第3話

「しっかし、あの先生、細かい問題出すよな。陵は腕神経叢、全部合ってたか?」

 同級生の将馬が言うまでもなく、この部分は全く点数が取れなかった。これでは再試験間違い無いだろう。

「あっはっは、陵も再試組だな。再試で落とすと留年決定みたいだから、ちょっと本気出すかな」

 将馬は今まで本気を出していなかったかのような口ぶりだが、できないヤツに限ってこう言う言い方しかしない。

 将馬は、高校時代サッカーをやっていて、県内では強豪校のレギュラーだったが、ケガで膝の靭帯を切ってしまい試合に出られなくなったらしい。その時に入院した病院でリハビリテーションを受けたそうだ。

 やっとつかんだレギュラーの座を失いたくないので、手術後も早く復帰したいという焦りが誰にでも起きる。だからリハビリテーションでも、まだやってはいけないことをして無理をする。

 膝のケガなので、トイレに行ったり、歩いたりするときは不自由だった。しかも膝の靭帯は入院が1ヶ月程度かかる。その間はケガをした足に体重はかけられない。無理をするともっと長引いてしまう。

 理学療法は、主に運動の回復を目的とするので、ジムにあるようなトレーニングマシンを使って練習していたが、勝手に歩いて転倒し、また入院が延びるという悪循環を起こして医師や看護師に怒られていたそうだ。そんなときに、医師から作業療法を勧められ、それにも顔を出させられるようになった。

 担当の先生は若い女性で、最初は、自分のこんな姿を見せるのは恥ずかしくて嫌だと将馬は思っていたそうが、その先生はゆっくりと話を聞いてくれて、焦っている気持ちをなだめてくれた。そこではゲームを使って立つ練習があったり、台所がある部屋でお湯を沸かしてカップラーメンを作る練習をしたりして、何とも奇妙なものだったらしい。

 なんでこんなことをするのかその先生に尋ねると、どうやって体重移動しているか見ているのよ、と笑って答えてくれた。え、カップラーメンは関係ないの?と聞くと、まあなんでもいいのよと、将馬にそのラーメンをくれたそうだ。

 入院後初めて自分で作ったラーメンは、美味しかったと言っていた。

 そのせいか、気持ちも治まり、医師の言うこともしっかり守るようになって、そこから順調に回復していったそうだ。

 時期的なものもあって3年生の大会ではレギュラーを取れず、結果として試合に出られることはなかった。でも、その経験を生かして、進路はリハビリテーションの療法士になることをめざすことにした。

 それで、理学療法学科を受験したのだが、それからでは勉強が間に合わなかったようで、見事に落ちたそうだ。

 この辺が、将馬らしい。

 そんなこともあり、第2志望にチェックを付けていた、本人が言うところの「よくわからないけど気持ちを切り替えてくれた」作業療法学科に入学して、いま僕と一緒にいるというわけだ。


 しかし、解剖学は再試を落とすと留年になるのは間違いないので、ここで落とすわけにはいかない。留年したら、その間の学費は僕が自分で払う約束になっている。

「今宮くん、桜井くん!」

 声の方を見ると、やはり同級生の柳本透子が手を振っていた。

「おう、透子!解剖学どうだった?」

 将馬が大きな声で柳本さんに声をかける。

「私は大丈夫だけど、二人とも解剖学は苦手でしょう?結果はどうだったのかな、と思って」

「そんな心配いらないって!その通り二人とも再試だから!」

「えー、そうなの?今宮くんも?」

「うん、まあ、たぶん」

 柳本さんが、ちょっと心配そうな顔をする。

「来週、試験答案戻すって先生が言ってたから、そこでハッキリするよ」

「じゃあ、もしそうだったら、私、勉強手伝おうか?解剖学みたいに、名前を覚えるのは得意だから」

「え、透子が教えてくれるの?それなら再試は安心だな!なあ、陵!」

「う、うん。もしそうなったらお願いしようかな・・」

「OK! と言うことで、今日はカラオケ行こうぜ!試験終わりを祝して!」

「そんなことばっかりしてるから落とすんじゃないの!ダメよ!時間があるならこれから図書館で勉強しましょう」

「えー、試験終わったんだから、息抜きしようよ」

「いつも息抜きばかりで、勉強している時間なんてほとんど無いでしょ!」

「あー、僕これからバイトなんだ。来週、結果が出てからお願いしようかな」

「え、あ、そうなんだ。バイトじゃ仕方ないか。じゃあ今日はやめて、結果が出たら、ね」

「うん、柳本さん、ありがとう」

 柳本さんは、いつも成績の悪い僕らを心配して声をかけてくれる。でも、その心配される顔を見るのはちょっと辛い。

 もちろん、心配させている自分が悪いんだけれど。


 翌週、解剖学の試験結果を聞きに、末次教授の部屋を訪ねた。

「はいどうぞ」

 中から、優しい声が返ってきた。

ノックをしてドアを開けて、名前を名乗る。

「作業療法学科1年の今宮です。解剖学の試験結果を聞きにきました」

 教授室には、奥に先生の執務机があり、両側の壁には本がびっしりと並べられた本棚、そして真ん中には作業用の大きなテーブルと椅子が6脚並べられていた。ここで4年生がゼミをやると言っていた。

 その机の上には、課題で提出したスケッチブックが、学生の数だけ積み上がっていた。

「OTの今宮くんか・・、あ、あったあった。うん、まずはそこに掛けなさい」

「はい、失礼します」

「今宮くんは、うーん、ものを覚えるのは苦手かね?」

「はい、どちらかというと」

「そうか、正直だな。でもこれは覚えないと、次の段階に進めないぞ。覚えること自体が目的ではないけれど、それを治療にどう使うかが大事だから、まず人体の名前は覚えないとリハの仕事にも支障をきたすだろう?」

「はい・・」

「えーっと、課題のスケッチは・・、あった。うん?ああ、君かこの絵を描いたのは」

 教授は積み上げられた山の中から僕のスケッチブックを見つけ出し、パラパラとめくって眺めていた。

「君は、絵を描くのが好きかね?」

 しばし沈黙の後、教授は僕の方を見ることもなく、尋ねてきた。

「はい・・、どちらかと言われれば好きな方です」

「そうか」

 また沈黙の後、今度は僕を見て、ゆっくりと話を始めた。

「日本で最初に人体解剖を行ったのは1754年の山脇東洋だ。その後すぐ、杉田玄白の『解体新書』が翻訳された。こちらの方が有名だね。いずれにしても当時は写真がまだ普及していないので一般的ではなく、全て画家を同行させて解剖した臓器をスケッチさせ、それを後世に残しているんだ。だから、スケッチが上手いと言うことは、医学教育ではとても重要なことなのだ」

 いきなり解剖学の歴史の話を始めてきた。この先生、話し始めると止まらないところがあるんだよな。スケッチを褒められてうれしいけど、再試の試験結果を教えて欲しいんですけど。

「君のスケッチは繊細で、細部にわたって描かれている。もうこれは他の学生のレベルではないな。君は言葉で覚えるより、絵や写真でものを覚える方が得意なんじゃないのかな?」

 小さい頃から、文字を追うことよりも絵や音楽の方が頭に入りやすかった。心配した親が一度僕を発達相談に連れて行って、そう言われたらしい。僕は全く覚えていないけれど。

「はい、そう親から聞いています」

「そうか・・。そうだな。でも、残念ながら国家試験も仕事上の報告書も、文字を使って文章で行われるから、そこは何とか克服しなければならないな」

「はあ」

「スケッチは学年トップの成績だが、筆記試験は再試験を受けてもらう。2週間後に行うから、準備しておきたまえ。詳細はまた連絡する」

 ああ、やっぱり落ちていたか・・。

「はい・・、わかりました。ありがとうございました」

 礼をして部屋を出ようとすると、再び声をかけられた。

「今宮くん、誰にでも得意不得意はあるものだ。全部に満点を取れとは言わない。不得意なものはそれなりに通して、得意なものを伸ばすようにしなさい。得意なものがあることに自信を持ちなさい。それがいつか役に立つから」

「はい」

「うむ、頑張りたまえ」

「ありがとうございました」


 教授室を出て、学生食堂に行くと、将馬と柳本さんが待っていた。先に結果を聞いてくるとメールをしたら、学食にいるからと連絡が入っていた。

「陵、どうだった?」

 将馬が興味津々に聞いてくる。隣で柳本さんが心配そうな顔をしている。

「うん、お察しの通り。再試験だってさ」

「あちゃー、やっぱりか・・。次は俺の番だな。じゃあ、ちょっくら行ってくるわ」

「今なら教授室に学生が誰もいなかったから、待たなくていいみたいだぞ」

「おう、じゃあ行ってくるから、ここで待ってろよ!」

 将馬はあっという間に学食を出て行ってしまった。強がってああは言うものの、結果が気になって仕方がないんだな。

「残念だったね、今宮くん」

「あ、うん」

 また柳本さんに心配されている。頼むから、そんな顔しないで。

「じゃあ、約束通り私が勉強のお手伝いをする、でいいのかな?」

「でも迷惑じゃないの?」

「ううん、全然」

「それならいいんだけど。お願いしてもいいのかな」

「はい!」

 少し微笑んで、柳本さんが返事をしてくれた。

「じゃあ、早速今日これからやる?どうせ桜井くんも再試でしょう」

「はは、もう見透かされてるね。これでアイツが受かってたら、天地がひっくり返るよ」

「戻ってきたら、これから2週間どう進めるかの対策を決めましょう。こういうのって、計画性が大事なんだから」

 自分一人だと、計画なんて立てないで、きっと闇雲にやってたな。

 

 クラスの中では、成績が優秀でしっかりと目的意識も持っている学生と、あまり勉強が得意じゃなく、無気力に過ごす学生の2パターンに別れる。

 毎日をバイトやサークルで忙しいくらいなら、その勢いでまだ何とか乗り切れるが、僕のように何もしたくない、向かおうとしない学生は成績も悪く、1年生の前期試験から既に差が出始めてくる。

 柳本さんは、クラスでも成績優秀なタイプの方で、無気力な僕らに構う理由なんかないのだと思うけれど、なぜかいつも試験前には僕らに勉強を教えようとしてくれる。

 だから、3人でいることが多くなって、お昼休みや放課後も時間のある時は割と一緒にいることが多い。

 僕はバイトの日が多いけれど、将馬はあの通りブラブラしてるから、柳本さんと一緒にいることが多いみたいだ。といって、二人が付き合っている感じもしない。そもそも二人が付き合っていたら、僕なんか入れないで二人で会っているだろうし。

 将馬は、柳本さんのことを何となく気になっている素振りがあるけど、僕にもハッキリとは言わない。柳本さんからも、そんな話を聞いたことはない。

 僕は接着剤の役目なんだろうか。この関係、何なんだろう?


「おーい、陵、透子!行ってきたぜ!」

「おかえり、どうだった?」

「そして、玉砕してきたぜ!」

「何言ってんだか」

「じゃあ、桜井くんも一緒に勉強会ね」

 ここは、僕がいない方がいいんじゃないだろうか?いいや、二人だけだと柳本さんが意識するから、あえていた方がいいんだろうか?

 ふう、空気を読むって、難しい。

「おう、よろしく頼むよ、女神様!二人まとめて救ってくんなせい!」

「いつの時代の言葉だよ」

「ふふ、じゃあ早速、午後から図書館で勉強会始めるわよ」

「へ?今日からですか?」

「当たり前じゃないか。僕は再試を合格しないと大学を辞めさせられる」

「いやー、そんな、中間試験が終わったばかりだというのに、打ち上げとかナッシング?」

「一人でやれば」

「いや、そんな殺生な、お代官様!」

「だから、何時代の会話なんだよ。時代考証がめちゃくちゃだぞ」

「え、今宮くんが大学辞めるのは、ちょっと、嫌、だな」

 どうして柳本さんがこんなに困った顔をしているのかはわからない。

でも僕も最初から再試を諦めているわけではないから、そんなに心配しないでよ。

 心配されると、僕はここにいてはいけないのだと思ってしまうから。


 その日から図書館で3人の勉強会が始まった。相変わらず将馬は、少しやっては机から離れたがるが、柳本さんがそれを諌めて席に戻すことの繰り返しだった。

「元サッカー選手なんだから、運動の基礎である解剖学が大事なことくらいわかってるんだろう?もう少し真剣にやれよ」

「そういうお前はどうなんだよ。大体、何で絵が好きなのにこんなとこにいるんだ?芸術学部にでも進んだらよかったんじゃないのか?」

「ウチにはそんなお金がないんだよ。それにその後の就職にも困るし」

「あーらら、そんな夢のない話で、世知辛い世の中ですねえ」

 将馬に茶化されているが、当たっているから反論ができない。

 というか、世知辛い世の中は僕のせいではない。

「でも、作業療法って面白い仕事よ。ウチは母が作業療法士なの。高齢者や子どもに関わっている姿を小さい時から見ていたから。何か患者さんもいつも笑って楽しそうだったし」

 柳本さんのお母さんは作業療法士なんだ。

「そんなに楽しい仕事なのに、何でこんなに覚えることがたくさんあって苦しい思いをしなきゃいけないんだよ!楽しい勉強から、楽しい仕事が生まれるんじゃないのかね?」

「まあねー。母には聞いていたけど、入学直後からこんなに勉強がキツイとは思わなかったわ」

「あと、臨床実習もキツイって先輩方から聞いたぞ。新歓で」

 臨床実習かあ。実際に患者さんの前に立つんだよね。僕がそんな人を治すなんて仕事に、本当に付けるんだろうか。こんなに自分に自信がないのに。

 勉強会は毎日やっているが、どうにも記憶が覚束ない。基本的に全部漢字で名前がついている。前とか後ろとか、縦とか横とか、ほんの一文字の違いで全部答えが違う。その漢字をずっと見ていると、目がグルグルしてくる。

 ただ、わずかだが覚えている名前については、その姿が写真のように目に浮かぶ。ああ、あの形をしたあの部分だなと、思い出すことができる。

 思い出せる量は、少ししかないんだけど。

「これは、覚えるしか手がないのよ。辛いだろうけど、がんばろう、ね?」

 柳本さんは優しく励ましながら上手に僕たちを導いてくれるが、あまり効果が上がっていない。このままだと僕は本当に留年かもしれない。


「とにかく前回の本試験の問題、丸暗記して!」

 再試の期日が差し迫ってくると、柳本さんも段々と要求が過激になってきた。それが出来たら、今こんな苦労をしていないと思うのですよ。

「最後まであきらめないでね、お願いだから」

 柳本さんが真っ直ぐと僕の顔を見るので、ドキドキしてしまった。いかん、僕はお邪魔虫かもしれないのに。

「うん、せっかく柳本さんが勉強を見てくれているんだから、がんばるよ」

「うん」

 また目が合ってしまった。恥ずかしくて視線を外して将馬に向けると、ヤツは机に突っ伏して眠っていた。

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