第1話 ピタパンと卵
細かく刻んだトマトと玉ねぎをにんにくと一緒にフライパンで炒め、クミンと塩胡椒で味を調えて溶き卵とかき混ぜて焼く。
これがハーフィドが三日に一回は作る朝食だ。
「こんなところか」
焼けた卵を二つに切り分けて皿に載せ、ハーフィドは中古で買った無駄に重厚なダイニングテーブルに置いた。
「今日もちゃんと、俺の好きな半熟だな」
テーブルの上を覗きこみながら、ハーフィドの同志であり友人であるシャクールが言った。築年数のたったハーフィドの下宿先の1DKには、いつも当然のようにシャクールがいる。食事時は特にそうだ。
「気に入ってもらえたなら嬉しいね」
シャクールがいる必然性について問うのをあきらめ、ハーフィドはそっけなく答える。少し前までは食費を要求していたが、最近はそんなやりとりをするのも馬鹿らしくなってきた。
「食後に冷たいお茶があれば、もっと気に入るんだが」
さらなる要求を重ねて、シャクールは席についた。
シャクールは黒縁眼鏡をした細身の背が高い青年で、丈長の黒い上着をいつも着ている。よく見ると男前なのだが、本人はそれを生かす気がないのか、あまり小奇麗な雰囲気ではない。
対するハーフィドは年齢はそれほどシャクールと変わらないが、小柄で少年らしさが抜けない。童顔なせいか似合う服が少なく、クローゼットの中身も野暮ったいチェックのシャツくらいである。本音を言うと、ハーフィドはシャクールの年相応の外見が羨ましいと思っていた。だがしゃくなので、面と向かって口にしたことはない。
ハーフィドは、ビニール袋からピタパンを出して卵の横に並べた。
「パンは一個ずつな」
「わかった。それじゃ早速……」
すぐさまシャクールはピタパンを手に取り、中に卵を詰めて食べ始めた。
(食べると静かになるんだよな)
シャクールがやたら大切そうに食べている様子をちらりと見ると、ハーフィドも自分の分の卵をスプーンですくって口に入れた。香辛料とにんにくの効いた、普段通りの卵とトマトを炒めた味である。
こうして二人で朝食を食べていると現実感がないが、ハーフィドとシャクールはとある組織の工作員であった。やることは主に暗殺で、ハーフィドが銃撃、シャクールが爆破を担当している。最近は銃撃の命令が多いので、概ねはハーフィドが実行犯だ。
1948年のイスラエル建国により、大勢のパレスチナ人が国を追われてから約二十五年。ここベイルートを首都とするレバノンでは、パレスチナ難民流入の結果増えすぎたイスラム教徒と、それに反発するキリスト教徒の間の対立が深まっていた。
パレスチナ人が皆、イスラム教徒というわけではない。
しかしもしも勢力争いでイスラム教徒側が敗北すれば、イスラエルのユダヤ人からアラブ人の土地を取り戻すべく闘争を続けているハーフィドとシャクールが属する組織もその拠点となる場所を失う。
そのため二人は、敵対勢力であるキリスト教系過激派勢力の力を暗殺で削ぐために派遣されたのだ。
ヨルダン川西岸の中心都市ラマラからアメリカのデトロイトへ移住した比較的裕福な家庭で育ったハーフィドと、難民キャンプ出身のシャクールでは、動機も背景もそれぞれ違った。出会いは組織に入ってからで、二人で組むことになったのも偶然である。だがいつかパレスチナをイスラエルから取り戻すという志は同じなので、関係も任務も順調だ。
家出同然でアメリカを出たハーフィドであるが、今のところ特に後悔はなかった。家族のことも愛してはいたが、彼らが望む人生を歩む気はない。
(両親も姉さんたちもアメリカでの暮らしを大事にしていたけど、俺はそうはなれなかった。自分の国じゃない場所での幸せに価値があるとは思えない。俺は、俺たちの土地を取り戻したい)
1967年の六月戦争の後、十四歳のときに離れることになった故郷パレスチナの記憶。それは、ハーフィドにとって何よりも大切なものだった。
友達といつまでも空き地で遊んだことや、親戚のオリーブ農園の手伝いが楽しかったことに比べれば、アメリカでの生活は何もかもが霞む。
かつての記憶に思いを馳せていると、気付けばピタパンと炒めた卵を食べ終えたシャクールが期待した目でハーフィドを見ていた。
シャクールの要求を思い出したハーフィドは、仕方がないので冷蔵庫から冷えた紅茶と焼き菓子も出した。
シャクールは満足げにグラスの中のお茶を飲み干し、ふと壁にかけてあるカレンダーを見て言った。
「もしかして今日は、ガァニィに会う日だったか?」
「あぁ、十時に事務所だよ」
空いた食器を片付けながら、ハーフィドは答えた。
ガァニィというのはハーフィドの叔父で、ここベイルートにおける組織の幹部の一人だ。ハーフィドはガァニィを頼って組織に入った。そしてハーフィドとシャクールに本部の命令を伝えるのもガァニィだ。
シャクールは表情を曇らせて、頬づえをついた。
「あの人と会うと、どうでもいい話ほど長くて大事なことがよくわからないから苦手なんだよな」
ガァニィはハーフィドにとってはやや変わった性格の叔父だが、シャクールには好ましくない上司になるらしい。
「まぁ、あの人は昔からああいう人だから」
ハーフィドはやんわりと叔父を肯定して、食器を洗剤につけた。
約束の時間まではまだ時間があるので、掃除と洗濯も終わらせたかった。
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