第8話

 目が覚めてしまった。まだ部屋はほんのり暗い。そうか、家に帰ってから何もせずにすぐにベッドに入ったんだった。目覚まし時計の針は4時を指していた。

 ああ、そういえば昨日は暗いうちに起きたら、部屋にアスカがいたな。目の前に覆いかぶさっていたんだ。

 あ、アスカのことをまだ覚えている。

 もう会えないのに、記憶だけ残るなんて、そんなの、ずるい。

 もう眠れないだろうからと机の上のスタンドを点けると、解剖学で使ったスケッチブックが置きっぱなしだった。

 その横には、白い花が落ちていた。あの花だ。

 こっちからはカバンやスマホが持ち込めなかったのだから、向こうからも何も持ち込めないと思うけど。どこか商店街の道に咲いていたのが紛れ込んだのかな?

 その花びらを、クリップでスタンドに留めておいた。

久しぶりにスケッチブックを開いてみると、課題で描いた骨のスケッチが残っていた。

 筆記試験は不合格だったけど、スケッチは学年トップクラスだと教授は言ってたよな。それなら、もっと点数をくれて合格させてくれればいいのに。

 教授に不満を述べたところで、何もいいことなんかない。ここは芸術学部じゃないんだから。

 知識が無くて後で困るのは自分だ。今、言い繕って過ごせたとしても、どこかで必ずしっぺ返しがくる。現場に実習に出たら、ひとたまりもないんだろうな。

 現場で使える知識か・・。

 そういえば、ミカシキの切断した脚って、こんな感じだったかな。

 その姿を思い出して、切断した断端を描いてみる。下半身だけではバランスが悪いので、全身を描いてみた。まだ昨日のことのように覚えている。実際には、何百年も経っているのに。

 完成した絵を見直してみる。

 うん、我ながらいい出来だ。やっぱり、教授が褒めてくれただけのことはあるな。

 その絵に自己満足して、続けてナガスネの肩や、他のみんなのケガの状態を描いてみる。

 朝早い時間に、黙々と思い出した姿を描いていく。自分でも、こんなに集中して絵を描いたことがないくらい描き続けた。

 どうせ記憶が残ったままになるなら、それを全部描いてやろう。そして、忘れないでいるんだ。

 何人かの姿を描き終えて、筆を止めた。部屋の外から声が聞こえた。

「陵、今日は大学の講義はないの?お母さんはもうパートに出るから、戸締まり忘れないでね」

 もうそんな時間なのか。時計を見ると8時を過ぎていた。

「うん、わかったよ。行ってらっしゃい」

 こっちの世界の僕は、昨日は学校に行ったのだろうか。

 できるならこのまま家にいて、絵を描きたい。だって、まだ大切な人の絵を描いていない。

 描けるかどうか、わからないけど。

 以前の僕なら、一日くらいどうってことないと思って、すぐにサボることを決めただろう。でも、今日は大学へ行って、今までの自分の様子を知りたい。

将馬や柳本さんからなら、その間の様子を怪しまれずに聞けるだろう。

 大学は既に後期に入っているから、時間割がわからない。このまま大学にいくよりは、将馬に連絡を入れてからの方がいい。

 将馬に、今日は大学に行くかと連絡をしてみる。あいつはすぐに返信をしないやつだ。

 ジリジリと返信を待っていたら、思ったより早く返って来た。

―昨日、突然いなくなるから、透子も驚いてたぞ。何かあったのか?という文面だった。

 何があったんだろう?僕が知りたいんだよ。

―元気ならいいんだけど、今日は大学に来るんだな?オレは午後の授業には出るぞ。

 それなら、お昼に会おうと返信して、スマホを閉じた。

 ということは、昨日まで僕は普通に大学に行って、二人と会っていたわけだ。

 スマホの日付では、僕が向こうの世界に行って2ヶ月が経過していることになっている。

 この間の、現実世界での記憶は僕にはない。向こうの世界では逆に2日しかいた記憶がない。時間の間隔があやふやになっている。

 いずれにしても、うまく話を合わせないと、いろいろ疑われるかもしれないな。特に二人には、なるべく勘付かれないようにしなければ。

 ま、留年が決まってるんだから、少し頭がおかしくなったみたいに思ってもらっても構わないけどさ。来年からは、一人で4年間大学生活を過ごすことになるだろうし。

 大学に向かうまでまだ時間がある。またスケッチブックを開く。

 大学で描く時間があったら描いてみようか。そう思ってスケッチブックをカバンの中に入れた。

 カバンを開くと、また甘酸っぱい柑橘系の香りがした。


「おー、来たか、陵!昨日は突然いなくなって、どこに行ってたんだよ!」

 お昼に将馬と柳本さんと、学食で待ち合わせたら、途端に怒鳴られた。

「あ、いや、ごめん。母に頼まれた用事を思い出してさ」

 これは口から出まかせだ。

「商店街を歩いていたら、ふっといなくなるんだもん。ビックリしちゃった」

 柳本さんが不思議そうに僕を見て話す。

「せめて、一言言ってからにしてよね。もう驚いて心配して、電話にも出ないし!」

「ごめんなさい」

「まあいいわ。でも、もう驚かすようなことは止めてよね。2ヶ月くらい前にも、突然連絡が取れなくなったでしょ。あの時は解剖学の試験を落としてすぐだったから、本当に心配したんだから」

 あっちの世界に行った時だ。あの時も突然消えたのか。その後は、どうなったんだろう?

「あの時はごめんよ。それから僕と会ったのは、どのくらい経ってたんだっけ?」

「えー、何それ?次の日には連絡をくれたじゃない。海に夕日を見に行って叫んできたって」

「そうそう、陵にしては珍しいこと言ったよな。そんなに落ち込んでたんだな」

 僕がいない間は、誰かが僕の代わりにこの世界にいるんだ。入れ替わってくれたのは助かるが、オリジナルがしない恥ずかしいことをするのはやめてくれ。

「さ、そんなことより、メシ食いに行こうぜ」

 3人で学食に向かった。まだお昼前なので、比較的席は取りやすかった。席を取りながら各々食べるものを買ってきた。

 僕のカバンを席取りに使っていたので、3人揃った時にカバンをよけようとしたら、誤ってカバンを床に落としてしまった。

カバンの中から、スケッチブックが出てきた。

 柳本さんがそれを拾った時、運悪くナガスネの肩のケガの絵を描いたページが開いていた。

「何これ?肩をケガした人の絵・・?」

 あー、と言って柳本さんからスケッチブックを取り上げようとしたら、それより早く将馬が取ってしまった。

「どれどれ?ふーん、お前やっぱり絵、上手いよな。これは誰かの絵か?ひどいケガをしてるじゃないか。なんでこんな絵を描いたんだ?」

「あ、いや、それは・・」

「ふーん、でもこのケガなら回旋腱板までやっちゃってるわね。動かさないでいると痛みが残るから、運動療法が必要じゃない?」

 柳本さんがカルボナーラを食べながら冷静に見解を言う。

 運動療法・・。そうか、そのやり方を教えてあげればいいんだ。

 と自分の頭の中で言って、ふっと気づく。

 もうあの世界には、行けないんだ・・。

 でも、もし行けるのなら、こっちから湿布や痛み止めなんかを買って持っていけばいいんじゃないかな。あの橘の花びらが向こうの世界のものなら、物を持っていけるかも知れない。

 どうしたら、またあの世界に行けるんだろうか。何か方法はないんだろうか。

「陵、陵!おーい、返ってこーい」

 ん?あ、将馬が僕を覗き込んでいる。

「あれ、どうしたの?」

「どうしたもないわ!急に一人の世界に浸りよって。お前がオレと透子を呼んだんだからな。後でアイスおごれ!」

そうだな。それくらいのことはしてあげてもいいかも。それに、まだ聞きたいことがある。

「わかったよ、今日はアイスをおごってあげよう!」

「ええー、いいの?今宮君!ありがとう、うれしい!」

 柳本さんが、喜んでいる。

 3人でアイスを食べながら、それとなくこの2ヶ月間のことを聞いてみる。

「ところで、前期は大学の授業、しっかり聞いてたかな、将馬!」

 将馬がアイスを口にくわえて、驚いた表情でこちらを見て言った。

「へ?今更何を言ってるの?解剖学で酷い目にあったから、心を入れ替えて頑張ったっんじゃやないか!」

 え?将馬からこんな言葉を聞くとは思わなかった。

「頑張ったって、将馬が?」

「あたぼうよ!」

 一体どこの言葉だ。

「じゃあ、他に落とした科目はないのかな?えっと、僕もだっけな?」

 それには、柳本さんが答えた。

「ないわよそんなの。だって3人であんなに勉強したじゃない」

 あー、そうなんだ、と声に出しそうになったところを、グッと堪えた。

「そうだった、自分一人じゃ絶対に上手くいかなかったものね」

「そうよ。勉強はみんなでした方がいいんだから」

「だから、陵が解剖学を落としたのは痛かったな。もう言っても仕方がないことだけど、何かあったらオレらに相談しろよ!」

 オレら、には柳本さんが入っているんだよね。そこに僕が入り込める余地は、もうないよ。

「そういえば、さっきの絵のケガがあったら、何をしたらいい?」

「え、なんで唐突にそうなるの?」

「いや、まあ、勉強のために」

「運動療法と、痛みが出るから、消炎鎮痛のために湿布くらい貼るんじゃないの?あと痛み止めを飲むとか」

 そうか、湿布を貼るくらいなら自分でもできるかな。

 戻れればの話だけれど。

「それと、片手が使えない間の普段の生活を考えなきゃだめね。一人でできる動作とか道具とか、工夫しなきゃ。作業療法の学生なんだから」

「ありがとう、もう少し自分で調べてみるよ」

「わあ、今宮君も自分で勉強する気になったのね!うれしいわ」

 自分のためだけなら、こんなふうに思わないけど、誰かのためになら勉強できる、のかな?


 二人と別れて、授業には出ないで大学近くのドラッグストアに向かう。

 大きく明るい店内には、とりあえずの処置ならできる薬が所狭しと大量に置いてある。

 そこで、さっき話にあった湿布を大量にカゴの中に入れ、それから飲み薬の痛み止め、包帯などを揃えてレジに並んだ。

 レジでは、店員さんがカゴを見て、少し驚いたように僕に話しかけた。

「あの、お客さま、これだけ大量の痛み止めは何にお使いですか?」

 え、そんなに多かったかな。何か怪しまれただろうか。

「何か問題とかあるんですか?分からなかったのですみません」

 店員さんは、優しく答えてくれた。

「第二類医薬品なので数に制限はないんですが、一度に大量にご使用になりますと体調を崩しますので、一応お声がけをさせていただいております」

 まずい、これは怪しまれている。説明もしにくい。だって、過去に持って行くなんて言ったら、別の意味で通報される。

「何か運動部の部活で使うのですか?それでしたら、顧問の先生の証明とかあると出しやすいのですが。お支払いを大学に請求するとかですね」

 ここは大学が近いから、ケガをした時のために運動部の連中がよく買い物をするんだろう。

「いや、部活ではないので、数を減らします。僕、引きこもりなので、あまり買い物に来れなくて・・」

 引きこもりみたいなのは間違いないから、嘘は言っていない。でもなんて下手な言い訳だ。

「あー、そうでしたか。でもそれでは個人の使用分になりますので、少し減らしていただいてもよろしいでしょうか?無くなったら、またご来店ください」

「はい、わかりました!それでお願いします」

 結局買えたのは1ヶ月分だけであった。

 それでも、もしあの時代に持ち込めれば、なんらかの役には立つだろう。


 湿布がカバンに入りきらなかったので、両手に荷物を持って帰宅した。

 思い出せ。あの時、どうやって向こうの世界に行ったのだろう。

 さっき二人は、僕が商店街の路地に入った、と言っていた。昔から住んでいるところなので、商店街は大体把握している。知っているお店なら、声の一つもかけてくれる。

 そんな路地なんて、あったかな?

 明日、商店街に行って路地を探してみよう。商店街の人なら知っているかもしれないし。

 カバンを開けて、スケッチブックを開き、もう一度ナガスネの肩の絵を見てみる。出すときにまた柑橘系の香りがした。

 机の上のスタンドを見ると、クリップで止めた橘の花がまだ生き生きと咲いていた。

 カバンにミカンでも入れっぱなしにしていたかな?

 そう思って、カバンの中をゴソゴソと探るが、それらしいものは何もなかった。

 もう一度スケッチを見て、その部位の解剖学の教科書のページを開いて見比べる。

「回旋腱板かあ。改めて見ると、肩って結構複雑な仕組みなんだな・・」

 自問自答しながら、教科書を読み進める。

 考えてみたら、こんなにキチンと教科書を読んだこと、ないかもな。あまりの厚さに圧倒されて、試験に出そうなところをペラペラめくって終わっていたと思う。

 万が一、もう一度あの世界に行ける日が来ても大丈夫なように、今やれることはやっておきたい。


 翌日は曇っていたが、商店街に出かけた。大学はサボって、早く話を聞きに行きたいと思ったけど、もし向こうに行ったときに何か役に立つ知識があるかもしれないので、授業は真面目に出た。

 午前は生理学、午後は基礎作業学という科目であった。生理学では身体が動く仕組みを学び、基礎作業学では、人が健康でいるためには、何かしらの活動をすることが必要だと教えられた。 

 病気だケガだと言って安静にするのではなく、できる範囲で身体を動かすことが大切らしい。それも、特別な体操とかじゃなくても、普段やっていることでいいみたいだ。

 そう言えば、あの部屋にいた人は、動けなくて横になっていた人が多かったな。動ける範囲で何か動く仕事でもあれば・・。

 あ、そうか、仕事をして貰えばいいんだ。みんなヒメコ様のために命を賭ける人たちだ。あの時も戦いに行けなくて、悔しそうだった。それをアスカがなだめていた。だから、別の形でヒメコ様のために役立つことができればいいんじゃないだろうか。

 身体を治すのは僕には難しいけれど、何かできることを探すくらいならできるかも知れない。

 でも、あんな身体で、何ができるんだろうか・・。

 いずれにしても、もう一度向こうに行く方法を探すのが先決だ。

 商店街には、昔から顔馴染みのお店が多い。この辺は大型スーパーがなくて、昔ながらの個人経営のお店が残っている。

 昔は母に連れられて買い物に来たけれど、小学校の高学年くらいから母と一緒に買い物をしているところを同級生に見られて、学校で冷やかされたことがあった。

 それからは、一緒に買い物には行かなくなった。母は、荷物持ちがいなくて不便だと怒っていたが、学校でまた、あのバカにされた気持ちを味わうのは嫌だった。

 それでも、以前、母とよく行った八百屋さんを訪ねて聞いてみた。

「こんにちは、お久しぶりです」

「おお、陵ちゃんか!久しぶりだな。もう大学生だったか?」

「ええ、まあ」

 大学生ですが、留年が決まってしまったので恥ずかしくて外を歩けないです・・。

「今日は一人か?弟たちも最近はあんまり見かけないが、元気か?」

「ええ、それなりに元気です」

「そうか、それはよかった。たまにはまたお母さんと一緒に来いよ1今日は何かいるのか?」

「あ、いいえ、買い物ではないんですが、ちょっとお尋ねしたいことがあって・・」

「うん?どうした?」

「あの、この商店街に神社ってありましたか?」

「神社かい?商売繁盛のためのエビス様の像なら商店街の真ん中にあるけど、神社そのものはないな」

「何かこう、お店の間の路地を入って、ちょっと進んだ先にある小さな神社なんですが・・」

「えーっと、うん、ここで40年くらい商売してるけど、そんな路地もないな。どこか別の商店街の話か?」

「あ、いいえ、違うんならいいんです。ありがとうございました」

「何か夢でも見たのかい?」

 夢かー。夢かも知れないな。

「あー、やっぱりそうですかね。あ、あと」

「おう、どうした?」

「今って、ミカンって売っていますか?」

「ミカンかい・・。柑橘類は基本冬が旬だから、よっぽど大手の青果店じゃないと今はないかもな。値段もものすごく高いよ」

「そうですか、ありがとうございました」

 笑いながら店主に礼を言って、その場を離れた。


 あの時、留年が決まってボーッと歩いていたのはこの商店街で間違いはない。大学の近くで通る商店街なんてここしかない。だから、どこかの店の間に路地は必ずあったはずだ。

 こうなったら、全部歩いてみるしかないな。

 僕は、商店街のはずれから一つずつ店と店の間を探そうと歩き回った。商店街はそれほど大きくないが、そうは言っても30店舗くらいあるので、念入りに探すと時間がかかった。所々に背の高い木が植えられていた。

 だけど、人が通れるような路地は、一つも見つからなかった。

 それでもあきらめず、店の裏の通路も隈無く調べたが、そんな路地も神社に通じる道なども見つからなかった。

 一体どこだったんだろう?もう少し探そうと思ったが、雨がポツポツと落ちてきた。

 辺りも暗くなってきたし、今日はこの辺であきらめようか。

 そういえば、あの日、雨は降っていなかったな。

 それ以外に覚えているのは、夕焼けがきれいだったこと。だから時間は夕方だ。夕焼けが見えるということは曇りや雨の日ではない。

 今度、晴れている日の夕方にもう一度探してみようか。そう思って家路についた。

 家に着いて自分の部屋に戻ると、歩き回った疲れからか、すぐに眠ってしまった。


 気がつくと、僕は暗い路地に立っていた。これは夢だと最初からわかる夢だった。だって、こんな路地は見たことがない。でもどこかから微かに柑橘系の香りがした。

 路地の先を進むと、神社の鳥居が見えた。ああ、ここが探していた神社だ。なんて言ったかな。鳥居の先には夕焼けが見えた。もう辺りは暗くなりかけている。闇に包まれる直前のわずかな時間、一瞬だけ夕焼けが蒼くなった。

 ああ、これだ。確かにあの時もこの蒼い色を見た。

 空が暗い蒼に包まれた時、鳥居の先の神社に人の姿があった。

 暗くてハッキリと顔は見えなかったが、泣いている女性だった。

 アスカだ。

 僕を呼んでいる。

 そう思った時、目が覚めた。

 ベッドの上で全身、汗をかいていた。


 それから3日間、初秋の長雨が続いて、太陽が顔を見せることはなかった。ジリジリとした気持ちが続いて落ち着かなかったが、日中晴れた日でなければチャンスはないはずだ。

 4日目は朝から快晴になった。このままなら夕焼けが見えるかもしれない。朝から大学に行く気にはなれず、自分の部屋でスケッチをしながら夕方になるのを待った。

 天気予報では、軽い雨になる確率ですとお天気キャスターが傘の準備を伝えていたが、すぐにテレビを消した。今日は晴れてくれなきゃ困るんだ。もう金輪際テレビの天気予報など見るものか。

 ナガスネの肩の状態の絵を眺めながら、新しいページに女性の顔を描こうとして、何度も描いたり消したりしていた。

 アスカの顔を忘れてなんかいない。でも描いてしまえば、もうそれで過去の出来事になってしまうような気がして、描く気になれなかった。

 大きめのリュックサックに、スケッチブックと、あるだけの痛み止めと湿布を詰め込んだ。

 そして、夕方になるのを待った。

 そろそろいい時間になったので、リュックを背負い家を出た途端、柳本さんからメールが来た。

 今日はどうして授業に来なかったのか、という問いだった。

 何て返事をしようか考えあぐねていたが、あまり時間もないのでありきたりに、ごめんサボった、とだけ返信した。

 すぐに返事が来て、明日会えるよね?という文面だった。

 もう僕のことを心配することなんて必要ないのに、と思って、返信はしなかった。

 もし向こうに行けなかったら、その時に連絡すればいいことだから。

 急がなきゃ、あのタイミングを逃してしまう。幸い雨は降りそうもなく、西の空は晴れていた。

 商店街に着いて、周囲を注意深く進みながら路地を探す。

 途中、道路脇に植えてある街路樹に、見覚えのある白い花を見つけた。

 これは。

 昨日、こんな花、あったかな?

 その花に吸い寄せられるように立ち止まると、建物の隙間に路地があった。

 見つけた。ここだ。

 場所を覚えようとして周囲を見渡すが、既に視界がぼんやりとしてきて、気がつくと神社の鳥居が見えた。少しずつ闇が降りて来ていた。

 神社に引き寄せられるように、その路地を進んだ。

 そして、一瞬現れる蒼い夕焼けを見逃さないように、鳥居をくぐった。

 その瞬間、下に落ちる感覚があった。そこからはもう意識をどこかに置き忘れたような感覚で、ただ深い闇の底に落ちていくだけだった。

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