9月〈3〉たとえ離れていても
九月も終わろうかという頃。降り立ったのは山に抱かれた見知らぬ場所。しかし自分が暮らす場所と同じく、見上げた空を流れる雲や、頬に当たる風は秋のものに変わりつつある。
ポケットから
『会ってあげてほしい』
記憶の隠蔽術に関しては、残念ながら効果は永久的なものではない。しかし時を置いて何度か重ねてかけられれば、
彼女には、俺の代わりにその役割を担ってもらわないといけない。懐に忍ばせた封筒の中には、
「しかし、こんなこと言っちゃ悪いけど
視界いっぱいの緑と、足の悪い人間には少々つらい山道に思わずひとりごちる。あちらで環を街に連れ出した時、周りの景色にひどく驚いていたのは、単に慣れていないからだったのかもしれない。学校も山の中にあったしな。
整備されたものではなく、単に踏み固められただけの道を転ばないように気をつけながらゆっくり下っていく。聞こえてくるのは鳥の声と木々の微かなざわめきだけで、特に人の気配はしない。
やや古ぼけた小さな一軒家が見えてきたので、探査針を上着のポケットに収めた。庭の隅にしゃがみ込む人物を見つけた。
横を抜けた一陣の風に揺らされたかのように、胸がざわめく。十一年ぶりの再会、どう声をかけようか。ずっとほったらかしにした上に、もし環をさらったのが俺だと気がついていたとしたら。さすがに穏便にいかないとは分かっている。覚悟して来たのに、それでも怖くて前に進めない。
「
こちらを振り返った
「……髪の毛、真っ白けになっちゃったのね」
「おい、久々に言うことがそれか……生まれつきこの色なんだよ。前は上手いこと隠していただけだ」
「ええっ!? 全然わからなかった。だって」
……蕗会は何か言いたげだ。当たり前か、何もかもを全部見て知っているわけだから。なんと言うか、あの時は大変だった……とだけ。
「昔はこの色が爺さんみたいで好きじゃなかったんだ」
「……そう? すごくかっこいいと思うわよ?」
けろりと言い放たれ嘆息した。よくもまあ照れもせずに……この素直さにはいつまで経っても敵わない。俺が笑うと、目の前にはこの世で一番綺麗な花が咲いていた。
◆
招き入れられた家の中には、やけに昔懐かしい雰囲気が満ちていた。聞けば、かつて老夫婦が暮らしていた家を譲り受け、手を入れながら暮らしているらしい。調度品に統一感はなく雑然とはしているが、不思議と居心地がいい。
「もともとは町が用意してくれた仮住まいだったんだけど、とっても気に入っちゃって」
「そうか……いい感じだな」
促されるままにソファーに腰掛けると、蕗会は奥の部屋に消えた。待っている間に、居間の飾り棚に並んだ写真立てが気になったので観察することにする。そのままでは遠くて見えづらかったので眼鏡を軽く
そういえば、こういった眼鏡もこの世界にはないと聞く。自分の目を直接どうにかすることもできるが、それよりは簡単でいい。
写真は、環の入学式や卒業式、節目の儀式で撮られたもののようだ。端に行くにつれ、大きくなっていく息子につい口元が緩んでしまう。
そして最後はあの学校の校舎の前で、二人並んでいるもの。この春に撮ったものだろう。二人は家族として時を重ねていたわけだが、当然俺の姿はどこにない。
何かを大切そうに抱えて現れた蕗会は、俺の向かいに腰を下ろした。その顔に柔らかな笑みを浮かべている。
「それで、今日はどうして会いに来てくれたのかしら」
「分かっているかも知れないが、
「…………あの子、忘れてなんかなかったわよ」
「えっ?」
目を丸くした蕗会。懐から出しかけた封筒が、手から滑って落ちた。
「あなたの家で暮らした話、たくさん聞かせてもらったわよ。たった五日間だったけど、すごく楽しかったって」
「ええっ!? アレ!? なんで!?」
嬉しそうに笑う蕗会。想定外の事態に固まってしまったが、気を取り直し封筒を拾う。
しくじったのか? いや、そんなはずはない。確かにこちらに帰れた瞬間に全てが切り離されるように仕掛けを施した。あいつにどうにかすることはできないはずなのに……訳がわからずうろたえた俺を見て、蕗会はなぜか勝ち誇ったような顔だ。
「……ふふ、どうも環の方が一枚
「……俺はもう息子にすら勝てなくなってるってことか」
こちらが打ち込んだ術式を読まれ、的確に防御されたということだ。しかも元の世界に戻るための転移の術を編みながら、あんな短時間で。
どう考えても、すでに越えられてしまっている。そろそろ魔術師は引退するべきかもしれないな……肩が落ちた俺を見て、蕗会はクスクスと笑う。あいつのその辺の勘の良さは、きっと彼女譲りなのだろう。
◆
蕗会はいわゆる、有力者が外に作った子供というやつだ。そのせいで、ある歳になるまでは父親を全く知らずに育ったらしい。
それでも幸せに暮らしていた
そうして父親に引き取られた蕗会は、金銭的な意味では何不自由なく育ったらしい。しかし、継母となった人間からは冷遇され、大変つらい思いをしたそうだ。
自分の跡目を継がせるために母親を奪った父親に反発していた蕗会は、十五歳の時、産みの母親が憧れていた魔術師の道を選び家を飛び出してしまった。
義母さん、とあえて呼ぶが、彼女には残念ながら魔術の才はなかったそうだ。しかしもともとは多くの優秀な魔術師を輩出している血筋……蕗会にはその性質が濃く顕れた。
しかし、義母さんは失意のうちに亡くなっており、家を飛び出したことで父親の元にも戻れなくなった。母方の親戚に世話になっていた時期もあるらしいが、それも……俺のせいで。
「ひとりになっちゃったけど、私は大丈夫だから」
隣に腰掛けた蕗会は、いつのまにか用意してあった湯呑みに手を伸ばし、ごく薄く笑った。俺の前にも揃いのものがまるで陰膳のように置かれている。手に取るだけならできるが、あえてそれはしない。
「ほんとに、悪いな……」
「ううん、ひとり暮らしになったってだけだもの。でも……今でも三人で暮らしてた頃の夢を見ちゃうわね」
俺もまた同じ夢を見ていた。しかも長い眠りの中で何度も繰り返していたせいで、目覚めたときの絶望が深かったことを思い出す。
「そうか……」
「あの日に帰れたらって、何度も願って」
「そうだな。帰れたらいいのにな」
とはいえ、どんな魔術を使っても時の流れまでは弄れない。それでも俺も同じ思いで、目が覚めてからの数年は様々な文献を漁っていた。
それこそ古文書から最新の研究まで、しらみつぶしに。結局わかったのは、俺たちの人生はもう二度と重なることはないということだった。
息をつき窓の外に目をやると、薄い雲が緩やかに流れていく。とどまることなく、流れていく。同じ方を見ていた蕗会が、ぽつりと呟いた。
「……ねえ。もし、あっちにいいなって人がいたら、私のことは気にしないで」
「馬鹿なことを」
そんなのいるものか。触れたいと思うのも、愛しているのもたったひとりだけだというのに。たまらなくなって、手袋を引き抜いた。
「それ、外さない方が」
「気をつける」
こぼれ落ちてくる涙を避け、頬を撫でる。歳を重ねて緩んだ気がするが、それがむしろ心地よかった。
愛しい人の涙さえ我が身にとっては毒だなんて、情けない話だと自嘲する。彼女を食らって死ぬならそれは本望だが、今はそんな事を言ってはいられない。生きて守らなければならないものがある。
蕗会がゆっくりと身を預けてくるのを受け止めると、じんわりと身体が暖められていく。初めて言葉を交わした日……彼女のことをまるで陽だまりのようだと思ったが、それは今も変わらなかった。
◆
「こんなの、いつのまに撮ってたんだ。見つかったら大変だろ」
「環が大人になったら、これを見せて本当のこと話そうと思ってたの。あなたにもちゃんとお父さんはいて、愛されてたのよって」
蕗会が座卓に積み上げていたのは、環の成長を記録したアルバムだった。行事や節目で撮られたものや、普段の何気ないものも。
一番薄いアルバムには、昔三人で暮らしていた頃の写真が数枚だけまとめてあった。撮ったのは蕗会なので、彼女は写っていないが。こうして写真を見ると当時の思い出が鮮明によみがえる。
「ちょっとだけ、ふっくらしたよなあ」
「ええ、もうおばさんだから……って、どういうこと?」
じろりと睨みつけられた。しまった、何も考えずに思ったことをそのまま口走ってしまった。俺の悪い癖だ。
「いや、待て。悪い意味じゃない、安心しただけだ。昔は痩せすぎだったから、今くらいがいいんじゃないか」
「……実はひとりだとどうしても晩酌が進んじゃって」
蕗会が目を向けた先、台所には自分で漬けた果実酒と思しき瓶がいくつも見える。まさかあれを一人で全部? まずいんじゃないのか? いや、飲酒に走らせてしまっているのは俺のせいかもしれないが。
「おい、あんまり飲みすぎるなよ」
体調に明らかに不安がある俺よりも、先に死なれたらたまらない……極めて真面目に言ったつもりだったのに、なぜか噴き出す蕗会。目元を何度も拭いながら、声を出して笑っている。
「環とおんなじこと言うのね。声も言い方もそっくり……顔だけじゃなくて、そんなところまでちゃんと似て」
大笑いする蕗会の背中越しに、壁にかけられた鏡の中にいる自分と目が合う。確かに彼女の言う通りで、環は髪や目の色こそ違えど顔は俺そっくりに育っていた。しかし、五日間を共に過ごしてみて思ったのは……。
「俺たちはちゃんと繋がってたんだな」
「え? ちょっと。環は確かにあなたの子供なんですけど」
再びじろっと睨まれ、たじろいだ。確かに言葉足らずだったが、そんなことを疑われるなんてたまったものではない。
「いや、そうじゃなくて。改めて一緒に暮らしてみたら、環は君によく似ていると思った。だから君と俺も、環を介してちゃんと繋がっていたんだなと」
慌てて弁明すると、キョトンとした顔になる蕗会。目を何度も瞬かせて、俺をじっと見る。
「だって私たち、離れていても家族でしょ」
蕗会はさも当たり前とばかりにあっけらかんと答えたが、俺は目が覚めたような思いだった。
「か、家族って、もしかして俺も入ってるのか?」
……というのも、俺は家族というものがよくわからなかった。確かに血の繋がった環のことは息子だとは思っている。しかし、蕗会のことはこの世で一番大切な人だとは思ってはいても、家族とまでは。
俺も蕗会と同じように生まれも育ちも複雑だ。実は今の名前も十六の時、とある事情で賜った苗字に、高月の親父さんが新しい名前をつけてくれたものだ。
俺が
高月家の人達はどこの馬の骨とも知れぬ俺によくしてくれたが、それでも家族だなんて思ったことはなかった。苗字も違うし、書類上での繋がりがあるわけでもない。
ああ、でもあの
そうか。もうずっと前から、自分にも家族と呼べる存在がちゃんといたわけだ。どうして今の今まで気がつかなかったんだろうか……はっと気がつくと、呆然としていた俺に対し、蕗会は目を伏せ不安そうな表情をしていた。
「もしかして、違うの? そういうふうに思っていたのは私だけ?」
「そ、そうか。そうだったのか。嬉しい、嬉しいよ」
……こんなにも熱い気持ちになったのは、環が生まれたことを知らされた時以来だった。
◆
さて、思いっきり滞在の制限時間を超過した上に、ずっと手袋を外しっぱなしだった俺。しかも調子に乗って、出された茶にほんの少し、本当にほんの少しだけ口をつけてしまった。フリだけのつもりだったが、つい。
並んで縁側に座り、揃いの湯呑みで茶を飲む……そういう中年夫婦らしいことをどうしてもしてみたくなってしまったのだ。
しかし非情にも、その日のうちに体調を大きく崩してしまった。主治医でもある
在宅ではどうにもならないと入院させられ、絶対安静を指示された上に、点滴打ちっ放し生活を送る羽目になってしまった。期間は未定らしい。
「お前!! マジで死ぬ気なのか!? 俺が死ぬ気で助けたのに死ぬ気なのか!?」
「……悪い悪い。今回は本当にうっかりだから」
「何がうっかりだ!! 世を儚んでないなら絶対にやめろ馬鹿!!」
「今度から気をつける」
「次やったらもう見捨てるからな!! 気をつけすぎなくらい気をつけろ!!」
ドタドタと大きな足音を響かせて志弦は病室から去っていった。病院で医者がそんなんでいいんだろうかと思わなくもないが。まあ、俺が悪いから仕方がない。
「環の誕生日までには出られるかな……」
頭に浮かんだのは、二週間後に控えた一人息子の誕生日。贈り物を先に発注しておいて良かったと心の底から思った。窓の外を眺めながら、大きく息を吐く。
……死に急いだりなんかするものか。共に過ごすことも触れることもできないかもしれないが、俺にだって大切な家族がいたと知ったのだから。
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