第2話
「なあなあ、昨日の解剖学の試験、どうだった?」
同級生の桜井将馬が、僕の点数を知りたがっている。
僕は今宮陵。北進大学作業療法学科に今年入学した1年生だ。
コイツとは大学に入ってからの付き合いだ。もっとも、それ以前の知り合いなんて片手でも余る。
ちょっと前なら人気学部だったけど、今どきリハビリテーションを学ぶなんて、流行りではない。国家試験があるからまだ就職があるようだけれど、仕事が大変な割に給料も上がらないと先輩方はぼやいていた。
僕だって、それを目指して入学を決めたわけではない。何をしたいかなんて漠然としていたところを、両親から強く勧められて受験したようなものだ。
ウチは普通のサラリーマンの家で、弟が二人もいるから、なるべく学費のかからないところへ行ってくれと言われていた。初めは国立大学を目指したが、そんなに気の進まない勉強で合格するほど世の中は甘くない。
結局本人の予想通り、学費が安い国立は落ちて、その3倍はかかる私立に来てしまった。
奨学金という名の借金を背負わされ、たぶん一生かかって払い続けなければならない状態で、将来に夢なんか持てという方がどうかしてる。
いや、本当はやりたいものが一つだけあった。
それは、絵を描くことだった。
高校では美術部に所属して、静物を描いていた。でも、油絵を描くと材料費がかかるので、デッサンだけで済むように、適度にサボりながら活動していた。
本当は、もっと本格的に絵を描きたかった。
一度だけ両親にそのことを告げたら、それで仕事になるわけでもないんだからと、厳しく言い聞かされた。もっともな話だ。自分にはそこまでの力はないし、努力すれば上手く描けるものでもない。
美術部の上手い先輩や同期は、最初の一本の線の引きどころが違う。もうそれだけで、絵の完成形が見えてしまう。
絵を習ったところで、それを仕事にできる人なんてほんの一握りだってことくらい、自分でもよくわかっている。それでも好きなことをやりなさいと、勝手なことを大人は言う。
3年生の夏休みに、さすがにそこまで進路を決めないでいると、何度か職員室に呼び出された。進路指導の先生に、とにかくどこでもいいからオープンキャンパスくらい行ってこいと言われた。
それを両親に言うと、文系に行ったってつぶしがきかないし、リハビリテーションはどうかしらと話をされ、家から通える北進大学のオープンキャンパスを見学しに行った。
理系の勉強なんかして来なかったし、と言って文系で語学が得意というわけでもない。全部中途半端にしてきたから、こういう時に困ってしまう。来年自分が何をしているかなんて、全く想像がつかない。
オープンキャンパスには母が一緒についてくると言い出した。本当は親と一緒に行くなんて嫌だったが、学費を出してもらう手前嫌とも言えず、二人で大学に向かった。
そもそも、一緒にオープンキャンパスに行けるほど、仲のいい友達もいなかった。
この大学は、文系から理系まで幅広く取り揃えていて学生数も多い。同じ高校の生徒も多く入学するらしい。
でも、この時期にオープンキャンパスを訪れる3年生は、ほとんどいない。だから誰にも顔を合わせない気軽さはあった。
よかった。こんなところを見られたら、また以前のように馬鹿にされる。
大学内に入ると、構内が広く、緑が多かった。リハビリテーションや看護など医療系の学科がある保健医療学部の建物は、歴史も新しいせいか、構内の一番奥にあった。
校舎内では、いろいろな教室で、入学した後の授業風景を見せたり、大学の特色などを在学生が一生懸命説明していた。
みんなで楽しそうな学生生活を過ごせますと、テレビのCMのような軽さで説明している。みんなが楽しい学生生活なんて、そもそも実在するんだろうか。
だから、そこで何を話しているのか、全く興味がなかった。
僕より母の方が、熱心に在学生や教員の話に聞き入って、質問までしていた。それなら母が入学すればいいのに。
質問している母がなかなかその部屋から動こうとしないので、母から離れて一人で廊下を歩いていると、空いていたドアの向こうに人体模型が置いてある部屋があった。
なんとなくそれにつられてその部屋に入ってみると、どうやらそこは解剖学教室という部屋らしくて、人体丸ごと一体の模型や、心臓や筋肉などの部分の模型が展示されていた。
正面に飾られていた人体模型は、頭の骨に何かが刺さったような丸い穴が空いていた。
え、これ本物なのかな?何かの手術をした後かな?などと考えながら、教室の中を進んで行った。
そして、テーブルの上にはイラストがびっしり描かれたテキストと、スケッチブックが置いてあった。
スケッチブックを開いてみると、手描きの骨のスケッチが何ページにも渡って描かれていた。
へえ、リハビリテーションの勉強で骨のスケッチなんてするの?なんで?
疑問を抱えてスケッチブックを見つめていると、いきなり後ろから声をかけられた。
「それ、よく描けているでしょう?」
無人だと思っていた部屋の隅に人がいることにびっくりして、思わず声を上げてしまったが、そこには小柄な女子学生が立っていた。
彼女は鮮やかな黒髪で、古風な顔立ちをしていた。瞳が印象的で、じっと見つめられるとその瞳に飲み込まれるような感覚に陥った。
「リハビリテーションでスケッチなんて、変だなあと思わない?」
「は、はい!」
緊張して上擦った返事をしてしまったが、その学生はニッコリと笑って、絵の説明をしてくれた。
「リハだけじゃないけど、医学では解剖学を学ぶ上で、骨の形状を正確に理解することはとても重要だと言われているの。どの部分にどんな筋肉がついているかで、関節の動き方が決まってくるから、視覚的に覚えるのよね。授業で描かされるのよ」
授業で骨のスケッチするの?美術の学部でもないのに?
「そう、授業時間にスケッチして、このスケッチブックを提出するの」
笑いながらその学生は疑問に答えてくれた。どうやら頭の中で考えていた言葉が、声になって漏れていたかな。
「どのくらいの時間、こういう授業があるんですか?」
「そうねえ、最初の骨学だから、5コマくらいかな。あ、1コマというのは大学の時間割のことで90分だけど」
なんで医療でスケッチが必要なのかまだしっくり来ていないが、少し興味が湧いてきた。きっかけなんてこんなもんかな。
「君は、絵を描くのが好きなの?」
「あ、はい。まあ・・」
「まあ、ずっと絵ばかり描いたりしているわけじゃないけど。他にも編み物したり陶芸をしたり、手工芸の活動もあるわよ。人って手を使うから、その動きを見るためね。もう他の部屋の展示は見てきたの?」
「いや、まだです。というか、真剣に見ていなかったと言うか・・」
「ふふ、作業療法って不思議なことするから、しっかり見てから決めた方がいいわよ。国家試験の勉強も結構あるし、病院や施設での臨床実習もあるからね」
「はあ・・」
「その様子だと、まだ進路決めていないわね。もう3年生?とにかくどこか入っておこうとか、親の勧めで来たとかでは、後で痛い目に遭うわよ」
いや、なんか見透かされています。
「先輩は・・」
「巻よ。作業療法学科2年の巻姫子。よろしくね」
姫子って、どこかのお姫様みたいな名前だ。容姿も小柄で、見ようによっては、確かにお姫様だ。
「巻先輩は、どうしてこの学科を選んだんですか?」
先輩は少し考えるように間をあけて、言葉を選んでいた。
「そうねえ、昔、お世話になったからかな。あんまりはっきりと覚えていないのだけれど」
「ああ、ケガをして病院で作業療法士にお世話になったんですね」
「うーん、ケガをしたって訳じゃないんだけど。作業療法って言ってたから、医療を学んでいた人には、間違いないわ」
「何をしてもらったんですか?」
「車椅子を作ってもらったのよ」
「作業療法士って、車椅子も作るんですか?それでこの道に?」
「そうねえ。それもあるけど、どんな状態であっても人が生きて行くってすごいことじゃない。それを学びたかったのかな」
ちょっと間が空いて、溜息のような深い呼吸をしてから、彼女は独り言のように言った。
「あの時に、こんな知識があればね・・。いや、あってもどうにもならなかったかな」
そう言うと、先輩は窓のほうに歩み出して外を見つめた。
オープンキャンパスのガイドにしてはあまり積極的じゃないような気がする。こんなんで大丈夫なのかな?
「あんまりはっきりした理由じゃないんですね」
「そうね。でもまだこの歳で自分の人生の意味をハッキリ言えたら、それはそれで怖くない?」
自分の親も、数少ない友人の親も、親の方が子どもの進学を決めることに熱心だ。でも、当の本人たちはまだぼんやりとしか自分の将来なんか考えていやしない。将来何が起きるかなんてわからないし、社会がいい方向に行くとも到底思えない。
きっと誰かが敷いた道の上を歩いていくことになるんだろう。そしていつの間にかそれに慣れて、痛みも喜びも感じなくなって生きていくのだろう。
「先輩は、自分の意見はハッキリ言うんですね。わからない、と」
「キミは自分の生きる理由がもうわかっているの?」
「わかっていたら、こんな時期にここに来ていないでしょう」
そう言うと先輩は笑って、それもそうね、と呟いた。
「さあ、別の展示の見学も行ってみるといいわよ。それで気に入ったら、受けてみれば?」
もし受験生の勧誘にノルマがあったら、この先輩は成績悪いだろうなあと思いつつ、礼を言って解剖学教室を後にした。
「ちなみに、その骨の標本は、模型じゃなくて、本物よ」
来た道を引き返して行くと、母が説明を受け終わり、相談コーナーの部屋から出てくる所だった。
「いろいろ見てきたの?」
「うん、まあ」
「そう、ここ、熱心な先生が多いわよ。見てどうだったの?いいんじゃない、ここで」
感想を聞かれる前に先に自分の意見を言われたら、子どもは言い返せないのですよ、お母さん。
「うん、いい先輩がいた」
いい先輩かどうかはわからないが、自分の意見をハッキリと言う先輩はいた。今まで身近にそんな人を見たことはなかったから、ちょっと興味はあった。
「じゃあ、ここも受けてみたら?もちろん本命は国立にしてね。でもアンタの学力じゃあ、受かるかどうかわからないわよね。」
さすがに僕の親だ。よく内情をご存知で。
「学費は分割もできるみたいだから、なんとかなると思うわよ。足りない分は奨学金を借りて、就職したら自分で払ってね。その条件なら、ここに通ってもいいわよ」
なかなか難しい条件を突きつけて来ましたね。それじゃあ最初っから国立は受からないという前提なんですけど。
「帰ったら、お父さんとも相談してみるわね。入ったら、しっかり勉強してちょうだいね。下に弟たちもいるから、留年なんかウチはできませんからね。国家試験も一回で合格してちょうだいね」
「はいはい、わかりました」
あの先輩に合わなかったら、こんなにあっさりと親の言うことを聞かなかっただろう。
そして、僕は無事に国立を落ちて、この大学に入学した。
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