それからの日々のおはなし

10月〈1〉秘密のしるし

 俺はじっと自室の机に向かっていた。おのれの不甲斐なさが情けなくなり、深く深くため息をついた。


 目の前に置いたシンプルなネックレスは、俺が珠希さんに贈ったものと揃いのものだ。デザインは同じだがどうやら男性用のようで、ひとまわり大きいフレームにはピンクではなく黄緑色の石が光っている。


 これは一昨日、彼女からもらった誕生日プレゼント。それ自体は飛び上がるほど嬉しくて、もちろんずっと肌身から離したくなかった。しかし、ネックレスを付けるとなるとどうしても気恥ずかしさが勝ってしまい、包装を取らないままで財布に入れ持ち歩くことに決めたのだ。


 まさか、そのせいで彼女を泣かせてしまうことになるなんて。付き合い始めてもうすぐ二ヶ月、俺たちは初めての危機を迎えていた。



 ◆



 時を今日の昼まで巻き戻す。


 今日は月曜日。三、四時間目の魔術基礎実習を終え、廊下を透子と二人並んで歩いていた。後期になってからクラスが移動してしまった子もいるが、俺たちはレベル別では相変わらず最下位……Dクラスのままだった。


「今日も三人で昼食かね?」


「ああ、いや。今日は森戸さんがカウンセリング受ける日だから、全員バラバラだよ」


 いつもは透子を除いた三人で昼食をとっているが、森戸さんがカウンセリングを受ける日は、一人で昼食をとることにしている。最初は、珠希さんに怖がられてはいけないと思ったから。しかし今は、二人きりでいることで噂を立てられたりすることがないようにと、元々の習慣を継続していた。


「そうだったか。ではわたしはこれで……また後ほど」


「おう」


 透子は今でも昼休みは一人で過ごすので、今からは別行動だ。綿菓子頭がぴょこぴょこと去るのを見送ってから、俺は特別棟の方に足を向けた。


 この日はカツ丼を食べると決めていて、いつものように学生食堂に顔を出した。食券を買って奥に進むと、三井姉妹が食事をしているのを見つけた。


「あ、香坂くんだ。ちょうどよかった! ねえ、一緒にご飯食べよ!」


 三井……千秋さんに手招きされたので、カウンターでカツ丼を受け取るとそちらに向かった。ちなみに三井さんは後期から実習のクラスが一つ上がり、珠希さんと同じCクラスになっている。


「おじゃまします」


 そう言って、三井さんの隣の椅子に座る。授業が早めに終わったのか、二人はすでに半分ほど食べ終えていた。俺も手を合わせてから食べ始め……食べ終わりは全員同じになった。


「そうだ、香坂くん。お誕生日おめでとうでした!」


 箸を置いたタイミングで、三井さんがこちらに身を乗り出した。教えたことはないので驚いたが、たぶん森戸さんか珠希さんに聞いたのだろう。


「あ、ありがとう」


「パーティー、森戸さんが誘ってくれたんだけど行けなくてごめんなさい。これ、私と妹から。大したものじゃないけど」


「そんな、お気遣いありがとうございます。三井さんもありがとうな」


 三井……千夏先輩が差し出してくれた青い包みを受け取る。四年二組の学級委員長である三井先輩には、上崎先輩と同じように代表委員会でもお世話になっている。三井さんはピースサインを向けてきた。


「ううん。まだのマスコットのお礼もできてなかったしね。ねえ、開けてみてよ!」


 一瞬何のことかと思ったが、三井姉妹にもゲーセンで取った景品をあげたことがあったな。さっそく白いリボンをほどいて中を覗くと、チェック柄のタオルハンカチが入っているのが見えた。


「あ、すごくかっこいいですね。大事にします」


 取り出して広げてみる。青のチェックと緑の無地の二枚組。こういうものは何枚あってもいいし、今持っているものより少し大きめなのも助かる。頭を下げた俺を見て、三井先輩が微笑んだ。


「気に入ってくれてよかった。実はね、千秋が『ゆるスミ』のトカゲくんのにしようって聞かなかったんだけど、いくらなんでも男子にそれは恥ずかしいでしょ」


「えー、だって香坂くんのキーホルダーはそうじゃない。寮の鍵についてるやつ」


「寮の鍵ならまだしも、ハンカチは人前で出すこともあるでしょうが。ちょっとは考えなさい」


「えぇー、可愛いのにな」


 三井先輩に苦笑いでたしなめられ、口を尖らせる三井さん。実はトカゲくんにはそれなりに愛着も出てきたが、お姉さんの言うことは全くその通り。キャラもののハンカチは女の子みたいで少し恥ずかしい。気遣いが嬉しかった。


 ……女の子みたいと言えば、珠希さんからもらった誕生日プレゼントのことを思い出した。まさかネックレスだとは思わなくて、まだ一度もつけることなく財布の中に入れている。別に男性が付けてもおかしくないのはわかっているが、自分は田舎出身の冴えない男。ああいうキラキラしたものを身につけるには勇気が必要だった。


 ここで予鈴が鳴った。次はそれぞれ教室移動だという三井姉妹とは別れ歩いていると、教室棟へ続く渡り廊下で珠希さんがこちらに手を振っている。


 一階の一番端にある教室を目指し、学生の波に乗って並んで歩く。その間、彼女の目は俺が持っている袋に釘付けだったので、中身の事を話した。


「……というわけなんだよ。帰ったら洗濯して、さっそく使おうと思ってる」


「よかったね。あ、あの」


「ん?」


「あ、あれ……つけてくれた?」


 聞き逃してしまいそうな小声。あれ、とはきっとあのネックレスのことだ。珠希さんはほんのり頬を染め、俺をチラリと上目で見てくる。可愛いな……と思いながら上着のポケットから財布を出した。


「えっと……つけるのはちょっと恥ずかしくて。けど、こうやってちゃんと毎日持ち歩いてるから」


 財布の中からパッケージを少し出して見せたとき、珠希さんの顔から表情がすとんと抜け落ちた。


「……ちゃんと欲しいもの聞けばよかった。迷惑だったんだね。ごめんなさい」


「えっ? あっ! そういうつもりじゃ」


 光が消えた瞳は代わりに涙で満たされ、大きく揺らめいていた。背筋が凍りついた。失言をしたことに気がついたが、時すでに遅し。


 急に早足になった珠希さんを追うように歩くが、彼女は一度もこちらを振り返らない。


 教室に入るとき、ちょうど本鈴が鳴った。珠希さんはまっすぐ自分の席についた。窓側の最前列。俺は廊下側最後列。後期になって行われた席替えで、俺と珠希さんの席は教室の端と端になってしまっている。


 まるで心の距離のようで胸がずきんと痛んだ。



 ◆



 その後は同じ教室にいても一言も話さず。夕食の席で一瞬目が合うも、いつものように手を振ってもらえることはなかった。その事実は俺の両肩にずっしりのしかかってきて、肺の中の空気を全て重いため息に変えてくる。


 自業自得だ。彼女からもらったプレゼントのことをあんな風に言ってしまった自分が悪い。心の底から反省していた。


 謝罪のメッセージを送ろうと思ったが、なんせ俺は粗忽者。事態を悪化させないよう文面は慎重に考える必要がある。机の上に置いたネックレスを一旦引き出しにしまって、まずは乾ききった喉を潤すことにした。


 ダイニングに移動し、ウォーターサーバーから水を注ぐ。一口飲んでから、自室にいる紺野先生の様子を改めて伺うと、何かを大事そうに磨いた後、机上の小箱にしまおうとしている。


 何だろう? と思いよく目を凝らすと、どうやらネクタイピンのようだ。銀の台座に赤い石が光るのが見える。


「あれ、先生って、赤好きなんでしたっけ?」


 可愛いものが好きという先生だが、スマホは青系、ノートパソコンもタブレットもそうだ。その他も持ち物もどちらかというと寒色のものが多く、赤系のものは特に持っていないように思う。先生はこちらを見て、目を細める。


「ああ、もしかしてこれのことかい? これは二十歳の誕生日に姉たちから贈られたものなんだ。別に赤が好きというわけではないけど、僕は七月生まれだからね」


「え、どういうことですか?」


 首を傾げると、先生が歩み寄ってきてネクタイピンを近くで見せてくれた。ピン自体はシンプルな形だが、埋め込まれた赤い宝石がはっきりと輝いている。


「あれ、環くんは誕生石を知らないのかい? 物知りなのに、意外だね」


「誕生石……ですか」


 一応、そういうものがあることは知っている。でも何月がどの石かだなんて、あまり気にしたことがなかった。コップを洗って片付け、部屋に戻るとスマホで検索をかける。一番上に出てきたページをタップ、書いてあることをじっくりと読む。


 なるほど。七月の誕生石はルビー、まさに赤い石だ。さらに読み込んでいくと……だんだん謎が解けてきた。


 珠希さんのネックレスにあしらわれたピンクの石。本物かどうかはさておきとして、トルマリンというやつだとしたら……単に彼女はピンクが好きだから選んだんだと思っていたが、別の意味を帯びてくる。ゆっくりと引き出しを開けると、中で俺に贈られた黄緑の石がきらめいた。


 ……全てのピースがぴたりとはまった。単なる思い過ごしかもしれないが、できるだけ早めに、かつ直接話をしなければとメッセージアプリを開いた。



 ◆



「呼び出してごめんな」


「ううん。今日はサークルない日だから大丈夫」


 翌日の放課後、研修棟の裏。この時間はあまり人けがないのを、日々ランニングする中で知ったので指定した。やはり見渡す限り誰もいない。


 池のほとりに置いてあるベンチに二人並んで座った。昼休みはいつものように三人で昼食を取ったが、森戸さんを挟んで会話をしていた。直接言葉を交わすのは丸一日ぶり。


 珠希さんは目を合わせてくれないどころか、ずっとソワソワとしている。まるで別れ話でも切り出されそうな雰囲気に、胃のあたりが重たくなってくる。


 池の水がポチャンと鳴る。魚が跳ねたか、それともカエルが動いたか。どちらでもいいが、それがなんとなく合図になった。


 ポケットの中から例のものを取り出す。陽の光を受け、キラキラと黄緑の石……ペリドットが輝く。珠希さんはそれを見て、そっと目を伏せた。


「ごめんな。これ、珠希さんの誕生石だったんだな。ピンクというか……トルマリンを選んだのは、俺が十月生まれだからか?」


 目を伏せたままで頷く珠希さん。やっぱり思った通りだった。後で調べてわかったが、このネックレスにはめられているのは天然石……つまりは本物らしい。宝石というのはもれなく何万もするのだと思っていたので驚いた。


「……しるしが欲しかったの。もう魔術では繋がっていられないから。環くんにも私に繋がりそうなものを持っていて欲しかっただけで。でも、別にこんなものじゃなくてもよかったね。ごめんね」


 珠希さんは胸もとを、おそらくネックレスがあるところをじっと押さえ、か細い声で言った。今にも泣き出しそうな表情に、胸をちくりと刺される。


 繋がり。珠希さんが俺にために開いた道は、すでに蓮香さんからの指示で閉じられている。そんなものがなくてもちゃんと心は繋がっていると思っていたが、彼女にとっては違っていたのかもしれない。


 学校ではあくまでも友達でいないといけない。それがお互いのためになる……だから、俺は珠希さんにも周りの子と同じように接していた。最初は彼女が言い出し、二人で話し合って決めたこと。とはいえ、周りは女子ばかりなわけで。もしかすると不安だったのかもしれないな。


「これ、珠希さんがつけてくれないか」


「えっ」


 ゆっくり伸びてきた小さな手にネックレスを託してから、ネクタイをほどいて、シャツのボタンをひとつ外した。


 もう恥ずかしいだなんて言わない。俺はよそ見をする気はないし、どこにも行くつもりはないんだから。珠希さんが望むのなら、このくらいのこと。彼女はスッと立ち上がった。


「あっ……」


「違うの。ごめんね、後ろからのほうがやりやすそうだから」


「な、なるほどな」


 ……このまま別れを告げられ、立ち去られるかと思ったのでひと安心した。珠希さんは座ったままの俺の背後に立って、チェーンを首に回す。


「下手くそでごめんね」


「いいよ、ゆっくりで」


 後ろを向けないので珠希さんの表情はわからない。でも、金具の爪にかけた指が滑るのか、パチっという音の後に、わずかに呼吸が乱れるのが何度も聞こえる。彼女はあまり器用ではないのはわかっていたので、じっと待った。


「……できたよ」


 目線を落とすと、俺の胸元で彼女の分身が光り輝いていた。次は、隣に座り直した珠希さんに目を合わせる。俺を見つめる同じように光る瞳、はにかんだ笑顔。ずっと、ひとりじめしたかった人。


「ほんと可愛いな」


「えっ」


 もっと近くで見たい……顔を近づけると、とうとう鼻と鼻が触れた。胸にこみ上がってきた熱いものをどうしても抑えきれず、わずかに開いた彼女の唇を塞いだ。また、池の水が鳴った。



 ◆



 ほどいたネクタイを結び直すタイミングを見失い、ポケットに突っ込んだまま歩いていた。こんなにも息が乱れているのは、早歩きをしているせいだと信じたかった。


『あ、香坂くんだ! ん? 顔真っ赤だね、体調悪いのかな? 保健室行ったほうがいいんじゃない?』


 あの後すぐ、珠希さんと別々に歩き出したのだが、そこで上崎先輩に出会ってしまい……心配そうな顔でこう言われた。


 そこは……しどろもどろとかわしたが、急に冷静にもなった。ようやくたどり着いた寮の玄関で靴を雑に脱ぎ捨て、洗面台の前に立つ。鏡の中の自分の顔は、不自然なくらい真っ赤に染まっている。


「うわあああ……」


 もしアレを誰かに見られていたら。ついでにそこらじゅうに設置されている防犯カメラのことも思い出す。もし、どこかに映っていたら……そもそもあそこまで台数が増えたのも、春から夏にかけての自分のやらかしのせいだ。ああもう。頭を抱えてしまう。


 俺を見て嬉しそうに笑った彼女が可愛すぎて、我慢ができなかったなんて。もう少し自分はいろいろなものを弁えていると思っていたのに、これじゃまるでケダモノじゃないか……昨夜とは別の情けなさに襲われる。


 柔らかい感触と、『嬉しい』という甘い声を思い出し、心臓が再び早鐘を打ちおさまらなくなってしまった。なんとか落ち着こうと深い呼吸を繰り返しても、顔の熱はぜんぜん下がってくれない。


 どうやって心を鍛えたら、この焼かれてしまいそうな甘さに耐えられるようになるのか。皆目見当もつかないし、だからといってこんなこと、先生にも、誰にも聞けない。きっと俺にはまだ早かったんだ。


 顔を上げると、緩めたままだった襟元がキラリと光った。しまった。上崎先輩に見られたかもしれない。慌ててシャツのボタンを留める。これからは私服でも襟のついた服を選ばなければならない。


 恥ずかしいわけではない。ただ……俺と彼女の秘密のしるしは、今はまだ誰にも知られてはならないというだけ。

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