10月〈6〉出られない部屋・1

「やっぱりダメみたいですね」


「そうみたいだね」


 歪んでしまったせいで開かなくなったドアを前に、私と紺野先生は立ち尽くすことになってしまった。床には棚いっぱいに収まっていたはずの資料が散乱し、足の踏み場がなくなってしまっている。


「本当にごめんなさい……」


「ううん。大丈夫だよ、誰にでも怖いものはあるから……でも、ちょっと困ったねえ」


 ここは特別棟二階の一番隅にある、資料室。ちなみに、あまり人は寄り付かない。そんな部屋に私……森戸淑乃と紺野先生は、あろうことか二人っきりで閉じ込められてしまった。



 ◆



 学校祭まであと三日。とはいえ課題は待ってくれないもので……魔術史のレポートの提出期限が迫っていることに気がついてしまった。


 ここのところ、学校祭で出すためのお菓子や飲み物の選定で大忙しだった私。今日の昼に課題のことを思い出して、周りに聞いたら「もう終わったよー」と口を揃えて言われてしまい、悲鳴をあげそうになって大笑いされてしまった。


 とりあえず放課後、図書館で追い込みをかけることに。


 終礼が終わると荷物をまとめて、学校祭の準備に取り掛かる他の子にことわって教室を出る。受け持ちの仕事は終わってるから、みんな「がんばれ!」と送り出してくれた。廊下は走らない、でも急がなきゃ。


「あ、もりちゃん!」


 昇降口まで後わずかというところで手を振ってくれたのは、学校祭の準備中なのかジャージ姿の千秋さん。なぜか全身ずぶ濡れね。ポニーテールから水が滴り落ちている。


 えっと、二組と三組は合同で大掛かりなアトラクションを出すはず。もしかして、水を使ったものなのかしら? 十月下旬にそういうのは、風邪をひいてしまいそうだけど。


「あれ? 今日はもう帰るの?」


「えっと、実は魔術史のレポートのこと忘れてて。今から図書館でって」


 恥を忍んで言うと、千秋さんは目をまん丸にする。


「えっ、あれ明日提出でしょ。もりちゃんがこんなギリギリなの珍しいね」


「学校祭の準備で忙しすぎて後回しにしちゃって……」


「あー、なるほどね。あ、そうだ。今、すごい雨降ってるよ」


「ええっ!?」


 どおりで千秋さんはずぶ濡れなわけね!? 早く課題をこなさなきゃと思うばかりに、天気のことになんて全く気が回っていなかったわ。


 窓の外を見ると確かに結構な土砂降りで、あちこちから悲鳴に似た声が。外で準備をしなきゃいけないクラスも多いだろうから、ただの通り雨だといいんだけど……それに。


「やだ……傘持ってきてないわ」


 敷地の端にある図書館まではここから歩いて数分かかる。私も間違いなくずぶ濡れになってしまうわね。肩が落ちたところで、千秋さんが何かを察したように手を叩いた。


「そうだ、特別棟にある資料室行けば? あそこにも魔術史の資料置いてあるよ。テーブルで自習してもオッケーだってお姉ちゃんが言ってたし、あんまり人来ないから静かでいいって」


「ほんと? 助かるわ、ありがとう」


 私は向きを変え、特別棟を目指した。渡り廊下へ踏み出すと、雨は強さを増して空がゴロゴロと音を立てている。


 どうか雷が鳴りませんようにと空を見上げ祈った。実は私、同年代の男子の次に雷が大っ嫌いだったりするから。



 ◆



 初めて足を踏み入れた資料室は、教室と同じくらいの広さ。そこに天井近くまでの高さがある本棚が整然と並んでいる。


 手前には閲覧用のテーブルが二つと椅子が四つずつ、その奥には資料検索用の端末が置いてある。まるで小さな図書館といった雰囲気。見渡した限りでは魔術に関係したものだけではなく、他の教科のものも揃っているみたい。


 今度からはここで勉強するのも良さそうね……そう思いながら鞄を下ろし、まずは目当ての資料を探そうと端末に手をかけた時、奥の棚の陰に先客がいることに気がついた。


「おや、森戸さんじゃないか」


「えっ! 紺野先生、こんにちは」


 こちらに歩いてきた紺野先生は、両手いっぱいに資料を抱えていた。


「もしかして自習かな?」


「は、はいっ! 魔術史のレポート書かなきゃいけなくて」


「そうか、頑張ってね」


 めぼしい資料を取ってから戻ると、先生は奥にあるテーブルの隅に腰掛け、積み上げた資料をめくりながらパソコンに何かを打ち込んでいた。


 てっきり資料を借りて職員室に戻るものだとばかり思っていたけれど、ここでこのままお仕事をするらしい。私も隣のテーブルに陣取り、筆箱と教科書とノート、レポート用紙を取り出した。


 大雨の音に合わせ、キーボードを打つ音がリズミカルに響く。耳障りと言うわけではないけれど、少し様子が気になって資料越しに先生の様子を覗き見る。


 真剣な表情で、モニターと資料の間で目線を動かす先生。今まで朗らかに笑っている顔しか見たことがないけれど、お仕事の時はあんな顔をされるのね。胸がとくんと高鳴っ……ええっ!?


 自分の心臓の音に驚いて、床に置いた鞄を蹴り倒してしまった。


 待って待って、落ち着くのよ淑乃。ギャップに心をくすぐられてしまうのは仕方がない、仕方がないのよ。だって私、漫画でもそういうキャラが好きだし!!


 ああもう、余計なことを考えなず、とにかく早く課題を始めなきゃ! 必死で雑念を振り払ったけど、シャープペンをノックしすぎていて芯を折ってしまった。


「ん? どうしたのかな? もし質問があるなら、答えられる範囲で答えるけれど」


 先生、耳がいいのね……じゃない、覗き見に気づかれていた!? 橙色の綺麗な瞳を見ていると心拍数がどこまでも上がって、言葉がうまくまとまってくれない。


「あああええっと!? だだだだ、大丈夫ですっ!!」


「ほんと?」


「はっ!! ハイっっ!!」


 先生を見ていると、やっぱり胸の奥がムズムズする。そう、これはこの間の探偵ごっこの時と同じ気持ち……心の奥に何かが芽生えかけている。


「あはは、別に遠慮しなくていいんだよ。魔術史は専門ではないけれど、ある程度なら答えられるからね」


 先生は、残念ながら顔だけならすごくタイプ。ううん。もしかすると顔だけじゃないかもしれない……だから、お願い。そんな顔で見つめないで!!


 心の中で叫んだのと同時に、突然目の前が暗くなった。


「えっ!?」


 ドキドキしすぎて体の中のどこかが切れてしまったか、もしくは……はたまた魔力が暴走したのかと思ったけれど。


「おや、停電だね。ここまで雨がひどいと仕方ないかなあ」


 顔を上げると、部屋の中でノートパソコンのモニターだけが明るく光っている。先生はなんてことないように立ち上がると、窓際に歩いて行きカーテンを引く。資料を痛めないためなのか部屋の割には小さい窓から、分厚い雲越しに降る気持ち程度の陽の光が入る。


 でも、これじゃあ暗すぎて勉強どころではないわ……私も立ち上がり、先生の隣に立ってみた。窓の向こうが霞むほどの雨が降り、木々の枝が激しく揺れるのも見える。そう、まるで嵐が来たかのよう。


「すごい雨。十月なのに珍しくないですか?」


「そうだね……昼間は少し暑かったし、そのせいかもしれないねえ。まあ、電気はすぐ戻るだろうから、僕はここで待つけど、君はどうする?」


「えっと……」


 びっくりするほど心臓の音がうるさい。こんな暗いところで先生と二人きりだなんて。命がもつかわからないかも。


 なら、点数は下がってしまうかもしれないけれど、教科書に書いてあることだけでレポートをまとめてしまう? 嫌だわ、だって、少しでも良い成績を取りたいもの。でも。


 迷っている間にも雨音がいっそう激しさを増し、ゴロゴロと空がうめき出す。なんだか嫌な予感……


 刹那、小窓の外が白く塗りつぶされる。


「きゃああああ!!」


「どうしたんだ!?」


「かっ、雷っ!!」


 ずっと恐れていたことが起こってしまい、わかりやすくパニックに陥ってしまった。


 ここから逃げたい! 本能の赴くままにドアの方に意識を向けた瞬間、天地を裂くような轟音。


「いやああああ!!」


「森戸さん!!」


 何かが弾け飛ぶような音がして、棚に収まっていたはずの資料が、土砂降りのように降ってくる。


 こんな大きな雷鳴を聞いたのは生まれて初めてだったから。頭の中がぐちゃぐちゃになって、腰が抜けて、もし次があったらと思うと震えが止まらない。すがるように目の前にある布をつかんだ。


「……大丈夫かい?」


 柔らかい声と、ゆっくりとした鼓動が耳の中を満たしていく。温かくて、香水の甘い匂い……すごく心地がいい……


「え」


 ちょっと待って!? 何もかもに気がついた瞬間、心臓がさっきよりはるかに大きく跳ね、全身の毛が逆立った。


 いま私は、あろうことか誰かの腕の中に収まっている。誰かっていうかこの部屋にはわたしともう一人しかいないけれど……ぐるぐると目が回りだす。あまりのショックに暴れ回っていた魔力の流れが止まったからよかった……よくない!!


「あああああ!! あのっ、すみませんっ!!」


「ああっ、ごめんね!!」


 ……もしかして、かばってくれたの? 先生が飛び退くように離れると、バサバサと冊子が落ちる音。きっと背中や肩に乗っていたのね。


「ああいや、ごめんね、体が勝手に動いてしまって……びっくりしたね。雷が近くに落ちたんだね」


「だ、大丈夫ですっ……」


 先生らしからぬ早口に、私も早口で答えた。反射的に殴りそうになってしまったのを堪えてよかった。助けてもらったのに、それじゃあんまりだもの。


 どくどくと早鐘を打つ胸を押さえる。男の人に……香坂くんの時は体が熱くなったけど、今日は逆に血の気がひいていた。自分が何をしてしまったのかがわかっていたから。


「魔力が跳ねたのかな? いやあ、驚いた。相変わらず凄い出力だね。今日は何も壊れてはいなさそうだから、大丈夫」


 どういうわけか、感心したような先生。だけど、今の状況はあまり芳しいものとは言えず……。


 また、私はやってしまった。


「あの、先生ごめんなさい。ドア、壊しちゃったかもしれません」


「えっ、ドアを!?」


 先生は目をまん丸に開き、急な動きで後ろを振り返った。いつも落ち着いて柔らかな声が思いっきり裏返った。

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