8月〈2〉里帰り、ともだちといっしょ

 鳥の鳴き声で目を覚まし、枕元の時計を手に取ると、針はすでに七時を指している。


 しまった!! 早く紺野先生を起こさないと!!


 慌てて跳ね起きたところで、はっと我にかえる。


 窓の位置が違う。あと天井の色、タオルケットの柄も。床だって畳敷きだ。


「あっそっか、ここ実家だ」


 帰省していることを思い出して、頭をかいた。着替えと朝食を済ませ、仕事に行く母親を見送ってから、数学の課題に取り掛かる。なにせ量が多いので、まずは得意科目から攻略しようと考えた。


 応用問題に少し詰まりはしたが、キリのいいところまで終え、大きく伸びをした頃には時刻は十時半。やらなければならないことがあることを思い出して、机の上を一度片付けて立ち上がった。


 財布とスマホ、タオル、エコバッグを入れたショルダーをかけ外に出る。抜けるような青い空。自転車のタイヤに空気を入れている間、漕ぎ出してからも、すっかり高く昇った太陽が容赦なく照りつけてくる。天気予報の通り、今日もとても暑い日だ。


「帽子かぶるの忘れてた」


 頭が焦げてしまいそうだ。とはいえ引き返すのも面倒で、汗をかきながら自転車を走らせる。馴染みの商店まではそうかからないからだ。


 ここ、『橋本商店』はそこまで大きくない店ながら、生鮮食料品から日用品まで取り揃えてある。ちなみに、この辺りの子供が初めてのおつかいに行くのは決まってこの店で、かつての俺もそうだった。


 今日の夕飯は俺が作る。母親にリクエストを聞くと「カレーが食べたい」とのことなので、張り切って買い出しにやってきたというわけだ。


 片開きの自動ドアをくぐった途端、冷たい空気に全身を包まれ生き返った気分になった。それと共にセンサー式のチャイムが鳴り響き、レジカウンターの奥から馴染みの人物が顔を出す。


「おや、環くんじゃないか。いらっしゃい」


「ああ、どうも。お久しぶりです」


 声をかけてきたのは、ここのオーナーで友達のお祖父さん。焼け焦げた肌で、四角い眼鏡の向こうの目は、人が良さそうに微笑んでいる。歳は多分七十代半ば。髪の毛はすっかり寂しくなってしまっているが、体格は良く背筋も真っ直ぐ。今でも力仕事はお任せ、といった雰囲気だ。


 カゴを持ち、店内を進む。豚肉と玉ねぎは家にあったので、今日買うべきはにんじんと、じゃがいも、カレーのルー。俺も母親も辛いものは少し苦手なので、中辛を選ぶ。


 昼は久しぶりにカップ麺でも食べることにして、母親から頼まれていた卵、牛乳も合わせてカゴに入れ、レジへ持っていくと、待ち受けていたお祖父さんはたいそう機嫌が良さそうに笑っていた。


「いやあ、都会に染まってしまってるかと思ったけど、全然変わってなくて安心したよ。うちの孫なんか、高校に入った途端に髪の色を明るくしてなあ……まあ、それだけならいいんだが、勉強も全然だって息子も頭を抱えてて」


「あはは。時々メッセージしてて、なんとなく聞いてます」


 友達……橋本 勇介はしもと ゆうすけは明るい性格で、スポーツ万能。誰にでも好かれるクラスのムードメーカーだが、勉強を少々苦手としている。


 先日も『期末テスト? もちろん全教科赤点! 追試だぜ!』という潔いメッセージを受信したので、激励したところだった。まあ、無事に追試で挽回できたそうだが。


 お金を支払い、買い物袋に商品を詰めようとしたが、お祖父さんがポンと手を叩く音に呼び止められる。


「そうだ。今日はうちにいるだろうから会っていくか? ……おーい、勇介、環くん来てるぞ」


 お祖父さんの呼びかけに応え、向こうのほうで返事が聞こえる。大きめの足音をさせて顔を出した勇介は、確かに妙に明るい髪色をしていた。


 眉も薄く整えていて、ずいぶんと雰囲気が変わっている。自由な校風の学校に行くと、こういう風になるものなのか。


「わ! ホントに環だ! 帰ってくるならメッセージくらいよこせよなあ」


「ごめんごめん。色々あって帰ってくる予定が何日か早まったんだ。だから今夜あたり連絡しようと」


 俺の肩を引き寄せ、ニカッと八重歯をのぞかせ笑う顔は今までどおり。中身まで変わったというわけではないようで安心する。勇介の興味は買い物カゴにの中身に移っているようだ。


「お、今日は環んちはカレーかな。おばさん仕事だろうし、お前が作るのか?」


「ああ。リクエストされたんだ」


「じゃあ、今日は夕方まで付き合ってもらおうかな」


 背中をバシバシと叩かれる。


「えぇー。課題あるんだけどな」


「一日くらいいいだろ」


 まあ、夏休みはまだ長いことだし……誘いに乗ることにした。



 ◆



 買ったものはお祖父さんが店の冷蔵庫で預かってくれるというので、レジカウンターの裏にある入り口から家に入った。商店の裏につなげるようにして建てられた家では、三世代九人が暮らしているそうだ。きょうだいも多いので、きっと賑やかだろうと思う。


 突然お邪魔したのに、昼食までご馳走になることに。お礼を言っていただいた。メニューは夏らしくそうめん。付け合わせの野菜のかき揚げもとてもおいしかった。


 そして。


「えー、ただいまから、香坂環くんの事情聴取を行いたいと思います」


 勇介が謎の宣言をしたあと、ぱちぱちぱちとまばらな拍手が起こる。他にも仲がよかった同級生二人が駆けつけ、六畳ほどの部屋に野郎が四人押し込められている状態だ。


 まずは大角 謙太おおすみ けんたが口を開く。


「なあ、魔術使って見せてくれよ! これ動かせたりするのか?」


 目の前に転がされたのは……青く透き通ったサイコロ。よく見る六面のものではなく、おそらく二十面のもの。こんな珍しいもの、どこで買うんだろう。


 期待の眼差しで見つめられていることに気がつき、お決まりの文句を述べる。


「できるけどダメ。俺はまだ学生だから、学校の外で魔術使ったら学校は退学になるかもしれないし、下手したら捕まるの」


「こっそりやってもバレるのか?」


「いや、たぶんバレやしないとは思うけど……」


「じゃあさ!! 一回だけだから!!」


 三人に懇願される。ならばと目の前に置かれたサイコロを見つめ、集中し、術式を……いや、静かに首を振った。


 俺は今や学校どころか魔術庁にまで目をつけられている身。万が一のこともある、違法行為はダメ絶対だ。動く気がないことを察したのか、目の前の三人はつまらなさそうだ。


「……まあいい。他にも聞きたいことがある。どっちかってとこっちが本命だ」


 謙太はあっさり引き、今度は神田 将斗かんだ まさとが前に出る。ちなみにこいつは頭脳派だ。眼鏡を押し上げる姿はまるでベテランの刑事のようでもある。片方の口角を釣り上げ、ふっ、と息をつくとそのまま低い声で俺に告げる。


「環、彼女できたか」


「ウッ」


「どうしてそこで頭を抱えるんだ」


「……女子校行ってもだめだったのか。さすが環だな」


 勇介と謙太は笑っているが、将斗は何かを見抜いているかのように眼鏡の奥の目を光らせている。その妖しさたるや、まるで手練れの魔術師のようだ。


「いや、こいつがこういうリアクション取る時はな、イエスなんだよ……スマホを確保しろ」


「了解!」


「あっ、返せよ!!」


 座卓の上に伏せていたスマホを勇介にカルタ取りのように取られ、そこに残りの二人が群がる。まずいな。面倒で設定をしていなかった。


「よし! パスワードかかってないぞ!」


「写真ないのか!?」


 勝手に画像フォルダを開けて大騒ぎする三人。


「そんな、わざわざ写真なんか撮らないって……」


「嘘だ! 探せ探せ!!」


「おい! 女の子の写真あったぞ!!」


 三人が次々と喚く。そうだ、すっかり忘れていたけどあった。透子の隠れ家で遊んだ時のものという写真を、森戸さんが昨夜転送してきたもの。


「うわー……めちゃくちゃ美人じゃん。ちょっと気が強そうだけど」


「横に写ってる子は外国人? すげえ可愛いな」


「俺は端っこの子も可愛いと思うぞ」


 確か、透子と森戸さんが真ん中、珠希さんが端の方に遠慮がちに写り込んでいる構図だったと思う。


「「「…………どれ?」」」


「誰でもいいだろ!!」


 見事なハモリに大声で返したとき、コロンとお馴染みの受信音が響く。鳴ったのが友人の手の中にある自分のスマホでないことを心の底から祈った。


 なぜなら、俺にメッセージなんか送ってくる人間はごく限られていて。なんというか、今この状況で見られたくなんかない。


「ん? ……『昨日は電話できて、おうちに誘ってもらえて嬉しかったよ。来年の夏休みが今から楽しみです。寮の大掃除が終わったから、これからみんなでご飯を食べに行きます。今日からしばらくちゃんのおうちにお世話になることになりました。心配してくれてありがとう。また夜に電話するね』……だって。へぇ」


 勇介にニヤニヤとメールを読み上げられ、頭を抱えた。俺のささやかな願いは届かなかった。


 ああ、閉寮期間中はたぶん森戸さんの家に行くことになったんだな、よかった……昨日電話で聞いた話では、ひとりでホテルに泊まるとのことだったので、少し安心した。


「なあ。たまき、って読むんだよなこれ。えっ何? 同じ名前の子なの? へえ」


「ウッ……………………」


 謙太の言葉にすかさず現実に引き戻される。


「ほほう…………」


「なあ、この子はどの子だ?? あれ? またメッセージが来たぞ」


 次は誰だ!?


「えっと……『環くん、大掃除は無事終わったからね。なんて言うのかな、ひとりの部屋って広いものだなと思ったよ。それに今朝もひとりでは起きられなくて、僕の中で君の存在が大きくなっているんだなって。寂しいけれど、たった一ヶ月間の辛抱。また会えることを楽しみにしているよ。声が聞きたくなったら電話するかもね』……って……おい」


 ……紺野先生からのようだ。大掃除をひとりでさせてしまったわけだから、あとでお礼のメッセージを送らないと。


「僕っ子……?」


「なんだこれ? 送信者はコンノ……アカリ? か? えっ。待って。どっちがお前の彼女?」


 ……口がぽかんと開いた。ああ、なるほど。俺も人のことは言えないが名前が、ついでに文面がまぎらわしい!! それと先生、一人でちゃんと起きろ……!!!! 俺と住むまではどうしていたんだよ。


 混乱で混ぜっこぜになった頭でそんなことを考えていると、三人分のジトリとした視線がまとわりついてくることに気づく。


「…………お、おい。お前まさか」


「えっ?」


「……二股かけてるんじゃないのか? 最悪だな」


 やっぱそれかよ! 人生二度目の二股疑惑をかけられ、頭を勢いよく座卓に打ちつけ、視界に星が散った。


 ましてや今回は相手が紺野先生、吸血鬼の悪夢の再来である。アレ壁ドンの火消しもなかなか骨で、特に一部の学生が大喜びしていたらしい。なんでだよ。


 それはさておき前を見れば、明らかに軽蔑を含んだ眼差しに刺されていることに気がつき、胸に鋭い痛みが走る。思わず出血していないか確かめるが、まあ当然……それでもたまらなくなって床に転がった。こんなの冤罪だ。


 やいやいと責め立てる声がだんだん遠くなり……なんと言うか、再び父親のところに逃げたくなった。情けないことに。


 とりあえず。


 この人は『コンノアカリ』ではなく紺野 燈こんの ともしで、二十三歳の男性で、学校の先生で、男子寮の寮監で、俺のルームメイトだということを懇切丁寧に説明した。


「ほんとにかー?」


「本当だよ!! 見てみろ!!」


 ネットで先生の名前を検索してみせると、結構な量の情報がヒットした。その道でかなり有名らしいというのはなんとなく知っていたが、大まかな経歴や生年月日までちゃんと出ることにはかなり驚いた。論文が世界的に評価されていることも初めて知った。


 ……本当にすごい人だったんだ。こんな場面で知ることになってしまったのが若干失礼な気もする。ごめん、先生。


「なんだ、男だったのかー。そうだよな、マジメ環に限ってそんな」


「つーか、男でも魔術の先生になれるんだなー」


 勇介と謙太は納得してくれたが、将斗はイメージ検索で表示された先生の顔写真を見て、「いや、男だとしてもこれはほら」などと訳の分からないことを言っていたが、聞き流した。



 ◆



 そのあとはそれぞれの近況について話しながら、テレビゲームで散々遊んだ。三人はゲームに慣れているが、俺は全然なので全く歯が立たず、十数回の惨敗を重ねて大笑いしたところで夕方の四時。


 そろそろ夕飯の支度をしないといけない時間になったので、勉強会の約束を取り付けて解散となった。


 見上げれば、暮れる気配など感じない空。まだまだ遊べそうな気がして、なんだかもったいないと思ってしまう。表に止めた自転車のカゴに買ったものと、お裾分けでもらった野菜を乗せていると、後ろに勇介が立っていた。


「今日は楽しかったな。また遊ぼーな」


「おう。でも、次は勉強会だろ」


「はぁ、環はほんとマジメだよなあ。まあ楽しそうにしててよかった」


「ん?」


「いや、女子校に通うってさ、そりゃラッキーだけど……たぶんそれだけじゃないじゃん。そうじゃなくても遠いとこだしさ。きっと頑張ってるんだなってなー」


「いや、別に、そんなことはないって。でも、ありがとな」


 急に褒められたものだから、照れ臭くなって目を逸らす。思えば、今日会った三人は俺の秘密と進学先を聞いて驚きはしても、普通に接してくれた。


 ……気づいていなかっただけで、居場所はここにもちゃんとあったのだ。


 じゃあまたな、と言って別れ、家に向かい自転車を漕ぎ出す。荷物が増えたのでペダルは重いが、気持ちはとても軽かった。


 次もきっと遊ぶことになるだろうが、まあいいか。夏休みは、まだ始まったばかりなんだから。

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