Ep.05 新嘗祭

 朝廷で新嘗祭にいなめさいに向けて準備が進められる中、河上娘かわかみのいらつめ(11)は馬子の屋敷にいた。仰向けになって、屋敷から見える青空を静かに眺めていた。


 そこに、馬子の手下の東漢駒やまとのあやのこま(30)が歩いてきた。彼は細身で弱々しく見えるが、剣術には長けている。いざという時に力を発揮する男である。


 そんな駒は河上娘を心配したのか、優しく声をかける。

「姫、外で少し散歩しませんか」

「そうだな……」

寝転んでいた河上娘は上の空で聞いていた。

「気分転換にもなりましょう」

駒がそう言うと、河上娘はニコリと微笑んでゆっくり起き上がった。

「駒、赤ん坊の様子を見に行かないか」

「姫の弟君ですか」

「そうだ。久しぶりに様子を見てみたい」


 河上娘の言う弟とは、すなわち馬子の五番目の子供のことである。まだ生まれたてのため、馬子の屋敷ではなく少し離れた葛城県の山小屋で安全に暮らしていた。


 駒は少し困惑して答える。

「しかし散歩の距離としては、いささか長すぎます……」

「気分転換だ!行こ!」

「はい……」

こうして、河上娘と駒は、生まれたての弟がいる山小屋へと旅立った。


* * *


 その頃、朝廷は――

 

 てっぺんまで昇った日は雲に隠れ、建物や広場は夕方かと思うくらい薄暗くなっている。役人たちはところどころで群れを作って話していたり、何か書物や道具などを運んでいたりして忙しそうである。今宵の新嘗祭の準備も、大詰めを迎えている。


 朝廷の広場・朝庭の門に、厩戸皇子うまやどのおうじ(13)が現れた。すると、雲の切れ間から日の光が差し込んできた。その光線は門にいた厩戸皇子を明るく照らす。

 その幻想的な光景を見て、その場にいた役人たちは驚き「厩戸様だ!」と騒ぎ出した。ひざまずき礼をする役人もいた。


 厩戸皇子は時の大王・橘豊日尊たちばなのとよひのみことの息子、すなわち皇太子である。後世では聖徳太子の名で広く知られている。のちに摂政となり約三十年に渡って国政を担うが、それはまだ先の話。


 ひざまずく役人たちを見て、厩戸皇子は冷静に語りかける。

「仕事を続けよ」


 朝庭の奥では、蘇我馬子そがのうまこ(36)と豪族の一人・葛城烏那羅かつらぎのおなら(41)が話をしていた。厩戸皇子は彼らのところへ向かった。


 厩戸皇子は丁寧に礼をして言う。

「お勤め、ご苦労様です」

馬子は厩戸皇子を見て答える。

「皇子、今晩の新嘗祭に向け着々と準備を進めております」

「私は二度目の参加ゆえ、わからぬことが多い」


 葛城烏那羅は胸を張って、得意げに言う。

「皇子のおそばには、この葛城烏那羅が付いております。ご安心くださいませ」

厩戸皇子は葛城烏那羅の堂々とした様子を見て、穏やかに答えた。

「頼りにしておるぞ」

葛城烏那羅は「はっ!」と言って、礼をした。


* * *


 日が沈んだ。新嘗祭が始まる。


 朝庭の建物が松明で照らされる。数十人の役人と神事に携わる巫覡たちが朝庭に集まっている。


 朝庭の奥には、大王の住まい・大殿がある。祭りを行うにあたって、物部守屋もののべのもりや(37)、坂本糠手さかもとのあらて(45)、大伴咋おおとものくい(39)、そして馬子などの重臣たちは大殿の庭に集められた。


 大殿の入口から、中臣勝海なかとみのかつみ(44)が松明を手に持って歩いてくる。続けて巫覡が、三種の神器の一つである剣を入れた箱を運んでくる。彼らは庭の中央に置いてある神聖な薪の前で立ち止まった。


 中臣勝海は、手に持っていた松明を神聖な薪に置いた。薪は炎を上げ、大殿の庭を明るく照らした。中臣勝海は役目を終え、馬子ら重臣のもとへ合流した。


 点火の儀式が終わると、大殿に祭服を着た厩戸皇子が入場した。皇子の後ろには、葛城烏那羅の姿があった。

 葛城烏那羅は「こちらでございます」と言って、皇子を案内する。厩戸皇子が御座に着くと、神事に携わる人々が和楽器を演奏し始めた。


 最後に、白の祭服を身にまとった、大王・橘豊日尊(48)が大殿から出てきた。ゆっくりと中央の焚火まで歩き、その場に正座した。


 大殿の庭は、神聖なる焚火の燃え盛る音、そして古来の伝統ある音楽で包まれた。


 大王の前には、今年収穫された穀物から作られた料理と、酒の入った盃が用意された。大王は炎に向かって深々と礼をして、目を閉じながら言った。

「お恵みに感謝申し上げます」

群臣一同も大王に合わせて、一斉に礼をした。


 中臣勝海が大王に言う。

「それでは大王。お召し上がりくださいませ」

大王は酒の入った盃を手に取る。その場にいた全員が、大王に注目していた。


 大王は盃を口元まで運んだ。盃をゆっくりと傾ける――


 和楽器で奏でられた音楽は一番の盛り上がりに達した。それに合わせるように、焚火の炎も勢いよく燃えている。


 すると突然、大王の手が震えだし、持っていた盃を地面に落としてしまった。そして大王自身も地面に倒れこんでしまう。


 その姿を目の当たりにした中臣勝海は、口を開けたまま立ちすくんでいた。ほかの重臣たちも怖気づいて動くことができなかった。


 葛城烏那羅は厩戸皇子の前に進み出て、皇子に大王の倒れた姿を見せないようにしていた。

 

 馬子は状況を理解したのか、急いで大王のそばに向かった。倒れこんだ大王の横にひざまずき必死に声をかける。

「どうされましたか!」

大王の返答はなかった。馬子はものすごい形相で重臣たちを睨みつけた。

「急ぎ大殿へ運べ!」


 重臣たちはおどおどして、誰も動かなかった。それを見て、馬子は大声で叫んだ。

「新嘗祭は中止じゃ!」

群臣は動揺を隠せない様子だった。

「何をしておる?大王をお助けせよ!」

群臣たちはようやく動き出し、大王を大殿へ運び込んだ。


 馬子や群臣による必死の救助を、守屋はただ傍観していた。


* * *


 葛城県の山々は静かな夜を迎えている。その山中の小屋の中に、河上娘と東漢駒の姿はあった。

 河上娘はニッコリ笑って、赤ちゃんを抱いていた。東漢駒もその様子を見て微笑んでいる。

「よく見ると、姫と弟君は顔が似ていますね」

「そうか!」

「大臣にも似てるなあ」

東漢駒の発言に、河上娘は一瞬表情が曇った。

「駒、一言余計だぞ」


 河上娘と駒は赤ちゃんを囲んで、楽しそうに話していた。赤ちゃんもニコリと笑っていた。


 山奥で誕生したこの小さな赤子は、やがて皇族をも上回る強大な権力を掌握することになる。その名は、蘇我蝦夷そがのえみし(0)。


(つづく)

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