chapter5 「失われた者を求めて」


scene1 「雨宮あめみや和香わかの不思議な運命」


 私が彼を久しぶりに見かけたのは「偶然」なのだろうか?はたまた「運命」?


 ただ、場所がよろしくない。茅場かやば駅前第二ビルの「トンテキ よつば」。おおよそ、女の子は単身でこんな場所には来たりしない。では、私がなぜ、そこに居たのか?答えは単純明快、私が大飯おおめしらいだからだ。中学生の時はソフトボールをやっていたから、一日の必要カロリーが常人じょうじんの比ではなかったのだ。私は「とある」事情で生まれ故郷の首都がある地方を離れ、この地方に、誰にも知らせることなく引っ越してきた。「幼馴染」の彼にも告げず。

 こっちに来てからはソフトボールと無縁の普通の女子高に通っている。おかげさまで、中学生の時にはほぼ坊主だった髪は肩口までのショートヘアになっているし、胸も多少は膨らんだ。ついでに、その時は何故か黒いセルフレームの眼鏡をしていた。なんでだっけ?かけっぱなしにしてたのは?

 多分、中学生時代の知り合いに偶然あっても、誰にも気づかれないだろう。だから、彼が私に気がづいてくれないのは仕方がないのだ―と諦めたいところだが、彼とは昔将来を誓い合ったりもした仲だったんだけど。とはいえ、それは小学生の時の話であり、彼は覚えていないはず―

 彼を「トンテキ よつば」で見かけた時、本当にドキドキした。こんな大飯を喰らっているところを見られて恥ずかしいっていうのもある。でもそれより、まさか、忽然こつぜんと消えた私を追いかけてきてくれたなんて、まるで白馬の王子さまみたいだ、という思いでいっぱいだった。だから心臓は早鐘を打ち、私の手はびっしょりと濡れた。何とか、ふと視線をこちらに向けた彼―可愛い女の子がジャンボサイズのトンテキをお代わりする場面に驚いて、こちらに目を向けただけなんだけど―に何とか微笑み返すのが精いっぱいだった。

 彼は私に声をかけることなく、会計を済ませ、去っていく。がっかりした私は、新たに焼き上げられたトンテキをヤケになりながら齧った。


scene2-1 「私の思春期のすべて」


 さて。今から、私の過去の話を始めたいと思う。

 誰に向かって?

 それは多分、彼に向かって。何故、私が君の側からいなくなったのか。

 君は聞いちゃいないだろうけど、勝手に話させていただく。


 時は私たちが中学二年生だった時までさかのぼる。


 当時の私はソフトボール部の期待のルーキー。次世代のチームの核を担うのは間違いなく私だった。私がどれだけ頑張っていたかは君もよく知っているだろうから詳しく述べない。

 私は人気者だった。殊、男の子よりは女の子からモテた。男子たちはあまりに男気溢あふれる私を女としてでなく、「男」として扱った。その中で唯一、私の「女」としての側面を知っていた異性は幼馴染の君だけだった。

 私は「男」のように中学生社会を生き抜いてきた。

 でも、本当はそこら辺の「女」よりも数倍は「乙女おとな」な私がいる。当然、この不安定な時期に、そういう事があると混乱する。そういう時は、彼を捕まえ話す。


「なあなあ、伊織いおり?」

「あ?どうした、和香わか?」まるで女の子みたいな顔をした彼が答える。彼の髪は長い。今の私の髪位の長さがある。だから、コイツは女の子にもモテたし、男の中にもコイツのファンがいる。ただまあ、神様は完璧でなくても仕事はキチンとするタイプらしく、声だけは低い。喉仏は小さいながらもキチンとある。バランスが悪く感じるけど、そこには魅力がある。

「なーんで、私たちの容姿はこんなんなんだろうな?」

「仕方ないだろ?生まれ持ったモノなんだから」

「私はこの●●●●●かくやのイケメンっぷりのせいで、可愛い下着一つ買えやしないんだぜ?」

「お前、スポブラばっかじゃん。運動の邪魔だって」

「いやほら、私って実は誰よりも『乙女』だからさあ…」

「まあ。お前の部屋とか漫画の棚とか見たら、お前に幻想を持ってる女子連中は失神するだろうな」

「そーなんだよ。ホントは私、甘々あまあまな少女漫画の話とかしたいんだけどさ、周りがそれを許してくれないんだよ…」

「ボーイッシュ女子は大変だな、周りの女子の期待通りかっこよくいなきゃいけないし」

「アンタはどうなのよ?」

「俺か?別に普通だな。たまに俺にすり寄ってくるアホな男子もいるが、そういうやつには電気アンマかませばいいしな。大体黙り込む。別にエロ漫画買うのに苦労したこともない」

「あー羨まし。私だって少女漫画の話とかしてえよ」

「まずは言葉遣づかいを何とかしろよ?」

「言葉遣い?」

「お前、男子とそれに近いアマゾネスな女子に囲まれすぎて、言葉遣いがもはや男なんだよ。そんな言葉遣いで可愛い下着買いに行ってみろ、下着を彼女にプレゼントする彼氏に間違われるぞ」

「マジで言ってる?それ」

「マジも大マジ」

「傷つくなあ」いや、本当に私はショックだった。伊織は私が「乙女」であることも知っているのに。無神経な言葉を返され私はしょげかえる。

 しかし、彼は良いよなあ。容姿こそ女みたいだけど、キチンと男の子として青春している。エロ本買いに行ったり、エロ漫画をみんなで回し読みしたり、バカ話で盛り上がったり。私だって女の子みたいな青春を送りたい!好きな男の子の話をしたり、可愛いアクセサリーの話をしたり、ドラマの話で盛り上がったり。まあ、女子社会の陰湿さに上手い事巻き込まれてないのは唯一ゆいいつの役得だけどさ。休み時間に誰それとトイレに行ったり云々うんうん系のアレにさ。


「オイ、和香、次の授業始まるぞ?自分のクラスに帰れよ」

「へーい」

 ああ。なんで私は和香なんて女性成分強めの名前をしているんだろう?伊織みたいに中性的な名前が良かったな。そしたら、容姿と内面のアンバランスさが多少はマシになる気がする。


 放課後。

 私はジャージに着替え、「女子」ソフトボール部の練習へ。グラウンドで守備をしながら、よそ見をしていると、帰宅部の伊織は男子たちと内緒話をしながら帰っている。羨ましー

 私はやっている事を中途半端にするのは嫌いだから、ソフトボール部内での「私」の役割をきっちり演じきりはするだろう―誰よりもうまく。でも―なんて考えていると打球が飛んでくる。やべ、ポロリしたら先輩に殺されるヤツだこれ。私は守備に集中する。


 グラウンドが闇に満たされると、練習がやっと終わる。いやー今日も頑張ったなあ。お腹ペコペコだわ、帰りにコンビニで肉まん買ってやろう…等と考えながら部室へ。ドアを開けると女子特有の「何か」の香りと消臭剤、汗の臭いが私の鼻腔を襲う。はあ。何でここはかくもマッチョでアマゾネスなんだろう。うんざりしながら着替えを済ませ、校門に向かうと、先輩に捕まる。勘弁してほしい。チームの内情やらなんやらはさんざんミーティングで話し合っただろうに。疲れ切った私にこれ以上何の話を振るつもりだ?

「うっス、和香ちんお疲れィ、途中まで一緒に帰ろうぜ?」

「いや、イイっすけど、何か用スか?先輩?」

「用がなくちゃ話しかけちゃいけんの?」

「いや、そういう訳じゃ―」

「生意気言うとめるよ?」笑顔で先輩がのたまう。勘弁していただきたい。男子並みのパワーと女子特有の陰湿さをもった「制裁」はしんどい。

「サー!文句はありません!サー!さあ、何でもお話しください!!」

「ん。いい心がけだ」

 まったく。

 この先輩が私は苦手だ。

 ソフトボール部の今の代のキャプテンで部長。御多分に漏れず、髪はほぼ坊主だけど、体つきは完全に女。彼女がやたら可愛い下着をしているのを私は知っている。試合中や練習中は、その胸が邪魔にならないよう、キツめのサポーターみたいなものでサラシを巻いてるが、終わればそれは解放される。今もジャージの下にはやたら可愛い下着が透けている―キャミ位着ろよな。見てるだけでなんかムカムカしてくる。

「怖い顔して私の胸元見てるけど―和香ちんどうしたのさ?」

「いや、何でも無いっす」

「私のおっぱいが羨ましいの?」

「全然」

「ホントかなあ。まあ、むしろ私は君みたいなつつましい胸の方が邪魔にならないからいいんだけどさあ」

「嫌味っすか?」

「いや、本気でそう言ってんだけど?」

「私は―この胸と容姿のお陰で女の子らしいことが何一つできないんです。周りからカッコいいって褒めそやされても嬉しくなんかちっともない!」

「おっと。感情的になるなよなあ…困っちゃうからさ」

「スンマセン」

「ま。いいけど。感情的になる君は可愛いよ」

 この可愛いという言葉に私は悪寒おかんを覚える。生理的な気持ち悪さを感じる。何だろう?この人の私をめつくすように体を見つめる目は?本能的に危険だと感じる。

「はあ。そりゃどうも」

「ねえ。明日の練習の後さあ、個人練に付き合っちゃくれない?」

「へ?」個人練?面倒だし、この人と二人っきりで長時間過ごすのは勘弁願いたい。露骨に嫌そうな顔をすることで間接的に意思表示。これで分かるだろう。

「あなたに拒否権はないよ?許否ったら…締める」

「…分かりました」

 死刑宣告に等しい。笑顔でこう告げる先輩に静かな声でそう返事をする私がいた。



scene2-2 「彼氏ねつ造大作戦」


 私は家に帰り、暗澹あんたんたる気分で夕食を済ませ、部屋に引っ込む。

 ああ。どうしよう?明日、私はどんな酷い目にあわされるんだろう?怖い。誰かに助けを求めたい。でも、誰に?部活仲間はNG。だって、部長の言いなりだから。かといって女友達を巻き込むのも良くない。確実に迷惑がかかる。ソフトボール部は中学校社会の中の身分制度でかなり上の方にある。男友達も論外。女社会に詳しくなさすぎるし、女の子に嫌われるのを何より恐れている。先生を代表とする大人?でも、部長は教師受けも最高だ。勝負したら確実に負ける。両親にだって心配かけたくない。最初から分かりきっていた「答え」に私は立ち戻る。そう。伊織だ。

 私はスマホのロックを解除すると、伊織にメッセージを送る。

「おい。伊織、相談したいから返事しろ」

 そのメッセージを送って一時間が経とうとしている。何時まで経っても返事は来ない。メッセージの横に既読が付きもしない。痺れを切らす。まずはメッセージアプリの通話機能から、コール。出ない。ムカつくから電話機能からコール、鬼コール。

「おう。和香。何だっていうんだよ?明日じゃダメな話なのか?」

「なんで今まで電話に出てくれなかったんだよ!!」

「声デケーよ、バカ」

「いいから聞けよ、私は明日死ぬかも知れん」

「はあ?」

「なんか知らんが明日、部長に『呼出』をくらった。」

「部の事だろ?気にするほどでもない…」

「いや、明らかにアレは部の事と無関係だ。私の勘がそう告げている」

「じゃあ、甘酸っぱい女子トークでもしてくれんじゃね?良かったじゃん、女の子とそういう話したい、って言ってたろ?」

「いや、絶対そういう甘い話じゃない…今日の帰りがけ気持ち悪い目で部長に見られたんだ」

「マジで?」

「マジも大マジ。あの人密ひそかにレズビアンだとか、バイセクシャルとかそういう噂もあるからさ、怖くてたまんないんだよ…」

「いや。あの人野球部に彼氏いたろ?」

「いや、だからって安心できないよ。あの人の欲の深さはずっと見てきたから知ってるんだ」

「そうか…だったら彼氏でもでっち上げて逃げろよ」

「誰に頼めって言うんだよ?私の周りは私を『男』としてしか見てないぞ?」

「じゃあ…彼女でっち上げるか?」

「それは私のプライドとか立場上、NGだ!」

「じゃあ、どうすんだよ?」

「だぁかぁらぁ…いい加減、察せ伊織!」

「俺かよ!?」

「当たり前だろ。お互いの●通や初●の事を知り合ってるお前が一番適任だ!」

「臆面もなく、その話すんなよ、いくら幼馴染とはいえ」

「私は覚えているぞー。お前が―」

「辞めろ、トラウマをほじくり返すな」

「なーにがトラウマだ。役得ですらあるだろうが」

「なーにが役得だ、馬鹿野郎」

「野郎とは何だ伊織、私は女だぞ、そこはアマだろうがっ!」

「話がれてる…戻すぞ。明日、お前の為に彼氏『役』したらいいんだな?」

「そうだ。何だったら部長に紹介してやる」

「そうか。あの美人さんと知り合えるのはラッキーだな」

「お前、私の彼氏のくせに他の女に見とれてんじゃねえよ!!」

「言葉遣い」

「あ」

「とにかく、明日の放課後付き合えばいいんだな?コレ、貸しだからな?」

「お礼に可愛い下着姿の私を披露してやろ―」

「要らん。何かおごれ」

「肉まんでいいか?」

「交渉成立。詳しくは明日つめるぞ、おやすみ」

「サンキュー伊織」

「どういたしまして」

 よし、とりあえずはこれで良しかな。肉まん一つ分の出費は痛いが、身を守る為なら、安いもんだ。


 次の日の昼休み。


 校庭の端の方の誰も来ないような木の下で私たちは話し合う。

「で?どうするんだ和香?俺、あんま長時間居残りしたくないぞ?家に帰ってゲームしたいんだよ」

「あの錬金術のアレか?ヒロイン可愛いよねぇ」

「まあな。で?」

「で?ああ、段取りか。とりあえず練習前にさっさと済ませよう。伊織はグラウンドの近くで待機、私が付き合ってる男いまーす★って言ってお前を先輩に紹介し、帰りに二人で帰るから、今日の個人練は付き合えませーん(はぁと)って寸法すんぽうだ」

「作戦って程でもないな?」

「こ―いうのは策をろうせず、速攻で決めた方がいいんだよ。一回くらい個人練断ったって、問題ない、実力で黙らせる。大事なのは私の貞操ていそうだ!」

「貞操なんて言葉使うなよ…」

「いーや!大事なことだから声を大にして言うね」

「あ、そう…しかし、お前の言葉を借りるなら『強欲』な部長が果たして、それで諦めるか?」

「不吉な事を言うんじゃない!怖くなるだろ…」

「ごめん」

「とりあえず、頼んだからな。じゃ、ミッション開始だっ!」

「へいへい…」

 この後伊織と錬金術ゲームの話をし、別れた。


 放課後。

 部室で制服から、ジャージに着替えると、私は部長のところへ行く。

「どうした和香ちん?なんか用?」

「いや、実は紹介したい人がいまして」

「誰かな?お友達?それとも…」

「そうです!初彼氏ができたんで紹介しようかと!!」

「ほお?んで?ただ紹介したいだけじゃないんでしょ?」

「ええ。実は今日、部活帰りに、そいつと一緒に帰る約束してまして!」

「へえ?先輩からの誘いを断ろうっていうんだ?生意気にも?」

「勘弁してくださいよ。私はこの機会を逃したら、中学時代をエンジョイできずに終わってしまいそうで怖いんです!何卒、今回は平にご容赦ようしゃくださいませっ!!」

 私は彼女の目の前で土下座をかます。頭一つで貞操が守れるなら、プライドなど海に投げ捨てる。

「ふぅん。ま、「証拠おとこ」、見せてよ?」

「はい!おーい!!伊織ィ~!!」

 伊織は学ラン姿でのっそり登場、顔には不自然な笑顔を張り付けている。

「初めまして、コイツの彼氏やってます、二宮にのみや伊織いおりです。よろしくお願いします」

「初めまして二宮伊織君。私は―」

「いや、先輩の噂はかねがね。今日は和香のお陰で、綺麗な人と知り合えたんでラッキーです」

「あれぇ?和香ちん、彼、私の事きれいって言ってるよ?付き合い始めて早々ピンチ?」

「いやいや!私とコイツはラブラブですよっ!なんたってお互いの初―」

「あーあーあー。和香?その話はやめろ。怒るぞ?」

「いやーん、もう。だーりんったらー」

「ふぅん。ラブラブなのね」

「なんたって、幼馴染ですからねっ!」

「そう。伊織君、和香ちんの事、頼んだわよ」

「ええ」

「じゃ、練習始めましょうか―」

「じゃあな。和香、後で迎えに行くからな」

「ありがと、だーりん」

「おう…じゃあな」


 よし!我ながらうまくいったぞ!これで何もかも解決だ。気楽な身に戻れて一安心。

 

 と、思っていた私を「今」の私はおろかしく思う。彼女の陰湿いんしつさを、彼女の欲深さを、彼女の狂気を―まったく、理解していなかったのだから。


 練習が終わった後、部室で着替え、校門で伊織と落ち合う。私服に着替えた伊織がスマホをイジりながら現れる。

「うっす、お疲れ」

「待ってたよーだーりんっ!」

「何時までこの小芝居続けるつもりだよ?」小さな声で彼が問いかける。私は大きな声で、

「えー。家に帰るまで優しくしてよう」と答える。済まん、伊織、多分つけられてる…。途中でコンビニに入る。肉まんを二つ購入。一つを伊織に手渡す。彼はそれを頬張りながら、私に怪訝けげんな顔でこう問いかける。

「なあ、影響力のある部長にこの関係を知られてるって事はさ、」

「ん?」

「コレ、もう全校生徒に広まったも同然じゃね?俺、今日帰ってゲームしながらそんな事を考えていたんだよ」

「お。そういえば?そうなるかも?」

「そうだよ。二人そろってこんな簡単な事に思い至らなかったなんて、ホント馬鹿じゃね?」

「ま。私はむしろ、『女子』として認知されるチャンスだからいいが…問題はお前か伊織」

「そうだよ。アマゾネスを手なずけた男として有名になっちまいそうな気がするぞ?」

「そこは役得って思えないの?」

「いや。お前が彼女って、考えるだけでゾッとするぞ」

「叩いてやろうか?」

「止めろ、お前のビンタはシャレにならん。脳震盪のうしんとう起こすわ」

 つくづく酷い男だよ、伊織は。

 コレ、おばさんにチクってやろうかな?

 私の家と伊織の家はお互いの子ども―私たち―が生まれた頃からの付き合いであり、今でもたいそう親しい。夕飯を二家族で囲む事も珍しくはない。だから、この事を伊織母にねじ込むチャンスはいくらでもある、という事だ。



scene2-3 「荒野の私たち」


 数日後。珍しく伊織から電話。

 ここから「異常事態」が始まる。


「お、伊織じゃん、どうしたんだよー?」

クソ呑気のんきな声してるな、和香?」

「そりゃ、まあ、最近は『女』扱いもされるしー、結構幸せかもね」

「そいつは良かった。俺は男子共から突っつきまくられてるぞ。あのアマゾネスをどう手懐けたか?って。お前、自分の事『女』として見られてないって言ってたけど、顔形かおかたちは悪くないんだ、結構男子人気もあったみたいだぞ?」

「あ?そうなの?マジで?」

「おう、こんな事しなくって、そのうち彼氏できただろうに。なんで俺がこんな貧乏籤ビンボーくじ引いてんだか」

「愚痴かい?持てる者の不幸自慢ほど嫌味たらしいものはないぞ?」

「不幸自慢なんかしてないっつーの。実際的に色々困ってんだ。ちょいちょい嫌がらせも受けてるし」

「誰から?」

「お前のファンだった男女」

「男もそういう陰湿なことするの?」

「お前、何でもかんでも『男女』で二分する癖を直せ。嫉妬に狂った人間は性別問わず、恐ろしいんだよ」

「ふーん。覚えておくよ。んで、それ以外は何か困ってない?」

「おう。今からが本題だ。今まで言ってきた問題だけならお前に泣きついたりせん」

「私の小さな胸でいいなら何時でも貸すよ?」

「鎖骨が顔にめり込むから遠慮する」

「何おぅ、私だって少しくらいふくれてらあ!」

「見たことあるから知ってる―で、だ。何か知らんが、お前のとこの部長、俺に最近アプローチをはかってきてるんだ」

「は?聞いてないよ?そんな事」

「男連中使って、俺のメッセージアカウントを知ったらしい。ソフト部の線は使ってないから、お前の耳に入らなかったんだろう」

「で?アカウント知られたくらいなら害はないでしょ?」

「おう。俺もただの付き合いとして、適当にやり取りしてたんだがな。最近、変に匂わせてくるとこあるし―」

「匂わせる?」

「要するに、俺に気があるって素振りを見せてきてる訳だ」

「おおう…彼氏いたじゃん、あの人」

「モテるヤツの中にはのべつまくなしに人を誘惑して股けするような連中もいるってこった。そして、間違いなくあの部長はそのタイプだ」

「げ。しかも―」

「―しかもバイセクシャルの傾向もあるんだろ?ヤバいヤツに目をつけられちまった。平穏な生活よ、さらば」

「うげええ。でさあ、アンタは部長に誘惑されて、何も感じない訳?」

「向こうも手練てだれだからな。ちょっと危なかった」

「はあ?なんかあったの?」

「下着姿の写真送りつけられた。俺が原理主義げんりしゅぎ的貧乳教徒じゃなきゃ落ちてたぜ…」

「マジですか…うわあ。そろそろ私の方にも魔の手が伸びてきそうな―」

「だろうよ。こっちはアカウントブロックして繋がりを切ったから、悪いけど今度はお前の番だ。済まんけど」

「済まんけど、じゃないわよ!彼氏として助けなさいよ!!」

「一応、頑張っちゃみるが、向こうはタフなマッチョ野郎の奴隷も何人もはべらせているらしい。多分、近いうちに因縁つけられてヤキ入れられる」

「アンタ可愛いから、きっとなぶられるよ…大丈夫なの?」

「電気アンマでギリギリまで頑張る。むしろ俺が心配なのは和香、お前だ。俺は帰宅部だから、逃げ回るのは得意だ。お前は部活がある、部室に閉じ込められたら事だぞ?」

「あ…。とりあえず―気を付けるしかないか。でも、部員全員が敵に回ったら―」

「ゲームオーバー、だ。出来るだけ部活終わりのお前を迎えに行けるよう努力はする、だが―期待はするな。俺もつけ狙われる身だ…」

「お互い…善処するしかないか…」


 こうして、私と伊織の受難じゅなんの日々は始まる。

 伊織は最初のうちは耐えていた。でも、時が経つにつれ、どんどんやつれていった。私は小さな嫌がらせに始まり―無視だの、悪口だのにさらされだした。部活での肩身もどんどん狭くなっていった。

―こうして、我々二人は孤立した。辛い日々だった。伊織も友人を何人も無くし、先輩に因縁をつけられまくれ、遂にギブアップ。学校に来なくなった。最後に一言、

「済まん。俺はもうダメだ。お前はまだ、部活があるんだから頑張れ、俺みたいな下らない人間がフェードアウトすることで、何かが収まるなら、それでいい」と言っていた。私は一人ぼっちにしてほしくなかったけど、日々弱っていく伊織にこれ以上頑張れなんて―言えなかった。

「今まで、守ってくれてありがとう。無理させてゴメン。後は私が独りで何とかするから、アンタは心と体の傷を癒しなさい」―としか言えなかった。


 伊織のギブアップ後に私の「最悪」の日が―訪れた。



scene2-4 「約(400)日の和歌」


 あまりに嫌な出来事だったので、この記憶には鍵がかけられ、私の心の奥底に沈んでいる。断片的にしか思い出せないが―


 私は、部長に、なぶられた。


 所どころ、ノイズや乱れ、カット飛びが起こっている記憶。

 私は気が付くと、部室に閉じ込められている。どこからともなく、出てきた私の同期達が私を羽交い絞めにする。引退して、受験勉強に専念してるはずの部長が―髪を伸ばしている―私を嬲った。ここから先を「今」、想起する事は出来ない。記憶のマスターデータが破損している。ニヤついた部長が―何かを言ってはいるけど―それは無意味な音の連なりでしかない。

 反転。カットが切り替わる。

 部室の床に転がされた私―涙を流す私。

 伊織…私…もうダメだ。感情の大事な回路が焼き切れたのを感じる。ああ、私がもっと迂闊うかつじゃなきゃなあ。伊織を助けてやれれば、先輩を殴り倒せていれば。でも、そんなの思春期特有の思い上がりだ。本当に恐ろしいのは、力を持ちながら狂った個人なんかじゃない。力を持たないモブ―即ち、力はもたないが狂ってない個人の集まり―群衆、無関心な人たち―だ。ああ、私はこれからどう生きればいいですか?神様?と、いないはずの超常的な存在に祈りを捧げる。


 カットが切り替わる。私は制服を着てトボトボ帰り、死にそうな顔をしているものだから心配している母と父に泣きながら今日の出来事を―嬲られた事を含めて―話す。

 助けてください。もう、あなた達の娘は―ダメです。

 母と父は一言、

「明日から学校には行かなくていい。私たちがこの問題を学校と市の教育委員会サイドにねじ込む。お前をなぶった奴らは一人残らず、処分を受けさせる―」と怒りに燃えながらいうのであった。


 カットは次々に飛んで行く。学校に行かなくなった私。部屋で一人ぼっちで、膝を抱えながら、泣き暮らす。外に出るのも怖かったし、スマホを見るのも嫌になった。見かねた両親は病院に連れて行ったり、ゲームを買い与えてみたり、映画のDVDを借りてきたり。家庭教師を雇ってみたり。

 その中で私が強い反応を示したのは映画のDVDだ。ただし、日本の実写ものは拒否反応が出る。何気ないシーンで吐き気をもよおしてしまうのだ。その頃はあまりご飯も食べていなかったから、黄色い胃液を吐いた。胃が縮こまり、中身が絞り出される。辛い。

 

 伊織とは連絡も取らなかったし―アイツのメッセージアカウントは凍結とうけつされており、いつしか消えた―、両親同士も付き合いがなくなった。


 今日も今日とて映画を見る。良いものから悪いものまで、ジャンルを問わず見続けた。洋画はこと、私の精神に嫌な影響を与えない。小道具プロップや背景が海外のものだと、不思議と現実感がない。

 私はにわかシネフィルになった。

アメリカの有名な監督の作品や、イギリスの監督、フランス、スペインの監督のものなんかも見たっけ。ジャンルは主に、ドラマ性が強いものをチョイスしていた。SFだって見た。ラブコメも多少は見た。

 たまにとことん救いのない作品に当たると―私は死ぬほど落ち込んだ。逆に楽しい作品や優しい作品に当たると―心が癒されるのを感じた。


 こうやって、じっくりと心を癒していった私。

 気が付くと、中学三年の夏。進路―どうしようかな?

 さて。学校関係はどうなっているんだろう?私は母に問いかける。

「ねえ―私、高校ってどうしたらいいの?」

「高校ねえ…あんな事があったでしょ―正直ここら辺の高校に通わせたくないわ」

「あの子たちは処分されたんでしょ?」

「ええ。でも、この辺りに住んでるのは事実でしょ。何時、あなたに悪い影響を与えるか―分かったもんじゃない。今ね、お父さんの実家の方にあなたを下宿させようか、って話してるのよ」

「へ?お爺ちゃんの家?確かお父さんの方は―」

「…地方のO市内ね」

「いや、小さい頃に何回か行ったっきりじゃん。受け入れてくれるの?」

「孫は目に入れても痛くない、って言うでしょ?大丈夫、アンタが心配する事じゃないわよ」


 かくして私は、O市に移る事になり、O市内の女子高を受験、合格。

 次の春には、伊織に告げることなく、旅だった。さようなら、伊織。最後に会っときたかったけど、私がインターフォンを鳴らしても出てこなかったから。

 私はアンタを忘れようと思う。向こうではうまく、溶け込む。だから、アンタもうまいことやんなさい、と新幹線の窓から見える伊織ん家のマンションに向かって一人ごちる。


scene3-1


 あれから、何年経ったか?


 私はすっかり普通の女の子になっていた。髪を伸ばし、長い間の不摂生ふせっせいで筋肉が落ちた―とはいえ並の子よりはタフ―ほっそりとした体に少しばかり肉を付け、可愛らしい制服に身を包み、他愛もない会話を楽しむ。メイクを覚え、中学生の頃なら着れなかったような可愛い服や下着に身を包む。相変わらず映画は好きだけど―私の映画の趣味を話すと大抵の子はひく。あるイケメン俳優の出演作で何が好きかと聞かれ、あのマッチョイズムを皮肉った作品と即答したら、ドン引きされた。それ以来は同じ監督の時間遡行している男のラブストーリーと答えるようにした。なんであの映画の良さが分からんかな―、こっそりと見るようにしている。


 高校二年の春先。そろそろ進路を考えなくては―思っていると、優しい祖父母が予備校を見つけてくれた「輝光塾きこうじゅく」。茅場かやばにあるから利便性は抜群。帰りに寄り道だってできるじゃない。私は素直に勧めに乗り、通い始めた。そして、二度と会うはずもなかった、伊織と、思いもよらない形で再開を果たした。髪は短くなっていたし、眼鏡はかけていたけど、アレは確かに伊織だ。確信がある。

 ただ。私は伊織とまた出会えたとして、何と言えばいいか分からなかったし、伊織と付き合いを始めたら、あの「鍵をかけた箱」が、私の身をむしばみはしないか―死ぬほど怖かった。

私は毎週、三回ほど、「輝光塾」へ行く。金・土・日。金曜は夕方から数コマ。土曜は朝から夕方まで。予備校が終わると、少し茅場を散歩して帰る。何処かにあなたがいないかと目をキョロキョロさせる。今更会って、どうしよう?と思いながらも探すのを止められない。アイツは私を守る事を途中で放棄しはしたけど、なんといっても幼馴染だったし、私たちの間には、確かな「何か」―あえて私はそれを愛とは呼ばない―があったはずなのだ。

 例え、関係を清算するとしても、キチンとした形にしたかった。あんな尻切れトンボでで終わるのはゴメンだ。彼と偶然出会ってから、数週間経った後、私は強くそう思う。

 

 しかし。たまたまあのビルの「トンテキ よつば」で昼間に偶然すれ違っただけの人間を探すのは、砂漠に落ちた一粒の白胡麻を探すの並の難易度だ。



scene3-2-1 「鏡に映る、このわたしは誰ですか?」


 伊織を探す―今の私―女子高の二年生の私について、話そう。

 如何(いか)にして私が伊織と再会を果たすか―


 毎週末、私は茅場かやばに降り立つ。地下鉄に揺られ、「西茅場なしかやば」から茅場駅前第一ビルへ。

 さて、今日の一コマ目は何の授業だっけ?確か、現代文だった気がする。私は現代文はあまり得意ではない。評論文はまだいい。小説がダメなのだ。特にローティーンが語り手になるとさらにダメ。そういうのは海外ものでも、主人公に近くなり過ぎちゃうから、キツイ描写が挟まれると―いじめとか―、視界がグルグル回ってしまうのだ。

 ああ。今日は小説の問題解くハメになりませんように。そう願いながら、教室へ。周りの子に適当に挨拶してからパイプ椅子に腰を下ろし、鞄の中から黒いセルフレームの眼鏡を取り出しかける。私の視力は日常生活をする分には必要ないが、大きな教室では眼鏡がないと、うまく黒板が読めない。

 授業開始から10分経ったけど―先生が来ない。辺りがざわつきだす。こりゃあ休講になるかな、ラッキー。と思っていると、私の後ろのドアが勢いよく開く音。そして、いつもの女の先生―若い人、結構可愛い系の人だ―が息を切らせて入って来たかと思いきや―


「ごっめーん。代講だいこう頼まれたのに遅刻してもーて。君ら現役私文コースの二年の子らでええよな?」なんか知らない先生がいる。

 眼鏡に短髪、布袋ほていさんのような柔和にゅうわな顔つき。柔らかな方言。いかにも何処かの高校の優しい先生のようなおじさんがいる。汗だくの彼がゆっくり、前の教卓へ向かう。教卓にたどり着くと、斜めにかけたビジネスバックをどさりと落とし、中をいじり―プリントのたばを取り出す。

「来て早々、自己紹介もせんのは悪いかなーって思うんやけどさ、今日の授業用の問題、事務所でコピーしてくるから、この小テストやっといてくれへん?」

 うげ。いきなり小テスか。まあ、なんか急な代講みたいだし、仕方ないか…

 漢字とことわざ、慣用句の用法なんかで構成されたソレを解くと、多少落ち着いた様子のおじさんが中に入ってきて、

「いきなり、済まんかったなあ。急にあの若い子が休講したい、っていうもんやから、たまたま駅ビルにおった俺が呼び出されてなあ。あ、自己紹介忘れてた。明石あかしです。しがない予備校講師、兼いろんな大学の講師とかもやってます。知りたい大学あったら言ってやー、雰囲気位は教えたれるでー」

 よろしくお願いしまーす。とやる気のない返事が教室から返ってくる。まあ、まだ高二の春だから生ぬるい雰囲気なのは仕方ない。

「さて。今日は何の授業したろかなあって思ったんやけどさ、俺、あの先生が何をどこまで進めてるかはあんま把握してへんのよ。やから、オリジナルの小説の問題を選んで持ってきたわ。たまにはこういう変化球もええやろ?」

 よくないよ。ああ。勘弁してよお。なんて顔をしていると、明石というオジサン先生が私に悪戯っぽく笑って、こう突っ込みを入れる―

「お。君は現代文ダメな口?大丈夫、おっちゃんの問題はちょっと変わりだねやから」

「変わり種?なんですか、変わり種って」

「まー、他の先生は教育的配慮で扱わないタイプの作品使っちやうってとこやな」

「へえ?」

「何年か前に、冗談半分で芥川龍之介の『歯車』って作品で問題だしてんよ。知らない君らに軽く解説すると芥川が自殺前に書いてたヤツね。んでさあ、その問題出した一週間後位にここの主任に呼び出されてなあ、何かと思ったら、あの問題出した子らの1人が親にその話したみたいで…死ぬほど怒られたわ、ははは」


 教室が軽くく。私はこの人が多少変人であることを確信する。

 予備校の講師という人種は高校の堅物教師に比べると少し変な人が多い。高校の教師は生徒への指導責任があるから真面目な感じで私たちに接してくるけど、予備校の講師は大抵がフリーランスのせいで、少しばかり浮世離れしてる。私が知ってる人だと趣味でボディビルを極めているやたらマッチョな―でも顔は可愛らしい―男講師だとか。


「今日は太宰だざいおさむの『冨嶽ふがく百景ひゃっけい』を扱おうと思てます。太宰といえば『走れメロス』とか『人間失格』やね。まあ、作家のイメージとしては後者の方が強いよなあ。でもな。太宰はどちらかといえば後期の作品よりも中期の短編の方が優れてるって先生は個人的に思てます。で。今日の問題の『冨嶽百景』やけど、最初の嫁はんと自殺未遂してみたり―ここら辺の事情は昼ドラじみてて先生は嫌い―、パビナールっていう鎮痛剤の中毒になったり、そのせいで芥川賞を取り逃がしたり、選考委員だった川端康成かわばたやすなりに受賞を懇願こんがんする手紙を送りつけたり、それを断られて文芸誌に『川端康成へ』っていうそのものズバリなタイトルで文章書いて、その中で『小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。』※1なんて書いちゃうような、はっきり言ってダメダメな時期を超え、お師匠さんである井伏いぶせ鱒二ますじに再婚相手を紹介される―という実生活の転機に書かれた作品です。スタイルとしては、私小説やね。ただ、薬漬くすりづけの暗さはないかな」と一気にまくしたてるオジサン先生。結局、また変な作品扱ってない?なんて考えていると、先生は続ける。

「もしかしたら、この作品の『富士には、月見草がよく似合う』※2ってフレーズを知っている人もおるかな?どう?知ってる人、手ぇげてみ?」

 手を挙げる者はいない。このクラスは全体的に現代文が苦手な人の集まりなのだ。

「おらんかあ。ま、短い作品やし、気軽に読み進めて、問題解いてちょーだいな」

 

 私はあまり気が進まないけど、「冨嶽百景」を読み進め、問題を解いていく。割に素直な問題が続いていて、解くのには苦労しなかった。でも、最後にこんな問題があった。


「問:この小説内の『月見草』は何を象徴しているか、あなたの考えを述べよ。字数制限はないものとする(配点20)」


 今までの軽い選択問題とは違って、骨のある論述だ。面倒だなあ、と思いながら、私は私なりの考えをコリコリ書きつける。

 まず。この作品内では繰り返し「富士山」のイメージが繰り返される。そしてそれは「俗っぽい」ものとして軽蔑されている。たまにはその威容いように頼もしさを感じたりするけど、やっぱり、素朴そぼく粗野そやに感じる。

 ある日、太宰は郵便局に行くためにバスに乗っていると、そのバスの女車掌が思い出したように『今日は富士がよく見えますね』といい、乗客はそちらに目を向け、やあ、とか、まあとかいうのだが、一人の老婆だけは富士を見ず、反対側の路傍に生えた月見草を指さし、『おや、月見草』という。太宰がそちらに目を向けると3778mの富士に立派に相対峙する「月見草」。それに良さ―美しさ―を感じる。

 そう、「富士」という「俗世間」に立ち向かう「月見草」に自分をオーバーラップさせているのだ―というような事を書き付けると、タイムアップ。答え合わせが始まる。滔々とうとうと解説が続いていき、最後に論述の解説。先生は口を開くと、

「はい。んじゃー論述問題について解説しようかな。まあさ、小説の解釈なんて人次第やし、その時何を考えているかで結構変わるもんやけど―とりあえず。一般的な答えを出そか。まず、頭に置かなければならないのは太宰の人生やね。私小説やし。一応、問題の前に軽いイントロダクションしといたけど、あれ伏線だったのよ。みんなキチンと気づいてくれたかな?」

 まあ、時間がない割に長話してたんだから、勘のいい人間は気が付いただろう。

「結構分かりやすく、太宰は富士山を作中でディスるよね。そして、それに重なるように富士の近辺で過ごした日々が語られていく。決して順風満帆なものではない。でも、初期作や後期作に見られるような暗さはない。井伏鱒二ってメンターが側にいたのも大きいかもね。そんで、月見草。勘のいい人は一発で分かるだろうけど、当然、太宰はこの花に自分をオーバーラップさせています」

 よし、現代文苦手な割に頑張ったぞ、私。

「ただ、この小説は太宰を『月見草』のまま終わらせはしないよね。結局太宰は、『富士山』に代表される『世の中』に『再婚』という形で入っていく。というか、お師匠さんの紹介で結婚するんだから、いくら実家から金を工面してもらえなくても、いくら『月見草』のように凛と『世の中』に相対峙あいたいじしたくても、無理やね」

 そうかなあ?

「『富士山』に代表される、素朴な自然なもの、簡潔で鮮明なもの、それをつかまえ紙に移す事、それは彼の仕事における『単一表現』の美しさなのかも知れんと妥協だきょうしかけるけど、『月見草』たる彼は、『富士山』の素朴さに閉口している。アンビバレンスな感情に囚われる。でもさ、嫁はん貰うって事は、彼の『月見草』というスタンスを許しはしないわけ。彼は変わらなくちゃ―もしくは妥協しなくちゃいけないんだ。それが人生ってやつだからね」


 人生は失う過程だ―と私は思う。


「この後、太宰は宿屋の娘さん―イノセンスの象徴かな?―と、ある光景を見る。君たちも読んだから詳しく云々うんぬんしないけど、富士山に欠伸あくびをする新婦さんのアレや。あの光景を見た太宰は直接思ってないかも知れないけど、世間に相対す、というスタンスとは真っ向から対立する『欠伸』する新婦、その姿に励まされたんじゃないかな?宿屋の娘さんは図々ずうずうしいって言ってたけど。んで、何やかんやあって―結婚の話がうまくまとまりだし―、太宰は富士山の近くの宿屋を出る、最後に富士をパチリと写真に収め、さようなら、お世話になりました。なんていってさ…あ。時間だね。長い事先生の感想聞かせてごめんよ。とりあえず、最後の問題は『月見草』イコール太宰って書けてれば大体、正解。よし、ほな、終わり。おっちゃんは帰るわー」


 尻切れトンボみたいな解説を聞かされた私は悶々もんもんとする。

 この後の世界史の講義―今日は中国史だ、漢字ばかりでつまらない―を半分聞きながら、「冨嶽百景」と太宰治に思いをはせる。結局、太宰は「俗世間」に馴染めたのだろうか?いや。結末は知っている。後期の作品には、宿命的な暗さがある。私はスマホをテーブルの下でいじる。ブラウザを起動し、某百科事典サイトを開く。そして、検索BOXに太宰治と打ち込む。あの有名な写真―頬杖ほおづえついた写真―が表示される。ページをスクロールさせていくと、太宰の生涯について書いてある、青森の大地主の家に生まれ云々うんぬん、学生時代に左翼運動に傾倒けいとうし云々。そして、「冨嶽百景」の辺りの事を適当に読み飛ばし、最後の方へ。

 結局、太宰は破壊的な人生を改められなかったらしい。美容師の女の人と入水じゅすい自殺。しかも、それ以外にも、小説の登場人物のモデルになった歌人の女の人との間にも子どもを作っている。最低な男だ。

 でも、私は、「何か」に変わろうとした太宰、「冨嶽百景」の太宰にシンパシーを感じていたのだ。文章のうまさもあるけど、どちらかといえば「変化」しようとした「努力」の方にシンパシーを感じる。別に私は太宰みたいに「俗世間」にりんと立ち向かう「月見草」ではないけど―周りから期待された「カッコいい私」から、色々な事件を経て、「可愛い私」に変化した。妥協した。

 私は、物言わぬ多数派のモブや狂った個人に立ち向かい、敗北し、傷つき、時間をかけ回復した。二度とあんな目に合わなくて済むように、努力した。男っぽい言葉遣いを改め、体に肉をつけ、服装に気を使い、周りの女の子たちのマネをした。最初こそ何だかむずがゆい思いをしたけど、だんだん慣れていった。ソフト部の練習時にしていた声出しのせいで酒焼さけやけしたみたいになっていた声も、可愛らしく聞こえるようにした。そんな風にして「努力」した私だが、ふとした拍子ひょうしに不安になる事がある。


 私は―あの時のまま、敗北した時のまま、変わってはいないんじゃないか?


 あの事件以来、世界の見え方は変わった。単純な論理で「世間」は渡れない。「世間」は「異端者いたんしゃ」をに爪弾つまはじきにする。日本のことわざに出るくいは打たれる、っていうのがあるけど。アレは正しい。昔の私は素朴に自分に力があれば、大抵の人間は黙らせられると思っていた。

 あの頃の私は気が付いていなかったけど、私と伊織は「世間」という集団において、「異端者」だった。思春期を迎え、それぞれの性別に向かい変化していく者たち、その中で時が止まってしまったみたいに自分たちの性別に向かい変化していなかった私たち。パッと見、性別不詳の一組の男女。「世間」で期待される「役割」に収まらなかった私たちは当然、排斥はいせきされる。それに何年か遅れで気づいた「私」は「役割(女)」になる為に、必死に勉強した、役になりきった。まるで映画の中の人物みたいに。


 俳優の演技法の中に「メソッド」と呼ばれるものがある。

 私の好きな俳優の中では、有名なアメリカ人俳優―イタリア系のあの二人―なんかがそれを実践しているという。

 「メソッド」の特徴は徹底して「役」になりきる、という事だ。

 例えば、あるイタリア系俳優は世界に馴染めないタクシードライバー役を演じるために、数週間実際にタクシードライバーをやったりして徹底して「役」を研究し、作り上げていったという。「役」になりきっていたから、あの有名な鏡に向かって

「俺に話しかけてんのか?」

とつぶやきながら自分の鏡像に向かって銃を向けるシーンが出来上がったのだ―アレは監督と俳優がアドリブで作り上げたシーンらしい―。


 私はうまく、普通の「女の子」「役」が出来ているんだろうか?


 「女の子」については研究し尽くした。何なら、私は「男の子」的視点を持っているので、「女の子」が「女の子」を見る以上に、厳しい視線を向けた。

 そうして、「女の子」の「役」になる為に必要な要素をかき集め、練り合わせ、こねあげ、焼き上げ、完成したのが「今」の私。

 しかし、だ。私は現実を生きるリアルな人間だ。

 俳優みたいに撮影が終わったら、ハイお終い。と区切りを入れることが出来ない。


 「メソッド」は多大な評価を得た俳優を生み出した一方で、役作りの為に自分を「解体」し過ぎたり、「役」になりきり過ぎたせいで、人生に暗い影を落としたり、自殺に至った例もなくはないという。私はその事実を知った時、震えた。だって―私もこの「世間」を渡る「役」の為に「メソッド」的アプローチをしていて、尚且なおかつそれに矛盾を感じてなくはないのだから。

 「女の子」を演じれば演じるほど、「私」の本来のあり方と乖離かいりしていく。


 チャイム。

 太宰の「変化」の話から「演技」の話に飛躍した私の思考が教室に着地する。



scene3-2-2 「私のアンビバレント・デイズと硝子がらすの乙女」

 

授業が終わった後も「役」について考える。「役」から乖離していく「自分」に思いをはせる。これ、何かに似てないか?と思い、少し考えてみると、そうだ!あのマッチョイズムを皮肉った作品みたいなんだ、と思う。

 ただ、あの映画は最終的にマッチョなオルターエゴという「役」を捨てた「僕」と、ヒロインが計画の最後―金融系大企業のビルの爆破―を見守るシーンで終わる。「僕」はマッチョな自己のオルタナティブを捨てる、銃殺する。


 私もいつか「可愛い女の子」に決別しなければならないのかな?

 でもなあ、別に私はあの映画の「僕」みたいに不眠症という訳じゃない。何なら、ぐっすり眠れている方だ。

 考えをまとめきれずに歩くと「西茅場」の駅に着く。ICカードをタッチして入場、終点の駅まで帰る。


 それからの日々は特に変化はなかった。あの変な先生の授業を受ける事もなく、ただ、流れていく日々に埋没まいぼつした。

 相変わらず、伊織は見つからないのだった。

 ああ。昔の私を知るアイツに会いたい。そう思う。今の私はうまく「女の子」演じれていますか?と問いかけたい。でも同時に会いたくもない、再会しなければいい、とも思う。


 先程、日々に特に変化はない、といったばかりだけど、ひとつ変わったことがある。予備校にいく日が増えたのだ。平日の放課後にも顔を出すようになっていた。授業がある日もあるし、授業がない日もある。ない日は決まって自習室で勉強したり、居眠りしたりする。予備校から出たら、「茅場かやば」を散歩したりする。


 あの日も、自習室にサボりに来てたんだっけ?英語の文法と格闘し、つくづく英文が憎たらしくなっていた私は10階から降り、コンビニでオヤツでも買うかなあ、何にしよう?なんて考えながら、エレベーターに乗り込む。下に降りるまで暇だったので、スマホを覗き込んでいた。クラスの下らないグループチャットを冷ややかに見送っていると、エレベータ―は地下二階につく。やっと着いたか、と目をあげると私の横を、彼―伊織いおり―が猛然と走り去っていったのだった。

 声をかけるより先に彼は居なくなっていた。安心する私と、不安になる私。

 彼を追いかけても良かったんだろうけど。足は自然とコンビニへ向かい、オヤツ―スティック状に固められたポテト―を買い、自習室に戻った。


 自習室でバレないように静かにオヤツをかじりながら、考える。この年頃の男の子がこのビルの上層部に居る理由。それは―つまり、伊織もココの生徒だって事だ。でも、彼は制服なんて着てなかったしなあ、と思う。私がこの「輝光塾きこうじゅく」で属してるのは、現役私文コースだ。大体100人ばかり同じコースのメンバーがいるのだけど、その中に伊織の姿はない。国立コースや現役私理コースや浪人コースにもいない…はずだ。大体、アイツをここら辺で見ていたら、すぐとっ捕まえていただろう。後の事は何も考えず。

 私はふと、ひとつの可能性に思い至る。この「輝光塾」の中でも、ひときわ異彩を放つコース。それは「高認こうにんコース」だ。そこには主に不登校の生徒や学校を中退した者、はたまた社会人まで、いろんな変わり者がいる。私たち現役生とは違うスケジュールで動いているので、意識しないと気が付かない。彼らは主に平日の朝~夕方に講義を受け、現役生がちらほら現れ始めるころには退散していく。夜間にはバイトを行っていたりするらしい。

 私はここでの知り合いをピックアップしてみる。私文しぶんには数えきれないくらい顔見知りがいる。私理しりにも数人知り合いがいる。国立は…縁がない。じゃ、浪人コースは?一人親しい先輩がいたな。声をかけてみよう。

 自習室をうろつくと、私の探していた先輩がいる。彼女は赤本あかほんを見ながらうなっている。私は静かに声をかける。

やまちゃんせんぱーい。今、時間あります?」

「ん?ああ、和香ちゃん。どうしたの?私は見てのとおり、クソ忌々いまいましい過去問を解いているのだけど?また、英語の長文にまっているの?」

「いやあ。それはいつもの事なんで忘れてください。ちょっとした長話になりそうなんで、下の喫茶店付き合ってくださいよ」


 山城やましろ先輩はこの「輝光塾」で唯一親しくなった先輩である。私はあの「事件」以来、少し年上の女性にアレルギーと言って良い位の抵抗感がある。でも、彼女は私にそれを感じさせない。なんというか、逆に私が先輩みたいに感じるくらい―普段の彼女は危なっかしい。

 私が何でこの人と親しくなったかというと、私が何時だか自習室で英語の問題を前に、うんうん唸っていると、それを見かねた先輩が優しく声をかけてくれたのだ。

「あら、お嬢さん、この問題が解けないの?そこは―」とおっとりした口調で解説してくれる。

「ありがとうございます。お陰で先生に聞きに行く手間省けちゃいました」

「どういたしまして。じゃ、またね」

 それ以来私は、英語で詰まると、先生に聞きに行く前に山ちゃん先輩を探し、聞きに行くのだった。そんな事が何回も続くと、私たちは友人のような関係になる。

「ねえ。和香ちゃん。英語でわかんない事がある度に私を探しているのは何で?先生の方が教えるのうまいわよ?」

「そう言われても…山ちゃん先輩の説明の方がスラスラ入ってくるんですもん」

「嬉しい事言ってくれるじゃない。じゃあ…連絡先交換しましょ?」

「いいんですか?忙しいのに」

「まあ、ここにも後輩がいるってのも悪くないかな、って思って」

「じゃあ。甘えさせてもらいます」


 私と山ちゃん先輩は茅場駅前第二ビルの地下2階の安い喫茶店に入る。ここは喫煙コーナーがキチンと分離されていないせいで、少し煙いのが難点だが、安く長く居座れる。

 テーブルに向かいあうと、抹茶ラテを幸せそうに飲む山ちゃん先輩。

「山ちゃん先輩、『輝光塾』長いですよね?」

「うん。現役の頃からいるからねえ。それがどうかした?」

「先輩、「高認コース」について詳しいですか?特に今居るメンバーについて」

「うーん。たまに授業被るけど、あの人たちって少し『特殊』だから、知っているとは言いがたいかな」

 私のおごりの―奢ってくれないならついていかない、と言われたので―抹茶ラテをクピクピのみ、チーズケーキを小さく切り取り、可愛らしい口に運びながらそう言う。そしてこう続ける。

「あのコースにいる人たちは大概たいがい、心に傷を負ったりしてる人が多いの。現役生や浪人生みたいに気軽に声かけ辛いのよ」

「山ちゃん先輩、有用な情報ないなら、今食べてるチーズケーキ取り上げますよ?」

「いや。会計はもう済んでるし。和香ちゃんが意地でも奪うっていうなら、一口で全部食べちゃうわよ?」

「その小さくて可愛い口にこのケーキが丸々収まるんですか?」

「私のほっぺはハムスターの頬袋ほおぶくろみたいなものなのよ?」

「たまにハムスタ―、頬袋にエサつめ過ぎてえらい事になったりしてません?」

「そうね。窒息はしなくても大変な事になったりしてるわね…。あ。そうだ」

「はい?どうしました?なんか思い出しました?」

「うん。私達のコースの現文の講師で、高認コースでも指導している人、知ってるわよ」

「へえ?何先生ですか?私も知ってる人?」

「あまり、現役生に教えないらしいから、知らないんじゃない?ただまあ、変人ね。あの人は」ケーキを食べるペースをにわかに上げた先輩がモグモグしながら言う。

「変な人?」

「そこここの大学とかでも講師をしてるらしくてね。後、よくオリジナルの小説問題とか作ってくるの」

「もしかして…その人、布袋ほていさんみたいな顔の優しそうな方言交じりの人ですか?」

「そうそう。何だ、知ってるじゃない。明石先生よ」

「あの人かあ…。あまり関わり合いになりたくないなあ」

「どうして?変人といえば変人だけど、遠くで見る分には害はないわよ?」

「害って。珍獣ちんじゅうを語るかのように人を語らないで下さいよ」

「いや。あの人珍獣でしょう?奇行きこうへきというか…独特の授業スタイルだし」

 ううむ。ますます関わり合いになりたくなくなってくる。

「彼は高認コースの生徒には比較的親しく接しているみたいね。まるで担任の先生みたいに」

「へえ…なんか今までの話聞いてると、あんまり慕われてなさそうですが…」

「いや、高認コースのみんなは彼を頼りにしているみたい。あまり長居しないのが難点みたいだけど。接してみれば意外と親切で、親身になってくれるわよ?たまに薄気味悪い時もあるけど」

「薄気味悪い?」

「ほら。彼のオリジナル問題。変なチョイスが多いから。ちょっとズレたセンスしてるわよね。まあ、私は嫌いじゃないけど」

「好きなんですか、あの人の授業?珍獣やら奇行やら言ってたくせに?」

「ほら。つまらない授業ばかりだと疲れてくるでしょ?たまにはああいうエンターテイメントがあると助かるのよ」

「なるほど」

「で?何で高認コースの事なんか気にしているの?あなたたち現役生には余り関わらないでしょ?それこそ模試で会場被かぶる位よね?」


 さて。どこまで事情説明したものか。あんまり長くて詰まらない話を聞かせるのも何ではある。


「昔の知り合いにそっくりなヤツを見かけたんです」

「男の子?」

「ええまあ」

「もしかして、その人の事好きだったの?」

「今ではよく分かんないです。昔、つまらない事でケンカして以来、口もきいてなくて。すっかり忘れてたんですけど、久々に話したいかなって」

「何か謝りたいの?」

「向こうにも謝るべき事はあるんですけど…私も私で彼に色々迷惑かけちゃってるんです。気づかない振りをしたっていいはずなんですけど、どうも気になっちゃって…」

「ふぅん…なんか色々事情はありそうね?深くは聞かないけど」

「人に歴史あり、ってやつですね」

「高認コースに居るって事は貴女の相手は…普通の青春を送れなかったのね。可哀想に」

「まあ。ヤツにも色々あったはずですから」

「ふぅん。まあそうね。そういう事から目をそむけてしまうのは簡単で安全な選択だけど、ロングスパンで見たときに、貴女あなたの為にはならない、きっと後悔するわね。よし。忙しいから大した事は出来ないけど、明石先生に聞いてみるわ。彼の名前、教えてもらっていいかしら?」

二宮にのみや伊織いおりって言います。二つの宮に伊藤の伊、織物の織という字を書いて、伊織。多分―短髪で眼鏡かけてます」

「そう。じゃ、また抹茶ラテとチーズケーキ奢ってね?」

「はい。お願いします」



scene3-2-3 「硝子がらすの乙女の告白」


 山ちゃん先輩に伊織の事を探ってもらうようになってから数日。私は落ち着かない日々を過ごす。遂に、一歩進んでしまったなという感じが離れない。もう、後戻りはできない。私も「何か」―現在、過去、そして未来、あるいは現実―と向き合わなきゃいけない。

 まるであの有名なフランス映画―おかっぱ頭のヒロインのアレ―みたいだなと思う。

 あの世界とうまく調和の取れない変わり者のヒロインが私で、伊織は証明写真マニアの男の子。世界とうまく調和の取れない変わり者のヒロインは、私とまったく違うタイプの人間だ。でも、彼女は間違いなく孤独で。私はそんな彼女にシンパシーを感じている。


 しかし、私があのヒロインで、伊織が証明写真マニアの男の子なら、山ちゃん先輩は何なのだろう?

 カフェの同僚たち?

 いや。どっちかというと何故か彼女は私に骨粗しょう症のせいで外出できず、部屋にこもって何十年もルノワールの絵を模写し続けるお爺さんの事を想起させるのだ。

 山ちゃん先輩は「お爺さん」みたいに何年も部屋に閉じこもっている訳ではない。でも、その柔らかな雰囲気は静かに他人を拒絶している。私以外の年下と仲良くしているのは見たことがないし、同年代とも表面上は仲がいいが突っ込んだ付き合いをしていない。私は静かに人をいなす彼女に聞いてみた事がある。


「なんで、山ちゃん先輩は人と突っ込んだ仲にならないんでしょうか?そして、なんでまた私とだけは付き合うというか親しく話してくれるんでしょうか?」

「私もね、あなたと一緒で女子高出身だから、随分つまらない、いざこざに巻き込まれてきたの…うんざりするくらい。そんな事が何回もあるとね、やっぱり他人に対して幻滅げんめつする。なんで、あなた達は詰まらないことでいちいち突っかかってくるの?って。どうして周りばかり気にして自分の問題は棚上げに出来るの?って。だから、私は目立たないよう生きる事にしたの。周りの人たちを見限みかぎったの。元々背が小さいでしょ?だから頭を低くしておけば、つまらない人たちの目に留まらずに済む。そして…貴女とだけ親しく付き合うのは…貴女が私に部分的に似ているからよ」

「似てますか?私は見た目こそ清楚せいそにしてますけど、中身は粗野な男みたいな女ですよ?」

「粗野…ね。実は私も内面はかなり粗野なのよ?」

 確かに山ちゃん先輩はおっとりした雰囲気の中に激しさを隠し持っている。男性的ではないけど、女性的な激しさがある。たまに口をつく激しい言葉、可愛い口からひねり出される鋭い皮肉はチクリと人を刺す。でも、口では他人に幻滅してるとは言いつつも、彼女は優しい。何やかんや面倒見がいいのだ。それは彼女の進路選択にも影響を与えている。彼女は女子高的学校世界に幻滅しているとは言いつつも、学校の先生になりたいらしい。


「いや、山ちゃん先輩、学校嫌いだったんでしょ?何でまた教員なんか目指すんですか?あんな仕事、割に合わないですよ?よっぽどお人よしじゃない限り務まらないくらいに」

「私みたいな子に逃げ道を与えたいのよ。私は独りで戦うしかなかった。だから、消極的な生存戦略せいぞんせんりゃく―貝みたいに黙り込む―しか取れなかった。それは人を間違いなく孤独にし、その毒はやがて人をむしばむ。そんな人間がこの世の中にあふれるのって、私、我慢できないの。だから、私は教員を目指す。たぶん、それはある種の自己満足なの。かつての私を救えなかった私に対する代償行為だいしょうこういなのね。この語の用法が正しいかどうかは知らないけど」

「代償行為?なんですか?それ?」

「元はフロイトなんかの周辺で使われた言葉だけど、まあ心理学の中でよく使われるわね。大雑把に言えば『何か』に対して具体的な手段を取れなかった場合の代替だいたい行為…代わりね。それで、自分をなぐさめるのよ。その行為自体に意味はないかもしれない、でも、それをやらずにはいられないの」

「はあ…」

「まあ…私はそんな訳で多少『狂った』女なのよ」

「山ちゃん先輩が『狂ってる』なら世界中『狂ってる』みたいなものでしょう?」

「そうね。間違いなく世界は『狂ってる』わ。でも、私たちは宇宙人でもないし、超常的な何かでもない。諦めて『世界』の中に入っていくしかないのよ。『何か』を対価として払ってね」

「そんなものですかねぇ…。なんか人生が急にドラマチックに感じてきましたね…」

「あら。どんな人生だって『ドラマ』よ?そして私たちの年頃はその「ドラマ」の見せ場にさしかかりつつあるの。起承転結で言えば、『転』かしら?」

「えらく人生が短いものに思えてきましたけど?」

「昔は20才といえば、立派な『大人』だったのよ?あたりまえじゃない」

「いやー高校生にそんなこと言われましても…。さっぱり現実感ないっす」

「現代においては通過儀礼つうかぎれいが省略されがちだからかしらね?」

「通過儀礼?」

「ほら…ファンタジーなんかで出てくる成人の儀式…なんていうと分かりやすいかしら?昔の社会の中にはね、それがあったの。キチンと『子ども』から『大人』になる線引きがね。例えば武士とかの『元服』とかね」

「まあ。現代だと明確に『子ども』から『大人』になる瞬間なんてあまり無いですよね。成人式はあるけど、アレはただのお祭りみたいなもので、騒ぐための、そして大っぴらに酒を飲む為の言い訳でしかないですよね。アレに参加したヤツが『さあ。俺も今日から大人だっ!責任果たすぞぅ!』ってはならないですよね」

「そうそう。大学全入ぜんにゅう時代に入って久しいから、大体出席している人たちは学生だしね」

「そうですね…本当の意味で彼ら『大人』になるのって、社会という『世界』に出る就職の時ですよねえ」

「そうね。『通過儀礼』を果たしていない彼らが裸のままで社会に放り出される。だけど、覚悟がないまま渡れるほど『世界』は甘くない。だから就職活動って悲惨ひさんなものなのよ」

「悲惨…」

「だって、そうでしょう?『子ども』から『大人』にハードランディングさせられるのよ?」

「まあ、言われてみればそうかも知れません」


 しかし、何気なにげない質問がえらい発展をしたものだ。私はただ、山ちゃん先輩の優しさに甘えたいだけだったのに。


 さて、「お爺さん」こと山ちゃん先輩は、私に世話を焼こうとしている。それは―代償行為なのだろうか?

 ヒロインと「お爺さん」の関係は間違いなく、代償行為によるものだ、と山ちゃん先輩との対話をて思う。



 ある日、「お爺さん」はヒロインにビデオレターを残す。その中で彼はこういう、

『お前の骨はガラスではない、人生に向かっても割れない。だから、あの青年を捕まえろ。この機を逃したら、お前の心はワシの骨のようにガラスのようになってしまうだろう…』

 その言葉で決意した内気なヒロインは、男の子側のアプローチもあって出会い、幸せになる。それを幸せそうに「お爺さん」は見守る…。でも。それが「代償行為」だからって何なのだ?「お爺さん」の優しさに変わりはない。そう。山ちゃん先輩だって優しいのだ。甘えよう。そして彼女の「代償行為」に報いよう。それで少しはあの人が救われるかも知れない。


 数日が過ぎた。

 私は今日も今日とて自習室で時間を潰す。勉強には身が入らない。

 山ちゃん先輩は最近、自習室に姿を見せない。どうしたんだろう?不安になりながらも、彼女を急かす事はしない。「代償行為」に報いよう、と決意はしたけど、やはり不安はあるのだ。などと考えてる私の頬の横にサラサラとした栗毛の髪がかかる。はたして彼女はいる。

「ゴメン。待たせちゃったかしら?」

「いえ。とんでもない」

「じゃ、喫茶店に行こうかしらね」私たちは連れ立って喫茶店に行く。

「それで?どうでした?首尾の方は?」

「安心なさい。ちゃーんと尻尾は捕まえたわよ?これ、貴女あなたにとっては朗報かしら?」

「もちろん。なんで疑うんですか?」

「だって、貴女嬉しそうな顔半分、心配そうな顔半分よ?」

「彼と再会するのが、少しだけ怖いんです」

「何故?」

「彼は私のトラウマに密接にかかわっていて、その時の共闘相手パートナーだったんです。ただまあ、彼は早々に戦線離脱しちゃいましたけど」

「そうだったのね…トラウマの事はさておき…貴女は彼を許せないの?」

「どうでしょう?彼には直接の責任は全くないんです。ただ、私が巻き込んでしまったが故に大きな傷を負わせてしまった…。私は当時、邪悪な人に目をつけられてしまったんです。そいつのせいで、私も彼も傷ついた。彼には守って欲しかったけど…」

「あなた達は相当タフなモノと相対していたの?」

「タフ、というかただただ邪悪な『何か』ですかね…」

「そう。辛かったわね。でも貴女は変わったのね?」

「そうですね…。物理的な力を借りて、変わりました。元からある人格の上に新しい人格―『役』―を被せる事で表面上は変わりました。でも、最近怖いんです。見て見ぬふりして、ふたをした『何か』が私を蝕むのを感じる。でも、私は新しい『役』をこしらえて元の自分に被せた時に『何か』を失ってしまった…」

「『何か』って何かしらね?『子ども』の自分?」

「いや、私は今でも間違いなく『子ども』です。『大人』ではない。でも、『大人』になる前に見て見ぬふりして蓋を閉めてしまった『何か』を解き明かさなくてはならない。」

「それは間違いなく痛みを伴うわよ?」

「良いんです。私はその『何か』、多分私の中にあるものを切り開いて、その血を浴びなくてはならない。それが私の通過儀礼です」

「そう。覚悟はあるのね?」

「ええ」

「彼が例え、それを望まなくても?」

「それは…ちょっと怖いかもしれません」

「やはり、彼を許し、許されたいのね?」

「多分」

「人はそれに『恋』という名前を与えたりするものだけど―どうかしら?」

「ロマンチックすぎます。私のはただの興味ですよ?自分に対する」

「人はね…一人では生きられないものなのよ。他人との関係の中で『世界』の中の『自分』を規定する…分かりやすく言うなら…他者は鏡なのよ」

「鏡?」

「そう。鏡。他者に対して感じる感情はそのまま、自己評価にもつながっている。他者を軽蔑する人間は自らをも軽蔑する。例えば私みたいね」

「え?」

「私は私自身が大嫌い。だから代償だいしょう行為を求め、みにくはいいつくばってるの。他者を愛せば簡単に私自身から開いた『世界』を愛せる、それは分かってる。でも素直じゃない私はそれが出来ないの。天邪鬼あまのじゃくだから」

「そんな…悲しい事言わないで下さいよ…」

「悲しい事なんかじゃないわ。むしろ―喜劇コメディよ。笑ってちょうだい?」

「私には、そのギャグは分からない…。」

「いいの。代償行為なんだから。私は貴女を助けない。私は貴女に手を貸すことで『世界』と折りあいをつける…でも、それを恩に思う事なんて必要ないわ。貴女は…貴女を掴みなさい。私はささやかながら応援させてもらうわ。」

 やはり彼女は「お爺さん」だったのだ。

「さて。年上のお姉さんのつまらない説教はお終い。具体的な話を始めましょう?」

 彼女は優しく微笑みながらそう言う―



scene3-2-4 「硝子の乙女は去っていく」


「彼はね、あのクラスにいるわよ。高認コース」

「そうですか」

「授業は主に『10‐A』教室で受けているみたい。自習室は苦手なんですって、だからあまり夜には見かけないのよ」

「じゃあ、私はどうすれば彼に会えるんでしょうか?」

「簡単よ。一日学校をサボって、何食わぬ顔で休み時間の『10‐A』教室に入りなさい、まるで友達でもいるみたいに」

「ええ…特攻カチコミですか?」

「それくらいは必要経費よ?」仕方ないか…周りからは不審の目を向けられるだろうが、仕方ないのだ。

「一応、明石先生に話を通しておくわ。彼にお客さんがいるって」

「いや、何か事前に情報がいくのは避けたいっていうか、私と悟られたくないというか…」

「…?貴女の顔形かおかたちって彼と知り合いだった頃から随分変わったのかしら?」

「ええ。これでも元『ソフト部』で当時はアマゾネスみたいなムキムキ女でした」

「へえ…妙に凛々しい目をしてるなー、カッコイイな―って思っていたけど、そうだったのね。でもね。彼に貴女が素性を隠して、接触するのは…卑怯よ?それじゃ、私が手を回した意味ないじゃない?」

「いやあ。分かっちゃいるんですけど…」

「覚悟あるって言ったじゃない、女ならそこは歯を食いしばって耐えなさい、私が言えた義理じゃないけど」

「善処します…」 


 この会話以来、山ちゃん先輩と関わる機会は激減し―いずれ彼女は姿を消した。連絡も取れなくなった。無事志望校に入ったのは進路実績欄で確認したんだけど―大学に行ってからの足取りはつかめなかった。私は彼女の自己破壊的な、皮肉な、あり方を知っていたからたまらなく心配になり、一時期は新聞のお悔やみ欄や、地方の新聞社のニュースサイト、通信社のネット記事を見るくせがあったのだけど―彼女らしき「死」を私は見ていない。

 私は「神」を信じる口ではないが、超常的な何かに祈る。

 願わくば、彼女が「世界」と折り合いをつけ、平和に暮らしていますように。



scene3-2-5 「やっと、見つけた」


 彼女との会話の数日後。私は言いつけ通り学校をサボり―祖父母には黙って―、制服のまま「輝光塾きこうじゅく」に何気ない顔で入り、「10‐A」教室に入る。広い会議室のようなそこには、いろんな年恰好の男女がいる。教卓には明石先生。その中から懐かしい背中を見つけ、声をかける。


「あの。二宮伊織君ですか?」

「はい?あなた…」という彼は驚いた顔をしている。まあ。彼の直近の私の記憶といえば、「トンテキ よつば」で肉をむさぼる眼鏡姿の私だが。

「何処かであった事あります?なんか引っかかっているんだけど…」

「『トンテキ よつば』で一年前にすれ違ったかしら」

「ああ―」と彼は顔を赤くする。何だ?この反応?昔は私にそんな顔見せてくれなかったじゃん…でも、少し嬉しい。彼は間違いなく「私」を「女」として認識している。でも―私がいま必要としているのは、「女」として私を見る彼じゃない。「共犯者」で「悪友」だった伊織だ。私はその思いを握りしめ、でも、周りの目を気にして、

「そう。あの女の子です。ふとした拍子にこのビルで見かけたものだから、今日、サボりついでに顔を見に来ました」という。そして。

「お話がしたいんです。今日の授業の後、少し時間もらえないかな?」と続ける。伊織は一分くらい黙ってから、

「良いですよ」と返事をした。

「じゃあ、今日の16時に二ビルの喫茶店で待ちあわましょう。一応連絡先教えときますね…」

 彼のメッセージアカウントは中学生の時とは違う電話番号で生成されている。

 そして―

 16時。私は喫茶店で待っている。心臓は早鐘を打つ。手はびっしょり。なんで伊織に会う位で緊張せにゃならんのだ、と思う。何度も何度も、メッセージアプリの彼のアカウントを見る。一言、「今授業が終わったので、寄り道してからそちらに向かいます」という簡潔なメッセージが残っている。

 寄り道って何してるんだろう?気にはなるけど―まあ。来たら、彼に聞けばいい。

 それから10分くらいたっただろうか、永遠とも思えたんだけど、10分か。時間感覚が狂い始めている。そして―

「お待たせして済みません」顔を紅潮させた彼が―いた。

「遅いじゃないですかー。待ちぼうけてましたよ、私」

「…すまんな、和香わか

「…伊織いおり?気づいてたの?」

「アホ、お前アカウントの見た目や名前変えても、電話番号変えてないだろ、丸わかりだっつーの」

「じゃ、何で教室ではあんな調子だったのよ?」

「周りの目を気にしてかな」

「そ」

「そうだよ。しっかし―何でお前がここに居るんだよ?」

「アンタこそ」

「俺はあの後、地元の高校に進学したんだが―辞めてな。そん時にオヤジの転勤が重なって便乗してこっちに来た。こっちに来てからは高校にも入らず遊び暮らしてたんだが―色々あって『輝光塾』に入って、最近高認に合格してさ。大学受験の為、勉強してる。お前は?」

「私はあの後、父の実家を頼ってこっちに来たわ。ただ、アンタと違ってちゃんと高校生してるけど」

「ほーん?で?ソフトは―辞めたよな、当然」

「そりゃそうよ」

「残念だったな。しっかし、見た目変わり過ぎだろ、お前。最初はマジで分からんかった。しかも、おっぱいもデカくなってんじゃん。Aカップだったろ?昔」

「アンタのそういうデリカシー無いとこは変わってないなあ」

「で?今は何カップなん?」

「教えるかアホたれ」

「ちっ。ついでに今の俺は原理的貧乳教徒ではないぞ?」

「へえぇぇ。なんかあったのかしらね?」

「ま。お前が変わったように俺も変わったんだ。髪だって短くしたし、目が悪くなったもんで眼鏡かけてる」

「そうね。少し男らしくなったかな。中々カッコいいじゃない?彼女はいるの?」

「いる訳ねーだろ?最近まで引きこもってたんだぜ?女に対する免疫0だっつーの。お前は?モテるだろ?その感じじゃ?」

「女子高に居るから男っ気ないけど―まあ、この予備校内では少しは人気あるつもりよ?」

「へーあのお前がねえ…お淑やかになったもんだ」

「ま。生きるための戦略として、女っぽくなっただけよ?」

「中身はそのまま、って言いたいのか?」

「うーん。そのつもりだけど、最近は混乱しててね…そこで過去を知るアンタに登場願った訳」

「ほーう?飛び切り面倒な事に付き合わせるつもりか?」

「いや、私の人格形成のための礎石そせきになりなさい、ってだけよ?」

「そうか…。じゃあ、あの時の――触れていいのか?この事?」

「ええ。その為に呼んだって側面もあるから。答え合わせを始めましょう」

「俺もあんま、思い出したくない―なんたって針のムシロだったからな。お陰で最近まで、ひどい過敏性腸炎かびんせいちょうえんが止まらんってヤツ―だったしな」

「今、ここでオナラしたら、ひっぱたくわよ?」

「やめろ、お前のビンタはシャレにならん。脳震盪のうしんとう起こす」

「懐かしいわね」

「ああ…。女にまた、この台詞を言うなんて思ってもみなかった……」

 私たち二人は微笑み合う。そして―

「あの頃の俺は…あの糞垂れ部長の奴隷のムキムキマッチョ男どもに追いかけ回されて、心身が疲労困憊しててな」

「よく生きてたわね?」

「ま、何とか酷い目にあわされずに済んだ。お前は―」

「そ。なぶられた」

「うむ。なんか…あの時はお前を守りきれんで、ホント、済まんかった。頭を下げて許してもらえるとは思わんが…せめて謝らせてくれ、あの時は自分可愛さに逃げちまったけどさ」

「ホント。私、嬲られた事も、もちろんショックだったけど、アンタが居なくなったことの方が後からじわじわこたえたわ。アンタの事巻き込んじゃったからさ」

「責任感じているのか?」

「うん。あの頃の私は、力さえあれば、大抵のヤツは黙らせられる、って素朴に信じてたから」

「お前だけが悪いわけじゃない。俺も迂闊うかつだったし、何より、あの邪悪な存在に目をつけられたのが、ただただ、運が悪かったんだ」

「それでも、ゴメン。許してほしい訳じゃない―いや、許してくれるなら嬉しいけど、とりあえずゴメン」

「良いんだよ。俺達は少し、物を知らな過ぎただけだ。おあいこ、っていう訳じゃないが、忘れよう、嫌な事は」

「でも、私はそこに『何か』を置いてきてしまっていて。今になってそれが気になりだしたの」

「何か?」

「具体的にこうだって、示せるものじゃない『何か』ね」

「そいつをほじくりだすつもりか?一応―お前のトラウマだろ?辛い事なんじゃないのか?思い出すの?」

「そりゃ、辛くない、って言うのは間違いなく嘘になるわね」

「でも―お前はその『何か』を切り開き、その血を浴びたい、と?」

「そ。あなた、何でその表現知ってるのよ?」

「別に俺の発明でも、他の誰かの発明でもない、夏目漱石の「こゝろ」の一節だ。漱石は分かるな?」

「舐めんじゃないわよ、一応受験生よ、私?」

「ま。そうだな。でも、読んだことあるのか?」

「いや、高校の教科書で見たくらいね。あなたは何で知ってるの?昔はゲーム好きのオタクだったじゃない?」

「ま。ある人の影響かな。それにオタク文化と小説なんかは意外と親和性高いぞ?」

「そうなの?漫画じゃダメなの?」

「漫画も当然好きっていうか、別にオタク趣味捨てた訳じゃないぞ?」

「モテないわよ?」

「良いんだよ。世の中には女にモてる以上に重要な事は山ほどある」

「随分余裕あるじゃない?普通、この年頃の男の子は●ックスの事で頭一杯よ?」

「お前…公共の場で●ックスとかいうんじゃありません!お前もやっぱ心根こころねの部分は変わっちゃないな?」

「ま。誤魔化ごまかしきれないモノもあるわよね」

「まあさ、モテるモテないってのは気にしてない、と言えば嘘になるかもな」

「ま。男の子だもんね」

「ウム…。ま、最近さ、ちょっとした事件はあったけどな」

「事件?」

「ちょっとばっかしな…色々あった。ただ、それにともなってちょっとごちゃごちゃしそうではある」

「どういう事?」

「お前―今から俺が話す事―信じられるか?」

「話の質によるわね」

「飛び切り奇妙な話だ。先日聞かされたばかりだが、まだうまく飲み込めてない。何かの冗談かとさえ思う」

「それを私に信じろ、と?伊織―アンタ、大概無茶言ってる事気づいてる?」

「一応な」

「ふぅん?まあ。アンタには貸しがあるしね…。付き合うわよ?ただ―私の方にも付き合いなさいよね?」

「交渉成立―かな?」

「良いわよ。それで」

「さて―何から話したもんかな…」


scene3-3-1 「貴方あなたの目に映る人は誰ですか?」


 伊織の長い長い話が始まった。

 彼がどうやって「輝光塾」の生徒になったか?―ある女性に導かれて。ある女性の呑み友達に誘われ。

 彼が「彼女―久須くすさん―」と、どんな日々を過ごしたか。

 そして―久須さんの奇妙な人生の物語。彼は彼女に最近打ち明けられたのだ、という。

 そして―「狂ったタイムループ」、彼女が明石先生に殺されること―

「で?アンタは彼女を助けたいわけね?」

「うん。暗いところから引き揚げてくれた彼女を助けたい。彼女は確定した未来は変わることなどない、って言ってたけど、俺は諦めきれない」

「恩返しって訳ね?」

「そうなるかな」

 はあ。こいつは。中々のお人よしになってしまったらしい。昔は結構皮肉屋だったんだけどなあ。これも彼女の影響かしら?

「分かったわ。付き合うわよ。乗りかかった船とはこの事ね」

「済まん。力を貸してくれ。たぶん、俺一人じゃ、さばききれん」

「貸し、ね」

「おう。お前の方にも付き合うから」

「頼んだわよ?」

「おう、和香。任せろ―っていっても頼りないかも知れんが」

「アンタが頼りないのは昔からよ。諦めなさい」

「酷い女だ」

「今に始まった事じゃないわ。女はドライなモノなの。さて―どうしようかしらね?私としては合同会議を開いた方がいいんじゃないか?って思うんだけど」

「合同会議?」

「ようするに。久須さんに私を紹介しろって言ってんの」


scene3-3-2 「カッサンドラの告白」


 かくして、私は「雀久堂ジャンクどう」に足を踏み入れる。


「いらっしゃい…。ん?少年?そちらの可愛い女の子は誰だい?」

「私は―こいつの幼馴染の雨宮和香あめみやわかって言います」

「あらあら…お姉さんはそんな話、微塵みじんも聞いちゃなかったけど?」

「まあ、たったさっき、奇跡的に再会して、和解したばかりですから」と伊織は気恥ずかしそうに答える。

 この古書店のあるじは黒のくせ毛のロングヘアに、白いブラウス、黒のパンツに緑色のエプロンをした中々綺麗な人だ。伊織がデれ気味なのも分からんでもない。女の私から見ても美人だ。ただ―伊織の話を聞いていたせいかも知れないが―、彼女の周りには諦念が渦巻いている。

「で、伊織君、彼女を私に紹介してどうするつもりだい?もしかして、あの話しちゃったのかい?」

「ええ、頭から最後まで。タイムループも話させてもらいましたよ」

「あちゃあ。で、そちらの彼女さんは信じているの?」

「まあ、完全にとは言い難いですけど」

「ふーん?さて…今日も中々の長話になりそうだ」

「ええ。じっくりやりましょうよ。貴女あなたを助ける術を考えなきゃならない」

「んじゃあさ。私に煙草、君らにはコーヒー買ってきてよ、おごっちゃるから」

「未成年に煙草買わせるつもりですか?」

「私の時代にはままあったことさ。大丈夫。ここのタバコ屋さんなら私の事知ってるよ、お使いです、って言ったら売ってくれる。銘柄は…」

 伊織は間髪入れずに、

「メンソールドラムでしょう?」と答える。

「そそ。察しのいい子は好きだよ。三箱お願い、お金はハイどうぞ、二千円。急いでないから、ゆっくり行っておいで」

「ラジャー!!」と敬礼しながら伊織は答える。

 走り去る伊織を見送ると、久須さんと二人っきりになる。多少気まずい。私は年上の女性は苦手なんだけど。そんな事を考えていると、久須さんは煙草に火を着け、ゆっくり吸い出す。

「アレ?煙草あるじゃないですか。」

「いや、長話を考えると―足りないって感じかな。あと…」

「…彼には聞かせたくない話をしたいと?」

「ピンポーン。正解」

 彼女はウインクしながら答える。そしてこう続ける。

「さて…雨宮ちゃん。なんか呼びにくいなあ。下の名前で呼んじゃっていい?」

「良いですよ。」

「じゃあ、和香ちゃん、君は―都合の悪い未来を知ってしまってもいいのかな?」

「はい?」何を言い出すんだ?あなたは?だんだん目の前のお姉さんが不気味に思えてくる。

「怖がられると―お姉さんとしてもショックだけど?」

「ごめんなさい」

「良いよ。なんたって私はカッサンドラだ。不気味がられるのには慣れている」

「済みません。ただ……」私は唾を飲み込みながら続ける。

「……アイツが貴女を助けたい、って思いは尊重したいです」

「うん。随分困難な話なんだけどね?大体、彼には口を酸っぱくして言い含めたんだけど―諦めちゃくれんのよねぇ……」

「ヘタレのくせに人がいいですから」

「そうだね。少年―二宮伊織君はいい子だよ、まったく。こんなお姉さんを助けようと努力し続け、挙句あげくの果てに死ぬんだからさ」

 は?体がにわかに嘘寒くなる。私―

「そんな話は聞いてない、でしょ?」

「ええ。伊織に嘘ついたんですか?」

「うん。真実は口に苦し―毒薬なんだよ。人のいい彼に真実を告げるほどお姉さんも鬼畜じゃないつもりさ」

「じゃあ。なんで。私にはそんな毒を―」

「このくるくる回るクソみたいなレコードを止められる可能性が万に一つあるとしたら、君なんだよ。この事態に巻き込むのは初めてだしね」

「え?」

「今まではね?伊織君にこの都合の悪い事実を最後まで伝えたりして、いろんな事をやってきたんだ。生憎あいにく、彼はその記憶を保持してないけどさ」

「それで―結果は…ああ。失敗してきたんですね。そして、貴女は伊織を巻き込む事に罪悪感を感じ―事実を半分だけ告げるようになった。でも、遠ざけられない……こんな感じですか?」

「うん。やっぱ女の子は鋭いね。正解だ。ごめんよ、ずるい大人で」

「まあ。あんなお人よしですから、なんか情が湧くのも分からないではないですよ」

「和香ちゃん。今回はさ」

「ええ」

「この糞ったれな劇の展開を早めようと思う」

「具体的には?」

「まず―私が今月末にココを畳んで、姿を消す。伊織君に告げずにね。それから―どうしようかな……」

 彼女は手帳をエプロンから取り出し、何か―英文と数字の連なり―を見ながら、続ける。

「そして、3年後の結婚式に君らを呼ぼうかな。その後まもなく、私は将来の旦那である明石さんに殺される―この3年の間にどうにかしてくれ、私の事を忘れさせるも良し、何らかのアクションを取るでも良し」

「それで―あなたは満足なんですか?」

「うん。もう変えられない自分の未来には諦めがついてるから。私が心配なのはどっちかって言うと伊織君だ。私に関わってしまったが故に酷い目に逢う、でも、狡い私は彼が手放せない。だから、和香ちゃん、君に託す、君に賭ける―」

 ここでタバコとコーヒーを買って来た伊織が帰ってくる。

「サー!二宮上等兵しょうとうへい!ただ今戻りました!」呑気のんきなものである。



scene3-3-3 「カッサンドラの覚悟」


 帰って来た二宮上等兵こと伊織を交え、真面目な話になるかと思いきや―

 私たちは気づくと猥談わいだんをしていた。

 こういう時の久須さんは、恐ろしく話をらすのがうまい。真面目な話をしようとする伊織を尻目に―私と久須さんは伊織を挟んでガールズトーク。男子にはキツイであろう話題を選び、話す。話した内容については云々うんぬんしない。ただ、まあ、伊織は赤くなっていた。

 なぜ、私が久須さんの策に乗ったかは言うまでもない。異常すぎる話を聞いて私は動揺していたけど、久須さんのリードの元、伊織を煙に巻いた。

 別れ際―久須さんは私に声をかける。

「明日、二人で話そうよ」

「分かりました」

 おい、何の話しているんだ?という伊織を、またもや煙に巻き、解散した。


 さて。私は一体どうすればいいんだろう?

 伊織と茅場かやば駅で別れた後、一人悶々もんもんとする。伊織の死。私はそれを食い止めたい。もう、自分のちっぽけな問題など、どうでもいい。これからは伊織をどうにかせねば―と焦る私がいた。

 部屋で悶々としていると、伊織からメッセージ。

「久須さん、俺がいない間、お前と何の話をしてたんだ?」こいつ。ある部分では恐ろしく鈍感な癖に、こういうクリティカルな部分では変な鋭さを発揮する。ここは久須さんに倣って伊織を煙に巻くことにする。

「別に?そんなに気になるの?」

「いや…そういう訳じゃないんだが」

「下着の話よ?あの人おっぱい大きいでしょ?可愛いの見つけるの大変じゃないですか?って話をしてたのよ。そこに二宮上等兵がのこのこ現れた訳」

「ふーん…まあいいや。また後日改めて久須さんのところに行こう。じゃあな」

 ふぅ…。これで良し。


 次の日。

 私は学校を昼で早退した―生理が重くて―、嘘を並べて。

 昼食時の茅場第三ビルは、急いで昼食を詰め込むサラリーマンたちであふれている。それをかき分け私は「雀久堂ジャンクどう」に入る。久須さんは定位置であろうレジカウンターで私を待っている。

「や。不良少女」

「こんにちは。さ。始めましょうか?」

「さて…和香ちゃん、この3年をどう過ごす?」

「申し訳ないけど―貴女(あなた)を忘れさせる方向でいこうかと」

「そっか。少し寂しいけど―仕方ないか。まあ、展開を早める事を考えたのは私だしね」

 久須さんは目元に悲しみをたたえながらそう言った。そして―

「最後に、年上のお姉さんからアドバイス、贈ってもいいかな?」

頂戴ちょうだいします」

「―自分に変えられない事は受け入れよ、変えられる事は変える勇気を持て、そして、その二つを見分ける知恵を持て。この話の味噌ミソはね、後半部分にあると思うよ。変えられる物事を変える勇気、それを見極める知恵ってとこにね。私は長い事、変えられない事を受け入れる事に拘泥こうでいしてきた。挙句の果てが他人任せのこの状況。まったく。喜劇コメディでしかないよね。さ、若人わこうどよ、広い世界に飛び立て!!」

「それじゃあ、久須さん、また三年後」

「うん。またね和香ちゃん、伊織君を任せたよ」



scene4 「私の小さな賭け」


 さて。あの対話から後、何が起こったか?

 言うまでもない。久須さんは「雀久堂ジャンクどう」の閉店と共に姿を消した。当然伊織は困惑する。泣きべそをかく彼を私はなだめた。そんな彼に何回も付き合っている内に、自然と恋仲になった。二人で日々を―残り少ない日々を過ごした。どう過ごしたかは不思議と記憶に残ってない。

 タイムリミットまで、二年を切った春。私と伊織は大学生になった。古都K市にある私立大学。私の方は女子大で、伊織の方は共学。位置関係的には伊織が北の方で、私はあの舞台から飛び降りるで有名なお寺の近くだ。


 大学生活については詳しく語る程の事件は無かった。

 伊織は悲しみに暮れていたころと比べると、少し影があるが、普通の男の子になっていた。悲しみというものは、あるポイント―山頂―を超えると、緩やかに下っていき、消えていくものらしい。


 デートがてら、適当なバーに入ってお互いの大学生活について話す。私はファジーネーブルをちびちび。伊織は暑いからとジン・トニックをあおっていた。トニックウォーターの苦みを感じているであろう彼はふとした瞬間にポロリとこう溢した。

「なあ、和香。今年の秋には―あの人居なくなるんだよな?」

 随分と久々に久須さんの話をしている。彼の口からその名前が出なくなって二年近く経とうか、という頃の事だ。彼は少し酔い過ぎているらしい。とりあえず、感情を刺激しないように、努めて静かに返事を返す。

「そうね」

「俺さ、こういう苦い酒を飲むと―どうしてもあの人の顔が浮かんじまうんだ。あの人はビール党だったんだけど、インディアン・ペールエールが特に好きだったらしくてさ」

「うん」

「俺、酒飲めるようになってから、あの人みたいにバーのタップじゃなくて、缶のやつだけど、飲んでみたんだよ」

「どうだった?」

「苦くてな。飲めたもんじゃなかった。俺のビールの好みはライトなヤツらしい」

「ふぅん…それで?」

「いや。ただそれだけさ」彼は悲しそうな顔でそう言う。私はファジーネーブルを飲み干すと、好みではないけど彼と同じ、ジン・トニックを頼む。

「ま。付き合うわよ」

「すまんな」

「良いのよ」

私の目の前にジン・トニックが出てくる。それを口に運ぶ。口の中にジュニパーベリーの香りがいっぱいになり、そこにトニックウォーターのキニーネの苦みが混じる。でも、不思議と美味しい。口の中が爽やかになるのだ。

「人生もジン・トニックみたいに苦いけど、爽やかなものであって欲しいものね」私は伊織にいうでもなく、呟く。

「そうで…あって欲しいもんさ」彼も私に返事をするでもなく呟く。

 私と伊織はバーを出、大きな川の近くの私鉄の駅から、茅場に帰り、お互いの家に帰った。帰りはお互い言葉少なだった。彼が何を考えているのかは明白で。でも、それを止める事は出来ない。今まで努めて忘れようとしていたんだ。今日くらいは好きにさせてやろう。

 家に帰りつき、部屋の片隅で膝を抱えて考える。近々、久須さんからの招待状が来るはずだ。何故かあの短期間のうちに我々の住所は把握されているらしく―彼女の事を考えれば何処かで何時かで機会があったのだろう―、それは間違いなく届く。

 それが伊織というもろくなってしまった存在に止めを刺す。

 間違いなくそれは起こる―と私はこれまでの伊織を側で見てきたから思う。

 では―それをどう止めれば良いのか?私にはいい考えが浮かばない。彼にとっての久須さんの存在は居なくなってから、より濃く影を落としだした。人は存在する時よりも存在しなくなってから、影響力を強めるのだ。それを私は知っている。知っているから伊織を止められない。止められない自分を情けなく思う。

私はふと、三年前、彼女に最後にあった時、贈られたアドバイスを思い出す。

「―自分に変えられない事は受け入れよ、変えられる事は変える勇気を持て、そして、その二つを見分ける知恵を持て」

 久須さんは、前半部分よりも後半部分が大事だって言ってたっけ。

 変えられることを変える勇気…。その違いを見分ける知恵…私が変える事が出来る物事って何だろう?伊織の死?いや、多分、それは無理だ。この二年で、じわじわと伊織の存在は削れてきたのだ。それを埋める素材は、もう失われている。私が代わりになる素材を提供することは出来ない。私は―つくづく彼女、久須さんが憎たらしくなる。彼女が彼という存在を冥府めいふに引きずり込んでいるように感じるのだ。直接はそうでないと分かっていても。まるで日本神話のイザナミみたいだ。ただまあ、それに対応するイザナギはイザナミの「呪い」を跳ね返す気概を持っていたけど。伊織にはその気概は無い。というか、超常的存在じゃない彼にそれを期待するのは酷というものだ。

 じゃあ。私はどうする?変える事ができる事を変える勇気。黄泉よみに至る彼を引き上げる方法。多分、それは強烈なショックを伴うものでなくてはいけないのだろう。

 「死」に対応する対価…それは―おそらく同じ物。等価交換をするのだ。彼の命と私の命。久須さんの分は…申し訳ないけど、私はそこまで気の利く女じゃない。


 それから、「予感」の通り、例の招待状が届く。久須さんの苗字は明石に代わっている。式の記憶は伊織の何とも言えぬ悲しい顔と、久須―じゃない、ややこしいから那美さんのはじけるような笑顔だけが残っている。


 さて。私は「勇気」をもって「行動」しなくてはならない。

 行動の実行場所は近いから―地下鉄の駅でいいかな?このO市の地下に張り巡らされた路線。伊織が使っている「紅花こうか線」はこの街の動脈に例えれ、臙脂コチニール・レッドのラインカラーを与えられたという。それに沿うように並行して走っているのが私の使う「花田はなだ線」。この路線のラインカラーは「はなだ色」。海沿いを走るこの路線だから青い「縹色」が与えられたともいうし、動脈に対する静脈もイメージも多分に含まれているだろう。私はその事実をぼんやりとした頭で考えながら―、彼が私よりも早く行動を起こしてないか―そんな思いを抱えながら―走りくる電車に向かい、体の重心を落としていく。不思議と怖くない。冷静な視点で見れば生命の危機なわけだけど、私は、こうすることでしか、時の大きな流れに石を投げ込めない。中学生の時はアイツが先に白旗をあげたけど、今度は私が先にギブアップする番―などと考えている私の意識は、大きな音と衝撃と光に切り裂かれていくのであった。


scene5 「私を運ぶこの電車は何処へ至るか?」


 さてそれから?

 私はどうなってしまったのだろう?

 気が付くと、ガタゴトと揺れる電車の中に、私は居る。見慣れた景色。何処かに行くときはいつも乗っていたから。ただ、この電車には誰も乗っていない。私だけがロングシートに投げ出されている。私はさっき、飛び込んだはずなんだけど。体を起こし、特に痛くもないけど、一応、頭をさすってみる。何ともない。じゃあ―これは一体、何なんだろう?気が付くと、車両と車両の連結部のドアが、開く。そこには―男が立っている。

貴方あなたは―誰ですか?」

 クールな顔だち。細い目に細い鼻。フレームレス眼鏡。恰好かっこうは…駅員みたいだ。私―直接じゃないけどこの『男』を知っている。あやふやな意識の中でそう思う。

「やあやあ…お嬢さん?お酒でも飲みすぎました?随分気持ちよく寝てましたけど?」

「いや―私は…寝てた訳じゃなくて…」

「良いですよ?無理に思い出さないでも」いや。大事な何かがある。忘れてはいけない何かがある。私はもやもやする思考を集中させようと必死になる。『駅員』は私の対面のシートによっこらしょ、と腰を下ろす。

「お客様。乗車券を拝見しても?」

「ええ―。ちょっと待っててください」

私はポケットを弄るけど、それはない。あれ?何時ものIC乗車券は?

「もしかして、所謂いわゆる薩摩守さつまのかみってやつですか?」

「はい?」

薩摩守忠度さつまのかみただのり―即ちタダ乗り。」

「いや―そうじゃなくて、いつものICカードが無くて」

「当路線はICの類は使えませんよ?」

「へ?ここ、『花田線』じゃ―」

「無いです」即答。じゃあ、どこだというのだ?ここは。

「私にもよく分からないんです」彼は何げなくそういう。はい?あなた―交通局の職員では?

「いいえ?」

「いや…人の思考を先読みしないでください」

「癖みたいなもので。さて、お嬢さんもここに迷い込んだ口ですか?」も?何を言っているんだろう?

「いや。コレ、私の『台詞』ですから、大した意味はないんです。事実はどうか分からないけど、今回はこういう『セット』でこういう『台詞』なんです」

 はあ。そんなものですか。なんか慣れてきたな、この奇妙な男の話を聞くのも。

「駅員さん―この電車は『何処』へ向かっているんですか?」

「うぅん…終点?」疑問形で返事をしないでほしい。すっとぼけるのも大概にして欲しい。にわかにふつふつと怒りがこみ上げる。

「お待ちください。お客様。落ち着いて。さ、深呼吸。すぅーは―。ハイどうぞ」馬鹿正直にそれを繰り返す。コイツの口車に乗るのもしゃくだけど、まあ、落ち着いた方がいい、というのは事実だ。オーケー。認めましょう。すぅーはー。

「さ。まずはどうしましょうかね。どこから乗ったか覚えていますか?」

「多分、「花田線」の端の「花田公園はなだこうえん駅」から」

「ふぅん。「花田公園駅」ですか…。まあいいです。お客様、運賃がいくらだったか覚えています?」

「いや、定期なんで覚えてないです」

「そうですか。困りましたねえ。ただ、『ここ』に居るって事は『何か』を払ってきたんでしょうね」

「多分、そうです」

「うーん…まあ綺麗なお嬢さんですし、反省しているみたいだし、今回は見逃しましょう」

 随分適当な仕事ぶりだ。

「いや、だって私、『駅員』ではないですし」

「そうなんですか?じゃあ何?鉄ちゃんか何か?」

「いや。今日の衣装は『コレ』ってな感じで置いてあったんで着ているだけです。中々着心地良いですよ?このブレザー」

「じゃあ、何であなたが私の不正乗車を見逃してくれるんですか?別にあなたにそんな権限はないでしょう?」

「ええ。ただ―ほら。ここに白紙の切符が一枚」と言いながら、彼はブレザーの左ポケットから白い四角い紙を取り出す。

「いや、全く切符に見えませんけど?」

「まあ。切符じゃないですし。これは―何かの『象徴』なんです。あなたから生まれいでた」

「ふむ」

「ここも、そして私もまた、『象徴』。何を示しているかは―あなたが考えてください。じゃ、時間がないので、これを」

 私の手に切符を握らせた彼は―消えた。モニターのドットが欠けるかのように、徐々に彼の体は■でいっぱいになり―。背景と一体になって消えた。訳が分からない。ここでアナウンス。

「まもなく―●●●(私の耳には意味のある単語に聞こえなかった)●●●。お降りのお客様はお忘れ物にご注意ください。」

 さて。これから降りて、さっさと帰ろう。


scene6「方向転換あるいはシフト・チェンジ」


 電車が止まる。私は駅のホームに降り立つ。あの偽駅員は「花田線」じゃないって言ってはいたけど、この駅は「花田線」の駅にそっくりだ。ラインカラーの縹色があちこちにある。ただ、妙に荒廃していて、駅名標のデジタルサイネージはひび割れだらけで、文字を読むのが精いっぱいだし、発車標は電源が切れている。時刻表は縦軸と横軸にもっともらしい文字は踊っているけど、意味のある事はかかれていない。ここにはめったに電車は来ないのだ。

 今、私はとびきり馬鹿げた夢を見ているに違いない。こういう場合の最適解は、夢の中のルールに従いながら、離脱を目指すことだ。私はのんびりホームを歩く。出口に至る階段目指して。

 そして、階段を昇る。横を見、適当な広告でもないかな、と思う。広告が入っているべきがくには、広告募集中という紙切れが入っているだけだった。


 改札へたどり着く。荒廃した駅には似つかわしくない綺麗な―そして、ICカードリーダーが搭載された(あの嘘つきめ)―改札機が一組。出口を意味する矢印が点灯しているそれにさっきもらった白い紙きれを、切符を、入れる。

 カチャン。

 しかし。改札はブー、っと音をたて開かない。アレ?ここは改札出るのが正解じゃない?でも、どうしたら良いというのか?とりあえず乗り越し精算機を探す。改札機のすぐ近くの壁にそれは埋まっている。投入口に白い紙を突っ込もうかと思いながら、その機械に近づくと、「準備中」と表示されている。こいつにこの「切符」を入れたら最後、絶対に戻って来ないのは分かりきっていた。改札の真横のカウンタ―に駅員を求め視線をやる。そこには誰も居ない。

「おーい。誰かいませんかあ」

 その声は、がらんとした改札口の中で反響し、消えていく。

 困った。これからどうすればいい?そう思う私の耳に、アナウンス。

「まもなく、電車が、2番線に参ります。黄色い線まで、お下がりください」


↑ 本文、了


本稿で引用した文献は以下のサイト様からです。


※1 『川端康成へ』

太宰 治

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1607_13766.html

@青空文庫


※2 『冨嶽百景』

太宰 治

1939

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html

@青空文庫


 













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