは呼びかけながら、扉を開けた。
失礼します、と控えめにシャクールが続いた。
部屋に並んでいたのはごく地味な応接セットに、スチール製の事務机と本棚。
何の変哲もない空間が二人を出迎える。
だがその机の前に座る中年の男は、無難な部屋とは対照的な存在感があった。
「あぁ、そういえば今日はお前たちが来る日だったか」
男はキャスター付きの椅子から立ち上がり、振り返った。
この男こそが、ハーフィドの叔父であり上司でもあるガァニィである。
いつも綺麗に短く刈ってある黒髪に、もう四十近いとは思えないほど若く端正な顔。
何気なく着ているポロシャツもスラックスもブランドもので、遊び人な印象を与えた。だがその派手さがとても似合っているため、嫌味がない。
昔を知っているハーフィドからすれば、さすがに全盛期よりは肉付きがよい部分もあった。しかしそれを差し引いてもガァニィは、男から見ても魅力的に見える中年男性だ。
ハーフィドは立っているシャクールを小突いて二人でソファに座り、気兼ねなく叔父に話しかけた。
「呼んどいて忘れないでほしいね」
「こうも暑いと、いろいろ記憶も蒸発するんだよ……。とりあえず、コーヒーでも飲むか。おいアミン」
ガァニィは立ち上がり、奥の部屋に指示を飛ばした。
返事は返ってこなかったが、しばらくすると眠そうな目をしたオールバックの男がアイスコーヒーの入ったグラスを三つ持って現れた。
「お待たせしました」
男は乱雑にテーブルにコーヒーを置き、また奥へ戻って行った。
ハーフィドはこのアミンと呼ばれている男が飲み物を出す以外のことをしているのを見たことがないが、おそらくどこか見えないところで別の仕事をしているのだろう。
「じゃ、遠慮なく」
のどが渇いていたので、ハーフィドはさっそくコーヒーを口にした。
味はごく普通のインスタントコーヒーなので、特に何も思うことはない。
ガァニィはハーフィドとシャクールと向かい合って座り、グラスを手に二人を眺めた。
「しかし、お前たちはいつも同じような服を着てないか。せっかくいろいろなものが手に入る街にいるんだから、買い物に出掛ければいいだろうに」
「服にお金かけるくらいなら、食費に回したい食べ盛りなんだよ」
叔父の冗談めかした余計なお節介に、ハーフィドは何も気にしていないふりをした。
シャクールはともかく、自分は服装に気を遣ったところで背伸びした未成年にしか見えないだろうとハーフィドは思った。
「そうか? だがやはり夏に車の運転をするなら……」
しかしガァニィはハーフィドの反応は気にせず、最近買ったサングラスについて話し始める。こうなった場合、ガァニィの長話はコーヒーの氷が溶けきってしまうくらいに長い。話題は時計や万年筆についてまで広がり、雑談は数十分ほど続く。
「とまぁ、初心者におすすめの万年筆はここらへんだな。で、今日は何で呼び出したというと……。まずは、この間はよくやったな」
やっとその後世間話が終わり、ガァニィは飲み終えたグラスをテーブルに置いて本題に入った。
「この間って、えっと、あれか」
ハーフィドは記憶を辿り、最後に実行した暗殺――クラブの前で小太りの男を殺したことを思い出した。
暗殺はハーフィドにとって単なる任務であり、何か劇的な感情が伴うものではない。
ハーフィドは敵を撃つことに、葛藤を抱いていなかった。殺さなければこちらが殺される、というのがハーフィドが見てきた歴史の教訓だからである。
敵であるイスラエルの目的はパレスチナの土地に住んでいた住民を抹消して自分たちだけの国を作ることであり、現実に大勢の人間が殺され追い立てられている。
ハーフィド自身は直接攻撃されたことはないが、かつて住んでいたラマラにはイスラエル軍によって家族を殺されたり土地を奪われたりした人が逃げてきていた。彼らは何かをしたわけではない。先祖代々の場所に住んでいただけなのである。
もちろん、イスラエル人にも事情はあるだろう。
向こうは向こうで、ホロコーストやら何やらで犠牲を払った。
だが、それが他者を無理矢理排除してもいい理由になるはずはない。
しかしそれでもイスラエル軍はやってきて、暴力と破壊をパレスチナにもたらした。今はもう、ラマラを含むほとんどの土地がイスラエル軍に占領されている。
イスラエル人は、比喩表現ではなく、パレスチナ人を人間だと思っていないのだろう。そうでなければ、今もなお続くあの殺戮は説明できない。このような敵を前にしては、対話は絶対的に不可能である。生き残るためには、やり返すしかない。
だからこそ皆、敵と戦う道を選ぶのだ。
その大勢の中の一人がハーフィドである。
ハーフィドは、自分が選ばれた存在だと思ったことはない。
与えられた役目も特別ではないし、繰り返せば日常になる。そのためハーフィドは、終えた任務の内容をあまり詳細に覚えていなかった。そう記憶しておくほどのことでもないと思っているので、前回の任務ですら思い出せることは少ない。
そこでハーフィドは、横を向いてシャクールに尋ねた。
「別にそうたいしたことはなかったよな」
「そりゃ俺は、運転していただけだから」
急に話をふられたシャクールが、困った顔をして肩をすくめる。
何の支障もなく計画が実行されたことに、ガァニィは満足げにうなずいた。
「何事もなく終わったなら、何よりだ。それで次の話だが……。あぁ、ちょうどよく来たようだな」
ガァニィが適当に話をまとめていると、外から誰かが階段を上がってくる音がした。
ハーフィドは一体何かと顔を上げた。
入ってきたのは、若い女だった。
「お邪魔します。あれ、何か知らない人もいる」
男三人しかいなかった部屋に、凛とした声が明るく響く。
女は切れ長の目が印象的な美人で、レトロ・スタイルの青いシャツドレスがよく似合っていた。腰まで伸びた黒髪は柄入りのヘアバンドでまとめられ、夏らしくて涼しげだ。
年齢はハーフィドと変わらないか、少し上くらいだろう。
先客に遠慮することなく、女はすたすたと部屋に入ってきた。
「この前話してたのは、この二人のこと?」
「あぁ、こっちが甥のハーフィドで、眼鏡をかけている方がシャクール」
女が尋ねると、ガァニィは手短に二人を紹介した。
じっと観察するようにハーフィドとしシャクールを見つめ、女は微笑んだ。
「そっか、私はラティーファ。出身はベツレヘム。職業は多分、情報屋だよ。最近はこの人のお世話になってることが多いかな」
「はぁ、よろしく……」
ガァニィの隣に違和感なく座るラティーファを前にして、ハーフィドはたどたどしくあいさつをした。シャクールにいたっては頷いているだけだ。
(よくわからないけど、綺麗な人だな)
女性経験がほとんどないハーフィドは、ぼんやりとラティーファに見惚れた。
黒髪を耳にかけるラティーファは、雑誌の写真のように絵になった。
ベツレヘム生まれということはハーフィドと同じ西岸育ちということであるが、それ以外はまったくほとんど別世界の住民に思える。
しかしラティーファの方は人に眺められることに慣れているのか、ハーフィドの視線を気にせずにハンドバックから封筒を取り出しガァニィと仕事の話をし始めた。
「じゃあこれ、頼まれていた資料」
「ふむ……、問題はなさそうだな。報酬はあとで振り込んでおこう」
ラティーファの差し出した封筒を受け取ると、ガァニィはぱらぱらと中を確認した。
「毎度、ご利用ありがとうございます」
茶化したように笑って、ラティーファがガァニィにお礼を言う。
ガァニィの女性関係はよく知らないが、ラティーファは恋人の一人である可能性もあった。それくらいラティーファとガァニィは、非常に親しげに見えた。
しかし同時に、お互いにどこかで線引きしているような雰囲気もある。ハーフィドは、その判断に迷った。
するとガァニィが、渡された封筒を今度はハーフィドとシャクールに寄こしながら言った。
「というわけでここに書かれているのが、次のお前たちの暗殺対象だ」
「え?」
突然の命令に驚きつつも、ハーフィドは封筒を手に取った。
ガァニィは上司らしい口調になって、説明を続けた。
「表向きは我々の賛同者ということになっているが、裏では西側と繋がっているジャーナリストっていうのがこのムディルという男だ。日々の暮らしの様子はラティーファがそれにまとめたから、参考にしてくれ」
どうやら今回は、西側のスパイの暗殺が任務ということらしかった。ラティーファの存在がややイレギュラーだが、それ以外は特におかしいところはない。
「わかった。後で読むよ」
だから特に迷うわけでもなく、ハーフィドはうなずいた。
するとこの一連のやりとりを見ていたラティーファが、じっとハーフィドを見つめて言った。
「ハーフィド君って、何だか格好良いね。顔も男前だし、ちょっとときめいちゃうな」
突然のほめ言葉に、ハーフィドは一瞬耳を疑った。
(い、いきなり何だ? 俺が男前?)
それはまるでからかうような言い方だったので、ハーフィドは嬉しいというよりは恥ずかしくなった。背が低く子供っぽい外見はコンプレックスでしかないので、格好良いと言われてもそう簡単には信じることはできない。
だがラティーファは本当にハーフィドに好意を寄せているのだろうか。
その目は冗談めかしつつも、真っ直ぐにハーフィドを映していた。
ハーフィドはどう返せばいいのかわからず、適当な言葉を探して横を向いた。
「……俺は茶化されても、面白いことは返せない男だよ」
しかしラティーファはよりいっそう笑って、ほめ続けた。
「素直じゃないところも、素敵だな」
調子を完全に狂わされたハーフィドは、何も言えずに頬を赤らめた。
助けを求めて隣を見るが、シャクールは他人事だと思って飲みかけのコーヒーを飲んでいる。彼は親友には違いないが、この場面においては友情は役に立たない。
(どうすればいいんだ、俺は……)
ハーフィドはこそばゆい居心地に帰りたくなった。
先ほどまでは任務についての話をしていたはずなのに、なぜ今は口説かれているのかがわからなかった。
そしてさらにガァニィが、ハーフィドをひやかして羞恥心を煽る。
「ハーフィド、お前顔赤くなったな。もしかしてラティーファが気になってるんじゃないのか?」
「いや、そんなことはないから」
ハーフィドは慌てて否定した。確かに見惚れてはいたが、この流れでそれを認めるわけにはいかない。
だがガァニィはとことん悪ふざけをすることにしたらしく、意地悪く笑って新たな提案をする。
「せっかくだから連絡先くらい聞いといたらどうだ。ラティーファも嫌じゃないだろ?」
ガァニィは軽い調子でラティーファに尋ねた。その口ぶりから察するに、どうもラティーファはガァニィの恋人というわけではないらしい。
「うん、いいよ。暇なときとか、付き合ってくれるならうれしいし」
何も間を置かず、ラティーファはにっこりと笑って快諾する。
まったく困った様子もなく、ハーフィドに対して悪くない感情を持っているのは冗談ではなく本気なようだ。
「え? それはどういう……」
ハーフィドは困惑しつつ尋ね返した。何が起きているのかが理解できない。
しかしラティーファは、すでに鞄から出したメモとペンでさらさらと電話番号を書いていた。
「じゃ、これ。私の家の電話番号だから。直通だよ」
「あ、ありがとう」
「きっと連絡してね。待ってるから」
気付けば、ハーフィドはラティーファの連絡先が書かれたメモを握らされていた。
まったく実感がないままに、ハーフィドはその紙を見つめた。
「それじゃ、私は帰るよ」
そして用をすべて終えたラティーファが、ソファからふわりと立ち上がった。手をひらひらさせて、涼やかな声で別れを告げる。
「じゃあね。工作員さんと、その上司さん」
「またな、女スパイどの」
ガァニィの親しげな返事に、ラティーファは小さく微笑みかえし部屋を出た。
やって来たときと同じように、自分のタイミングで立ち去った。
隣でただ見ていたシャクールは、無責任にハーフィドにエールを送った。
「よかったな。美人とお近づきになれるチャンスだ」
焚きつけた張本人のガァニィも、面白そうに笑っていた。
「誘い文句がわからないなら、叔父として相談にのってやるぞ」
ガァニィは完全に上司と部下という関係を忘れて、女っ気のない甥で遊んでいる。
だがそんな叔父のいたずらがきっかけであったとしても、ハーフィドは同年代の美女と接点を得たことに喜びを感じてしまっていた。
(女性の電話番号を教えてもらったのは、人生初だ)
託された情報をどう扱えばいいのか。学生時代からこれまでずっと異性と付き合った経験のないハーフィドにとって、その先はまったくの未知であった。
不安と期待の中で、ハーフィドはメモを握りしめた。
「電話番号を手に入れたなら、次にやるべきことはな……」
尋ねてもいないのに、ガァニィが恋愛についての教えを語り出す。
その後に続く長々とした雑談を軽く流し聞きし、ハーフィドは適当なところで話を切り上げてシャクールと帰った。
◆
駐車場に降りて車に乗り込むと、車内はすっかり暑くなっていた。
シャクールはカーエアコンをつけ、冗談っぽくつぶやいた。
「お前に恋人ができたらさみしくなるな」
無駄に甘いシャクールの声が色めいて響く。
野暮ったい身なりであっても、そこそこ元が良いシャクールの横顔は様になっていた。
この調子で誰か口説けば一発で彼女ができるだろうにと思いながら、ハーフィドは皮肉で返してみせた。
「あの人とうまく行くかはわからないけど……、俺はずっと男二人の方がさみしいと思うね」
「悲しいことを言うなあ」
ひじでハーフィドをこづき、シャクールが車を発進させる。
ハーフィドは笑って、それをかわした。
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