第3話 シロップ入りの炭酸水
ガァニィから新たな命令を告げられた翌日の午後、二人はダウンタウンにあるカフェにいた。歩道に面した常設のテラスのある、赤い日よけが目を引く店舗である。
「それじゃ、ハッカのシロップ入りの炭酸水と」
「レモネードとピスタチオのアイスクリームをお願いします」
ハーフィドとシャクールは、壁に掛けられたメニューを眺めながらそれぞれの注文を店員に伝えた。
「すごい人気の店みたいだ」
注文を受けた店員が忙しそうにカウンターへ行くのを眺めながら、シャクールがつぶやく。
冷房のきいた室内で冷たいものを頼む二人は、どこからどう見てもただの休憩しに来た客である。
だがもちろん、目的は休憩でも甘味でもない。
ラティーファからもらった資料によれば、暗殺対象であるムディルという男は毎日昼過ぎにこの店へとやって来るということであった。
実行前にその姿を確認するために、二人は来店したのである。
「あぁ。繁盛してるみたいで、良かったよ」
がらがらであったなら悪目立ちしているところだった、と思いながらハーフィドは店を見回した。
白い壁に緑色のテーブルがよく映えた明るく開放的な店内は、遅い昼食をとっているサラリーマンや待ち合わせ中の客などで賑わっている。
その中で常連らしくカウンターでコーヒーを飲んでいるのが、ムディルであった。
半袖のワイシャツにネクタイという出で立ちで、ごく普通の地味な中年に見えた。職業は雇われジャーナリストであるということだが、ぱっと見はそれ以上でもそれ以下でもなさそうである。
店員が運んできたレモネードを飲みながら、シャクールはハーフィドに囁いた。
「あいつだよな。そこらへんのおじさんって感じだけど」
「あぁ。間違いない」
ハーフィドは緑色のシロップを炭酸水に混ぜつつ答えた。ざわついた店内で、この小声の会話は誰にも聞かれることはない。
(だけど外面がどうであれ、敵なら死んでもらう)
さりげなくムディルの姿を目の端に捉えて、ハーフィドは任務のことを考えた。
詳しいことは知らされていないが、ムディルは組織にとって不利な情報を西側に流しているという。この男を殺すことで勝利が近づくなら、迷うことはない。
「……このアイスクリーム、自家製なだけあって美味いな」
一方シャクールは、食べ物のことだけを考えている客らしく振舞いながら、淡い緑色のアイスクリームを口に運んだ。砕かれたピスタチオがごろごろと埋まっているのが、見ているだけでおいしそうな一品である。シャクールの表情も、もはやただの客のふりかどうか怪しかった。
「そりゃ良かった」
ハーフィドもムディルから目を離して、ストローで炭酸水を飲んだ。
入っているのはこってりと甘いシロップであるが、炭酸水で割ることでハッカの爽やかさが引き立つように薄められて飲みやすい。繁盛しているだけあって、味は悪くはない店であった。
それから二人は、しばらく飲み食いして過ごした。時折、お互いの注文したものの交換もした。暗殺対象の姿を確認するという目的は達成したので、後は適当に時間を潰して帰るだけである。
「それじゃ、もうそろそろ行こうか」
炭酸水を飲み終えたハーフィドは、伝票を持って立ち上がった。ムディルはまだコーヒーを飲んでいるが、することもないのに長居する必要はないと判断した。
「あぁ。そうだな」
隅々まで空っぽにした器にスプーンを戻して、シャクールも席を立つ。
そして二人は、レジに向かった。
ハーフィドはその途中、ふと壁に掛かっている画が気になって立ち止まった。
白い壁に掛けられたその画は額縁に入れられたレコードのジャケットで、紺を基調にした色合いが切り取られたように四角く目立っている。
描かれている内容は、星空の下の砂漠のような場所で魚が泳いでいるというものだ。空の色は深く、宇宙のような海底のような不思議な空間である。
(店主の趣味だろうか。綺麗な画だ。ずっと昔にもずっと未来にも見えるな)
賑やかな店内とは不釣り合いなその静かな画に、ハーフィドはどことなく見入ってしまった。
「どうかしたか?」
立ち止まるハーフィドの視線の先を、シャクールが覗きこむ。
慌てて状況を思い出し、ハーフィドは立ち止まった理由を軽く説明した。
「あ、いや。面白い画だなって思って」
「ふーん。そういえば確かに、お前が好きなレコードのジャケットってこういう意味わかんない画が多いよな」
シャクールは画を見て、納得したようにうなずいた。
実際、ハーフィドがよく聞くレコードは前衛的なデザインのジャケットが多い。通ぶっていると言ってしまえばそれまでだが、ハーフィドはいわゆるプログレッシブ・ロックが好きなのだ。
(いやでも、流行の曲が嫌いなわけじゃない。ただお金を出してアルバムを買うなら、ちゃんとした世界観があった方がいいだけなんだ)
ハーフィドは自分の趣味について、心の中で言い訳をした。
そのとき、後ろから声がした。
「君たちも、このジャケットが好きなのかい?」
驚いて振り返ると、そこにはムディル――後日二人が暗殺する予定の男が立っていた。
「え? あ、はい」
ハーフィドは頭が真っ白になりつつ、返事をした。
今まで誰かに言いつけられたわけではないが、暗殺対象と言葉を交わすのは禁忌であると心のどこかで認識していた。だからハーフィドは、話しかけられたことでとてもうろたえてしまった。もちろんシャクールも、隣で固まっている。
だが何も知らないムディルは、じっと感慨深げに額に入ったジャケットを眺めた。
「色合いといい、構図といい、雰囲気のある画だよな。古代なような、遥か未来なような……でもそこに人間はいない」
先ほど自分が考えていたこととほぼ同じようなことを言われて、ハーフィドはどきりとした。絶対にこの人とは趣味が合うと確信するが、それを喜べる時ではない。
(えっと、俺は今はただの客なんだよな)
怪しまれないようにしなければと思い、ハーフィドはやっとの気持ちで受け答えた。
「……深くは知らないバンドですが、素敵なジャケットだとは思います」
「そうか。ジャケットだけじゃなくて、曲も文句なしにいいんだ。聞いて損はしないから、今度試聴してみるといい」
ムディルは人のよさそうな笑顔で、二人にレコードを勧めた。そしてさっさとレジで代金を支払い、ハーフィドとシャクールに手を振って店を出る。
それはあっという間のことであったが、その会話が二人に与えた衝撃は大きかった。
(俺たちが殺すべき人間が、普通のいい人みたいに話しかけてきた……)
ハーフィドは呆然として、数十秒レジに行くのを忘れて立ち尽くした。任務の必要性を揺るがすものではないと頭ではわかっていても、心の整理が追いつかない。
ずっと黙っていたシャクールもまた、ハーフィドと同じように感じたらしく、不安げな顔でハーフィドをちらちらと見た。
それから二人は、言葉を交わさずに店を出た。
夏の太陽に熱された道の上は、じりじりと焼かれるように暑い。
明るく楽しげな通行人たちはひどく遠く、街の喧騒だけが妙に耳に響いた。
「ハーフィド、あの人は……」
シャクールがうつむいてつぶやきかけるが、後は続かない。
ハーフィドはその声を無視して、先に進んだ。
何かが一瞬で狂ってしまったような気がした。だがそれが完全に決定的であると認めたくはなかった。
いやな汗をかきながら、ハーフィドはシャクールとそれ以上は何も言わずに人ごみの中を歩いた。
(多分、いつもと違うことが起きてちょっと驚いただけだ。冷静になればまた戻れる)
ハーフィドは自分に言い聞かせた。
その言葉が無意味ではないと、今はまだ信じることができる。だがそれでもぬぐえない不安は、心の奥に音もなく広がっていた。
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