9月〈2〉はじめてのおでかけ・A-1

 土曜日の朝。いつもより早く起き、鏡の中にいる寝起きの自分といつもより長い時間睨み合う。今日は念には念を入れないといけないからだ。いつも通りの時間に起きた先生が身支度を終えるのを待って、朝食を食べに行き、戻ってきた。


『男子寮』では土曜の朝食の後は清掃の時間ということになっている。毎日軽く掃除はするのだが、この日は少し念入りに。自室だけではなく、二人で手分けし共有のダイニングや水回りを磨き上げていく。今日も三十分ほどですべての作業を終えた。


 掃除さえ終えればあとは自由時間だ。手をよく洗い、出かける支度をする。身を清めるつもりで下着まで全部替えてから、悩み抜いて選んだ服に袖を通す。


 まだ少し暑いので、半袖のシンプルな白シャツにデニムのズボン……シャツはこういうこともあるかもしれないと、様々な資料を参考にして夏休みの間に新しく買ったものだ。でも、自信があるかないかでいえば。


「先生、俺、変じゃないですよね!?」


「うん、いいと思うよ。いつもの独特な柄も悪くはないけど、シンプルなものも似合うねえ。随分と大人びて見えるよ」


「ありがとうございます」


 満面の笑顔が返ってくる。よし、悪くはないらしい。今一度襟を正してから、引き出しの奥にしまっていた軍資金を取り出した。茶封筒の登場が唐突に見えたのか、紺野先生が笑顔を薄め首を傾げる。


「ん、地図でも入ってるのかい?」


「あ、これですか? 夏休みに、友達のおじいさんの手伝いをしてバイト代もらったんです。あんまり高いものは無理ですけど、これでプレゼントを買おうかなと」


「おやおや。我が校は学生のアルバイトを禁止しているんだけどねえ」


 その瞬間、先生が獲物でも見つけたような笑みを浮かべるのを見て、息を呑む。しまった、嬉しくてつい口が滑ってしまった。


 すっかり仲が良くなったのでつい忘れてしまいがちだが、目の前にいるのはこの学校の先生……俺としたことが堂々と校則違反を宣言するなんて。背筋がピシリと固まったが、目はふらふらと泳いでしまう。


「あっ! ああ、いや、単に手伝いを頼まれたから行っただけで、バイト代をもらえるなんて思ってもいなくて。その」


 地元の夏祭りの日。商店を経営する友達のお祖父さんに頼まれて、夜店で売る飲み物を会場まで運ぶのを手伝い、友達と並んで少しだけ店番もした。お礼はするからと言われてはいたが、バイトという感覚は全くなく……まさかお金をもらえるとは思わなかったのだ。


「あはは、なるほど。よかったじゃないか。まあ、あんまり大きな声で言わないようにね」


 弁明を聞いた先生は笑顔になると、ゴミ出し当番の作業に戻った。ほっと息をついてからメモ帳を広げ、今日の予定をもう一度確認する。どこに行きたいか、先生のアドバイス通り珠希さんの意見もちゃんと聞き、初めて行くところなのでネットで下調べを入念に行った。


 メモ帳も鞄のポケットに入れ、持ち物を最終確認して鞄のファスナーを閉じた。あとはしくじらないように精一杯頑張るだけ。何事も最初が肝心、しっかりやらねば。靴紐と一緒に気を引きしめる。


「じゃあ、行ってきます」


「うん、気をつけて。健闘を祈るよ」


 いざ出陣。清々しく晴れたの空の下へ飛び出すと、まだ夏の勢いを残す日差しに肌を焼かれる気がした。無理して上着を着ていたら、きっと汗だくになっていたことだろう。そうでなくても今日が初めてのデートだと思うと、身体が妙に熱いのだから。



 ◆



 彼女とはつまるところご近所さんなのだが、二人並んで……というのは一応避け、学校の前から別々にバスに乗ることにしていた。


 最後方の座席に掛けて顔を上げると、珠希さんがワンピースの裾を揺らしながら乗りこんできて、前方の座席へ。彼女が私服でスカートを履いているのは珍しい。早くちゃんと見てみたい、気持ちがはやりだしたところでスマホが振動する。


『おはよう。今日はよろしくね』というメッセージ。緊張で手が震え、何度も失敗しながら『おはよう、こちらこそよろしく』とメッセージを返した。やがて座席の半分ほどが学生で埋まったバスは緩やかに発車する。


 十五分ほど走るともうすっかり見慣れた、最寄りの駅前にたどり着く。俺たちは改札を入ったところで待ち合わせをしていた。二駅先にあるショッピングモールが今日の目的地だ。


 今日の珠希さんは桜色のワンピース姿。軽い素材なのか、歩くたびに裾がふわふわと揺れるのが可愛らしい。肩につくほどに伸びた髪の後ろ側を編んで、髪飾りをつけている。いったいどうなっているのか想像もつかない。これを後ろ手でやるんだから、女の子はすごいと思う。


「髪の毛、可愛いな」


「えへへ、千秋ちゃんに手伝ってもらったんだ。デートだからって言ったら気合い入れてくれて」


 なるほど、女子寮暮らしらしいというか。三井さんには感謝しないといけないな。アナウンスとともにホームに電車が滑り込んでくると、珠希さんがこちらに身を寄せてきた。手を繋いでみたいと思ったが、もう一歩の勇気が出なかった。



 ◆



「うわー、大きいなあ」


「ねえ、大きいでしょ」


 自動ドアを潜った先に広がる光景を見て、相変わらずお上りさん丸出しのリアクションをとってしまった。ここまでの大型店は地元のあたりではまず見かけない。通路が果てしなく向こうまで続いているように見える。


 駅直結のショッピングモールには、専門店が約二百店舗入り、映画館や温泉施設まで併設されているそうだ。開店して間もない時間なのに、店内はすでに繁華街の中にいるような賑わいだった。


『アクセサリーが欲しい』ということだったので、まずはアクセサリーショップを巡ってみることにしていた。下調べ通り、エスカレーターで二階に上がるとまず目の前に見えた店に入る。


 ショーケースの中に並ぶアクセサリーを眺める珠希さん。俺も少し後ろについて歩く。どれもこれも小ぶりなデザインで、つけていても気が付かなさそうな大きさのものもある。こう言うものは目立ってなんぼだと思っていたので、少しばかり意外だった。


「わあ、きれい。可愛いなあ」


「そ、そうだな」


 ずっと目を輝かせている彼女を見ると、やっぱりプレゼントするとしたらアクセサリーが良さそうだと考えた。よし。


 小さいながらも色とりどりの宝石、金銀のきらめきにやや怯みながら、さりげなく値札を……思ったよりは高くなかったが、どれもひとつ桁が多い。今回は諦めるしかないが、いつかはきっと。


「ごめんね、やっぱり男の子はこういうのはあんまり興味ないよね」


「ああ、いや。そんなことない。ゆっくり見てもらっていいよ」


 彼女が身につけるものに興味がないわけないじゃないか。どんなものが好きなのか、今後のために知っておきたい。


「ありがとう。あっちも見ていい?」


「うん」


 店員さんに会釈を返しつつ、向かいの店舗に移る。こちらもアクセサリーショップのようだが、店構えからして先ほどの店より敷居は低く感じる。中は同年代と思しきカップルや、女の子グループで混み合っていた。


「ここは男の子用もあるんだね。環くんどう?」


「いや、俺は……うーん」


 珠希さんが指差した方を見ると、シンプルなアクセサリーがいくつか並べられていた。しかし、こういうものをつけている自分は全く想像できない。紺野先生なら似合うかもしれないが……むむむと唸る俺の横で、珠希さんはとても楽しそうだ。


「こっちのほうが今の私には合うかな。さっきのお店のはもう少し大人になってからって感じ」


「……ど、どっちも似合うと思うけどな」


「えへへ、褒め上手だね」


 俺に微笑みかけてから、並べてあるネックレスを端からじっくりと見て、そのうちのひとつを手に取った珠希さん。首元にあてがって頷いたのを確認した。よし、言うなら今だ。


「そ、それ、プレゼントさせてくれないか」


「えっ? どうして……」


「誕生日、八月だったんだろ。ごめんな、気が利かなくて」


 知ってたんだ、というかすかな呟きとともに珠希さんはそっと目を伏せる。


「……それは私が何も言わなかったからだよ。ごめんね。もうだいぶ過ぎちゃってるから、いいよ」


 ふと、手鏡が見せたと思われる夢が甦る。本当に彼女の過去かどうかは確かめようがないから分からないが、かつて『誰にも助けてもらえなかった』と言っていた。おそらくあれに近しいことが行われていたのではないかと俺は思っている。


「いや、今からでも祝いたいんだ、どうしても」


 癒せなくとも温めてあげたい。なによりあなたが生まれてきてくれたことが嬉しいから、そばにいられる限りは、一回でも多く祝いたい。こんなこと口に出すのは恥ずかしかったので、目で必死に訴えた。


「環くん、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」


「うん、誕生日おめでとう」


 ……さて、店員さんにこのやりとりを聞かれていたらしく、何も言っていないのに誕生日用のラッピングにしてくれた。最後に『お幸せに』なんて小声で声をかけられ、震えがくるほど恥ずかしかったが、達成感で相殺されたということにしておこう。

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