インコンプリート・マギ〜外伝/それぞれの日々
霖しのぐ
8月と9月のおはなし
8月〈1〉里帰り、ふたりのゆうべ
「ただいま」
「おかえり、疲れたでしょ。すぐご飯にするわね」
母親は、まるで近所から帰ってきた時のように俺を出迎えた。これまでに色々やらかしたことを叱ることもなく、いつも通りの様子だ。
自室に荷物を運び入れ、座り、腕に貼られた絆創膏を剥がした。隠れていた部分は青いシミのようになっている。針を何回も刺されたことを思い出し、ため息が勝手に出てきてしまった。
ああやって身体を隅々まで調べられるのも、もう何回目になるか。健康状態には一切問題なしだそうだが、今回もさまざまな解析に使うからと数回に分けてたっぷりと血を抜かれ、正直めまいを起こしそうだった。
俺……
解析うんぬんは、『どうしてそうなのかわからない』ということになっているからだが、その理由を知った今となっては、こんなことをして何になるのだと正直。でも仕方ない、本当のことは誰にも言ってはいけないのだから。
さて。大変恥ずかしいことに、色々あってヤケを起こした俺は、父親の元に逃げ数日間行方をくらませていた。
またもや色々あって帰ってきたが、そのあたりの詳しい事情は周りに知られないほうがいいと判断した友達のお母さん……いや、この国で数本の指に入る大魔術師、
表向きには、誘拐された数日後に山中で密かに保護されたものの記憶喪失になっており、その間のことは何も覚えていないということになっている。
というわけで、魔術庁の息がかかった病院で三日間の検査入院をし、先ほど実家に帰ってきた。そこでは普通の検査だけではなく……腕利きの魔術師がよってたかって記憶を呼び起こそうとしたが、すべて空振りに終わっている。
俺の頭の中に仕掛けを施した蓮香さん
これからも勉学に励み、魔術師として一人前になった暁には、必死で人々のために働こう。そう強く思った。それで罪滅ぼしになればいいが……本当にごめんなさい。
肩を落としたまま部屋を出ると、母親……
「なんか手伝うことあるか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか。じゃあ、ちょっと庭に出てくる」
「はーい」
サンダルを履き庭へ出る。進学のために実家を出てはや四ヶ月……こうして久々に戻ってきたわけだが、特に変わった様子はなかった。ぬるい風が頬を撫でるのに合わせ振り返れば、やや古ぼけた小さな平家が夕暮れの空と木々の中に佇んでいる。
小さい頃に散々駆け回った庭には、今は母親の趣味で目いっぱい植えられた花々が揺れている。透子や銀川先生なら名前を知っているかもしれないが、俺の知識にはない。
庭の隅には母親が耕したこぢんまりとした家庭菜園。野菜がぽつぽつと実っている。久々にトマトを丸かじりしたくなって捜索したが、食べどきのものはもう残っていなかった。そのかわり、井戸水でスイカが冷やしてあるのを見つけた。ここでスイカは作っていないので、買ったかもらったかしたのだろう。
近くに寄ってみると、二人で食べ切れるかわからないほどの立派なものだった。夕飯の後に切ってくれるのかな……期待に胸を躍らせながら金だらいに浮かぶスイカをつついていると、掃き出し窓から母親が身を乗り出している。
「環、ご飯できたわよ。入ってきて座ってて」
「ああ、わかった」
居間に戻り、座卓につく。目の前のテレビに映されているのは、ここにいた頃には毎日見ていた夕方のローカル番組。気象予報士のお兄さんが、明日も暑さが厳しいことを手描きのイラストを交えながら伝えている。難しい資格を持っている上に、絵心まであって羨ましいな。と思いながら天気予報に見入る。
「これも久しぶりに見るでしょ」
「うん。相変わらず絵がうまいよなあ」
母親との何気ない会話。この春まではこれが毎日の光景だったのに、今はなんだか懐かしい。帰ってきたんだなあ。しみじみと感慨に浸っていると、目の前に夕飯が並べられていき、最後に落とし卵の味噌汁が運ばれてくる。そのまま向かいに母親が座った。
「さて、食べましょうか」
「そういえば、今日は豪華だな。ありがとう」
味噌汁以外にも唐揚げにエビフライ、トマトのサラダ、きんぴらごぼうに肉じゃが、おまけに刺身まで並んでいる。どれもこれも好きなものばかりだ。
「そお? 久しぶりだから頑張ったけど、寮のご飯には負けてるでしょ」
「そんなことないよ。おいしそうだと思う」
「……ふふっ。女の子ばっかりのところにいるからかしらね、なんだか話し方が優しくなった気がする」
「別に、ふ、普通だよ……」
母親に笑いかけられると妙に照れ臭くなって、頭をかいた。
◆
やはり話題は……話せるのかどうか不安だったが、母親相手だと声が出たことに安堵した。どうしても見聞きしたことを伝えたかったからだ。
向こうは、こことなんら変わらなかったこと。ただ、男の人も魔術を普通に使っていたこと。父親は一人暮らしで、父親と仲のいい人にもよくしてもらったこと。医学校に推薦するから医者にならないかと言われたこと。
外食に連れて行ってもらったり、一緒に料理を作って食べたこと……魔術を教えてもらったり、母親が使っていた教科書を、今でも大切にしていたこと。落とし卵の味噌汁を懐かしんでいたこと。会いたいけど、今さらどんな顔をして会ったらいいのかわからないと言っていたこと。
向こうに行くことができない母親は話を黙って聞いて、少しだけ潤んだ瞳を俺に向けた。
「ねえ。どうして、
「どうしてって……やっぱりこっちがよかったからだよ。あと、母さん一人だと寂しいかなとか、そんなことを思ったりとか」
それを聞いた母親は目元を拭ってから笑った。
「……ふふ。もしかして、好きな女の子に呼ばれたのかしら?」
全く噛み合わない返答だが、まさにど真ん中を射られたかたち。ぎくりと肩が揺れ、箸で摘んでいた唐揚げを落とした。取り皿に乗せていたサラダの上にうまく着地し、事なきを得たが。不意打ちに心臓が暴れる。
「っ!? は!? どうしてそうなるんだ……やめてくれよ、ほんと、そういうの」
とっさに繕うこともできず、わかりやすい態度をとってしまった……そうでなくても母親が手練れの魔術師というのは本当に厄介だというのに。向こうがその気になれば何もかもを読まれてしまい、隠し事なんかできないのだ。
「あら、どんな子かのかしら。また今度、紹介してくれる?」
この母に勝つことなど不可能だ……俺はこの場から逃げることを選び、落とした唐揚げに箸を突き刺して口に入れ、続けてサラダをかきこみ全速力で咀嚼して飲み込んだ。
「ご、ごちそうさま!!」
「ふふ、おそまつさまでした」
母親には目を向けず、皿を集めて流しに下げ、自室に逃げ込みため息をつく。
そりゃまあ、いつかは紹介できればいいけど……でもお付き合いはまだ始まったばかり、今はそっとしておいて欲しいのが本音だった。
それはさておき。まずは退院したことを報告しなければならないなと、スマホを手に取る。まずは森戸さんと透子、紺野先生の順に『無事退院しました。特に異常はありませんでした』とメッセージを打つ。
珠希さんには……電話にしようか、メッセージにしようか。学校は今日が終業式、明日は寮の大掃除があるらしいので、今日はまだ寮に残っているはずだ。とりあえず声が聞きたいので、メッセージを送ってみて何時なら話せるか聞いてみよう。
『退院して実家に戻りました。電話をしたいのですが、都合がいい時間を教えてください』
……ちょっと硬いかな。まあ、最初は丁寧すぎるくらいで、これから擦り合わせていくことにしよう。送信。
そういえば、彼女は実家に帰れない身だと聞いたことを思い出す。閉寮期間中はどうするのだろうか。
そうだ。ふとある考えが頭をよぎった時、背後のふすまがそっと開き、母親が顔を出した。
「ねえ、環。怒ってるの?」
「なんだよ……別にそういうわけじゃない。ちょっと、今はほっといてくれ。話したくない」
目を逸らしたが、母親は全く動じていないようで、いつものようにぽやっと笑う。この笑顔で今まで何回してやられたことか。いったい何を仕掛けられるのかと身構えた。
「……今からスイカ切るけど食べる?」
「……えっ? あ、た、食べる」
「ふふ、じゃあ早くいらっしゃいね」
俺と再び目が合った母親は、そっとふすまを閉じ、鼻歌交じりで去っていく。
しまった、スイカに釣られて機嫌を直すなんてなんてあまりにも単純すぎないか。それに母親も母親だ。よりによってここでそのカードを切るなんて……やっぱり一生敵いそうにはない。俺は大きくため息をつき、立ち上がった。
◆
場所は広縁。母親と並んで座り、共に無言でスイカをかじる。すっかり暗くなった空には満点の星が瞬き、蚊取り線香の細い煙が微かに吹く風に流れ、夜の闇に溶けていく。
スイカが盛られた皿を挟んで隣に座る母親は、言葉を出さずともわかるほどに機嫌が良いようだ。このよく冷えたスイカは、確かにものすごく甘くて美味しいが、それだけではない気が。
「嬉しいわね、環のこと好きになってくれる子がいるなんて」
「ぶっ」
言われるのは想像していたような、していなかったような。口の中に残っていたスイカの種が、庭に向かって勢いよく飛んでいった。
来年はスイカもここで収穫できるかも……じゃない、まだその話は続いていたのか。もはや何も返す気になれず、聞こえないふりをしてスイカをかじる。
「彼女が嫌じゃなければ一緒に帰ってきてもいいのよ。三人で楽しく過ごせたらいいなって思って」
「…………」
母親が何やら妄想を語り始めたが、無心にスイカにかぶりつく息子を演じる。
つまるところ、珠希さんには帰る実家がない。だから来年は一緒にここにと考えたのだが、友達を連れて帰ってくるのとはちょっと訳が違う気がする。珠希さんも息苦しいのではないのだろうか。
そのうえ、ここは学校からはとんでもなく遠いし、田舎なので目新しいものも何もない。そういう意味でもわざわざ連れてくるのは気の毒。『ないな』という結論に至ったのだ。
……しかし、そんなことはお構いなしといった感じで、母親は歌うように言う。
「あのね、私ね、娘も欲しかったの。だから、お嫁さんが来てくれるかもしれないなんて思ったら嬉しくて。まって、環がお婿に行くことになるのかしら。まあどっちでもいいけども」
「ぶぶぶっ」
さらに多くのスイカの種が飛ぶ。ああ、スイカの名産地の出来上がりだ。母親の頭の中では、すでに幸せの鐘の音が鳴り響いている模様……おいおい。速いのは魔術を打つ速度だけではないのか。息子はついていけないぞ。
「環? 聞いてる?」
「ああ、もう、いい加減にしてくれよ……ほんと頼むから」
ぶっきらぼうに返した俺に少し口を尖らせる母親。なんだか気まずくなり、ため息をつきながらスイカの皮を置き頭をかく。傍に置いたスマホに目をやったとき、画面がパッと光った。
『珠希さん・よかったね。ご飯もお風呂も済んだから、いつでも大丈夫です。待ってます』
画面をなぞると、そのほかにも透子や森戸さん、先生からも返信が来ているようだ。スマホを片手に立ち上がった。
「あら、友達とお話しするの? 片付けはするから、行ってもいいわよ」
「……そうする、ありがとう。ごちそうさま」
と、取り敢えず聞くだけ聞いてみるか?『一緒に俺の実家に帰らないか』だなんて、なんだか告白するより緊張するけど。
俺は自室に戻ると一息つき、メッセージアプリの通話ボタンを押した。
「……あ、もしもし、珠希さん?」
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