1-1 調査府
「この世界は6つに分かれている。火の国、水の国、木の国、土の国、無の国、そして外界だ。」
教壇に立っている男性はボサボサの短髪は灰色く色が抜けていて、丸眼鏡をかけている。無精ひげを生やした清潔感のない見た目は彼を立場のある人間だとは思わせないだろう。白衣に身を包んだ彼はショール。火の国の調査府、教育庁の長であり火の国5大府の新人教育を任されている。30人ほどの教室では、ほとんどの者が頬杖をつくか机に伏せるかをしていた。
「これらの国々の間に交流はほとんどないとされる。正確には旅人と一部の薬商人が行き来している。あとは流浪の神たちだ。流浪の神たちは国を持つことはなく、民を持つこともない。これは私の推測だが、おそらく10人以上はおられると思われる。全員に会ったことのあるものはいないとされているから、正確な数はわからんがな」
ショールは恍惚とした表情で、無精ひげをなでながら話を続ける。彼の講義では決まって流浪の神たちの話題が出るのだ。この話何回目だろうなぁ、とハレは思った。
「流浪の神たちはみな気まぐれに恩恵を授けていくという。最も有名なのは音の神、神薙様だ。神薙様は音を司る神で、5つの国を旅しておられる。旅で出会った耳の聞こえぬ者たちに音を授けたり、音楽を志す者に神の歌声を宿すといわれる。他にも糸の神ポーラ、色の神ハインツ、徒歩の神フレディ、これらの神々はよく姿をお見せくださる。流浪の神々に出会えることはとても光栄なことなのだ」
ショールの話がひと段落着いたところで、お昼の鐘が鳴る。昼食だ。
「もう終わりか。では諸君、また次の講義で会おう」
そう言って、話し足りなさそうにショールは教室を後にした。
「ほらミチヒト、講義終わったよ」
ハレは隣で居眠りをしていたミチヒトを揺り動かす。
「・・・え?もう終わったの?」
眠い目をこすり体を起こすミチヒトからはまだ寝足りないことがありありと見て取れる。教室からはもうほとんど人が居なくなり、残ったのはハレとミチヒトだけだ。
「早くご飯食べに行こうよ。お腹が減った」
「もうちょっと寝たいんだけどなぁ」
そう言いながら、二人は食堂へ向かった。
「前回からのおさらいです。そこの君、自然発火現象について説明しなさい」
満腹で眠気が襲ってくるこの時間、『自然発火の理論と物理』を担当するのは神楽先生だ。朱色の髪は腰まで伸びており、猫のような真ん丸な目は気の強さを表しているかのようだ。指名されたのはミチヒトだ。
「自然発火現象は通称『発火』と呼ばれます。地面が赤くなることから始まり、次第に火が出始めます。その範囲は広がっていき、水をかけても消えることはありません。燃えた人々や土から生まれたもの以外はすべて跡形もなく消えてしまいます。そのことから、発火で失われた人々は『慶朱に呼ばれた』と表現されます」
先ほどの授業とは打って変わって、凛とした表情と声でミチヒトは答える。ミチヒトは神楽先生が大好きだった。「あの腰のラインがたまらん」のだそうだ。
「60点ね。『慶朱に呼ばれた』という表現は科学的ではありません」
神楽先生の鋭い指摘に、ミチヒトは肩を落としうなだれた。
「『慶朱に呼ばれた』という表現は、人々の心が生み出したものです。家族を失った者たちが拠り所とするのが慶朱です。慶朱に呼ばれた、と表現することで心を慰めているのです。しかしそれは理論と物理では扱いません」
ハレの心が少し飛び跳ねた。この先生はいつもこんな物言いだ。家族が慶朱に呼ばれた人たちはこの教室内に何人もいるだろうに、どうしてそんな物言いができるのだろうか。ミチヒトと違い、ハレはこの先生が苦手だった。
「5大府の人間になるものはみな、科学的でなければなりません。なぜ地面が燃えるのか。なぜ人も家具もすべて消えてなくなってしまうのか。なぜレンガ造りの家だけが消えずに残るのか。――私たちが食事を作る時に使う火と何が違うのか。これらを解明するのが調査府をはじめとする5大府の務めです」
神楽の透き通った声は教室の隅々まで届く。
「自然発火の原因は、油分を含んだ土壌が熱せられることから始まるとされています。地下のエネルギーにより熱せられた土壌の油分は気化し、発火します。長年通説とされたこれを気化説と呼びます。人々が慶朱に呼ばれたと表現するのは、この時地面が慶朱のごとく赤くなるからです。しかし肝心の『なぜレンガ以外すべてが消えてなくなってしまうのか』についてはだれも説明できないままでいます」
自然発火により失われた者たちの遺体は今まで発見されていない。遺体どころか、衣類や家具もすべて消えてしまう。残るのはレンガの家の跡だけだ。ハレやミツルおじさんの家も鎮火した後見て回ったが、何も残ってはいなかった。
「この消えてしまう理由を解明するために鎮火府と鎮火士が存在します。彼らは表向きには避難誘導を担う専門家ですが、同時に現場で人が消えていく姿を確認するための観察者としての役割が求められます。鎮火士を志す者たちはよく覚えておきなさい、鎮火士の仕事は人が燃えるさまを見届けることよ」
神楽の声は脅すような口調へと変わった。ハレは引退した鎮火士の講義を思い出した。だって無理もない。多くの鎮火士たちは自然発火の現場に立ちあい、心が折れてしまう。ただ、無力感があるそうだ。その時、燃え行く人を前にして、何もできない自分を見つめることしかできないのだ。その鎮火士はこう言っていた。「私は何度も何度も人が燃えていく、消えていくの見た。手を取りたかったが掴むことはできなかった。私の手は彼らの体をすり抜け、空を切った。目を逸らさずに見送ることが鎮火士としての私の役目だと、言い聞かせた」と。過酷であることはハレにもよく理解できた。何もできないことほど悔しいことはないのだ。
「自然発火による火は、フォルト様にしか消すことはできません。私たちが食事を作る時に使う火のように、水をかけても消えないのです。調査府の最新の見解では『自然発火による火は、本質的には火とは異なるもの』とされています。つまり火のように見える火ではないもの。これは今までの気化説を大きく覆すものです」
ハレは鳥肌が立った。気化説は集落の長から習うような初歩的な知識であったからだ。ハレの集落だけでなく、火の民はみな気化説を信じていた。地面が赤くなり、燃え広がり、慶朱へと呼ばれる。信じていたからこそ、慶朱を崇め畏れていたのだ。この当たり前を調査府は覆そうとしている。その事実はハレの心を大きく揺さぶった。
「先生、質問があります」
ハレは思わず手を挙げ立ち上がった。聞きたくて、知りたくて、口をついて出てしまった。
「本質的には火と異なるもの、とはどういう意味でしょうか?あの火は朱く熱いです。その特性は共通しているのではないでしょうか?」
ハレの勢いに、神楽は少々戸惑っている。口が半開きで目はもっと真ん丸だ。
「そうね。共通点はいくつか見られます。ですが決定的に違う箇所があるのです」――――終業の鐘が鳴った。
「・・・今日はここまでにします。ハレ君、続きは私の研究室でしましょう」
神楽はそう言って教室を出ていった。
「おいハレ!どういうことだよ!神楽先生と個人授業かよ!!」
ミチヒトは顔を真っ赤にしてハレに突っかかってきた。
「僕だってそんなつもりはなかったんだよ。僕に怒ってもしょうがないよ」
「いいや、お前が悪い!お前が神楽先生をたぶらかしたんだ!!」
ミチヒトの鼻息はどんどん荒くなっていく。あの先生はこんな子供がたぶらかせるような女の人じゃないだろう、とハレは内心思った。
「僕、あの先生苦手なんだけどなぁ」
研究室で二人きりになることを思うと憂鬱だ。
「神楽先生と二人きりだぞ?夢のようじゃないか!」
ミチヒトの興奮は冷めない。ため息をつきながら、ハレはこう言った。
「じゃあ、ミチヒトも行く?」
ミチヒトの顔はパぁッと晴れ、輝いた。そして満面の笑みで言った。
「当たり前だろ!!」
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