回想④クラック・イン・ザ・クリスタル
地下牢の戦いの後、ジェイドによって救い出されたヒースは、すぐさま大聖堂へと運び込まれた。白大蛇の毒と氷結魔法はヒースの身体を深く蝕んで、一刻を争う事態だったという。治療と浄化を同時に行い、なんとか一命を取り留めたのだが、回復した後もヒースは大聖堂に留め置かれることになった。
「生まれてこの方、大聖堂で暮らしていますので、解呪のためにクリアネル様の御力を頼られる方々を多く見てきました。しかし、あんなにも強い呪いは初めて見ます。……生還できたことが不思議なぐらいです」
優しい冬の陽が降り注ぐ大聖堂の中庭に、古ぼけた白木のベンチがある。背もたれに背中を着けずしゃんと座る光神の司祭は、痛みを振り落とすようにゆるりと首を振る。隣に腰掛けたジェイドは、その横顔を見つめながら粟立つ二の腕を摩った。
毒から生還したヒースの身体には、蛇が這ったような鱗の模様がべったりと残って、皮膚に同化しようと蠢いていたという。齢七十になる司祭をして、初見の呪いとは。白大蛇の執念に戦慄が走る。
「殺す気はないのでしょう。死の間際まで追い詰めて、自ら闇を選び、堕ちるように唆す……奴らがやりそうな手管です」
「なんと恐ろしい……」
「ええ。しかし、弟も私も光神の御元に踏み留まりました。試練に打ち勝ったのです」
力強く言い切ったジェイドを眩しそうに見つめて、司祭は穏やかな笑みを浮かべた。
「弟君にお会いになりますか?」
身体に残る呪いの痕跡を完全に除去するため、ヒースは三日間、修道士と同じような業を行うこととなった。今は聖堂で祈りを捧げている頃だろうか。
「いいえ。今は、まだ。……食事について文句を言うようなら、容赦無く没収して構いません。三日ぐらい食べなくても死にはしませんから」
ジェイドの無慈悲な物言いに、司祭は、ほっほっと朗らかに笑って頷く。
「運動量が多いお若い騎士様には、我々の食事では物足りないでしょうね」
精進潔斎中ゆえ、食事は硬いパンと酸味の強いワイン、野菜と豆の煮物にチーズと僅かばかりの果物しか食べられないので、そろそろ文句が出る頃だろうと、ジェイドは思っていたのだが。弟は今のところ大人しく従っているらしい。眼に見える呪いの痕には、流石に生命の危機を感じたのだろう。
一度呪いの痕が刻まれれば、それが完全に消えるまでの間、呪いに侵され易くなる。今、ヒースはいつも以上に無防備な状態である。ベルローザ大聖堂は光神に護られているので、ヒースにとって、ここ以上に安全な場所は無い。本人も本能的に理解しているのかもしれない。
――本当は、シュセイルの近衛騎士よりも、聖堂付きの聖騎士になる方が、あいつのためには良いのだが……。
安全を考えれば、出国禁止令を出すなどしてヒースをローズデイルから出さない方がいい。しかし、弟は近衛騎士になることを目標に据えた時から前向きに生きるようになったことを思えば、その生き方を安易に否定することはできない。
兄の説得に応じる素直な弟ではない。ジェイドが口を出せば余計に意固地になるだろう。弟の性格はよく知っている。
悩むジェイドに天啓を授けるように高い空に聖堂の鐘が鳴り響く。午前の祈りが終わったようだ。弟と鉢合わせないよう、俗世に身を置く兄は退散しなくてはならない。
「それでは、私はこれで。……弟をよろしくお願いいたします」
「承りました。善き光が共にあられますよう」
ジェイドを追いかけるように、少し肌寒い風が中庭を通り抜けて、閑散とした冬の庭に甘い白梅の香りを運ぶ。春は近いが、兄弟の雪解けはまだ遠い。
††
検死の結果、リリティナの太腿の内側には蛇の咬傷があった。毒と氷結魔法で仮死状態になった身体を、白大蛇が乗っ取ってリリティナのフリをしてクレンネル兄弟に近付いたのだ。
操られたリリティナに、どの程度自由があったのかは分からない。しかし、最後のあの瞬間、リリティナは銃を握ったジェイドの手を掴んで、自ら銃口に身を晒した。
もし操られている間もリリティナに意識があったなら、婚約者ジェイドを裏切り続ける白大蛇の悪行に、リリティナの精神が耐えられなかったのかもしれない。或いは、長く仮死状態にあった身体が限界を迎えたことを覚り、終わりを望んだのだろうか。
いずれにせよ、彼女はジェイドの手で終わることを選び、ジェイドもまたそれを望んだ。
早春のまだ冷たい雨の中、リリティナの葬儀に参列したのは、ジェイドと護衛のエドヴァルド卿のみだった。大公の婚約者のものとは思えない、簡素で寂しい葬儀。人間関係の希薄さがまるで彼女の人生をも薄くぼかしていくようで。
せめて、手を下した自分だけは彼女の存在を忘れまいと、ジェイドは納骨室の扉を閉める時まで付き添ったのだった。
墓地を出たところで記者に囲まれ、婚約者のこと、弟の不貞のこと等、質問責めに遭ったが、大公は沈痛な面持ちで何も語らず、足早に馬車に乗り込んで帰城した。と、翌日の新聞には書かれていたという。
††
事件後、初めて弟ヒースと対面したのは、事件から十日後のこと。
その日、ジェイドは執務室で溜まりに溜まった書類を捌いていた。毒で倒れていた五日間に加えて、地下牢から弟を救出して丸一日費やし、リリティナの葬儀と事後処理に追われ四日間、ようやく執務室の椅子に座った頃には、決済が必要な書類が山のように積み上がっていたのだった。
書類の山を見た時は気が遠くなったが、机に向かい、ペンを握って仕事を始めれば頭も手も動く。いつの間にか集中して書類を読み込んでいたところ、執務室の扉の向こうから言い争う声が聞こえてきた。警備の騎士とヒースが揉めているらしい。
「……如何なさいますか?」
ジェイドの机の側に控えていた家令のスペンサーがおずおずと問う。ジェイドはため息をついて目頭を押さえた。
まだ会いたくないというのが本音だった。
しかし、避け続けてもいつかは顔を合わせる。時間の経過が癒やすものもあれば、より拗らせてしまうものもあるだろう。腹を括るしかない。『入れなさい』と頷けば、スペンサーが扉を開けてヒースを招き入れた。
「兄さん。お忙しいのは分かりますが、少しでいいので話を聞いてください。お時間は取らせません」
「手短に頼む。見ての通り、仕事が山積みでな」
書類から顔を上げず、ペンで机に積み上がった書類を指し示すと、ヒースは「あぁ、はい」と少し弱ったように呻いた。
「身体の調子はどうですか? 五日間生死を彷徨ったと聞きましたが」
「すこぶる悪い。だが、時間も仕事も待ってはくれない。……すまないが、本題に入ってくれ」
「……はい」
顔を上げれば、しゅんと消沈した弟の美貌を見ることになるだろう。そうすればきっと絆されて、何もかも許してしまう。今なおジェイドを苛む苦痛さえ忘れて。
頑なに顔を見ようとしない兄の意志の固さを目の当たりにしたヒースは、その時に歩み寄ることを諦めたのかもしれない。
「僕は、いつまで謹慎しなくてはいけないのですか? 仕事を休んで来ているので、そろそろシュセイルに帰らなくてはなりません」
「半年は身を隠した方が良いだろう。わざわざ醜聞の只中に身を投じることはない。ほとぼりが冷めるまで、休職してはどうだ?」
「そういうわけには……僕を待ってくれている人も居ますし」
「ディーン殿下には、私からご報告しよう。これ以上、当家の恥を晒すことはない」
騎士という生き物は、恥や名誉といった言葉に敏感である。それは、弟ヒースも例外ではない。空気よりも先にヒースの視線が変わったのを肌で感じた。
「恥って……まさか、僕がゴシップ誌に書かれているようなことをしたと……兄さんは僕を疑っているのですか?」
『お前を疑ったことなど無い』と言えば、弟はローズデイルに留まるだろうか?
――否。兄とのわだかまりが解消されて、心置き無くシュセイルに旅立つだろう。多少の逆風に晒されようと、兄は自分を信じてくれていると思えば、自信に繋がる。
では、もしジェイドがヒースと反対の立場をとったら?
――シュセイル社交界のゴシップと偏見の眼が容赦無く降り掛かるだろう。その時、心折られずに近衛騎士のままで居られるだろうか?
ジェイドは答えを沈黙で返した。ヒースは机の前に詰め寄って、持っていたゴシップ誌を差し出す。見るに堪えない見出しに頭痛がする。
「……どうして否定しないんですか? 僕が無実なのは兄さんも分かっているでしょう? 兄さんが記者の前ではっきりと『リリティナが公王暗殺未遂の黒幕だった。弟は利用されただけだ』と言ってくれたら、それで……」
「リリティナは悪くない」
どうしても聞き捨てならず、ジェイドはヒースの言葉を遮ってしまった。弟にしてみれば、冤罪をかけられ兄弟諸共死ぬか大蛇の夫にされるところだったのだ。彼女を憎むのも当然のことだろう。
しかし、あの寂しい葬儀に参列したジェイドは、今以上に彼女の名誉が汚されるのを看過することはできなかった。彼女の本当の姿を知る者は、ジェイドしかいない。彼女の真実を話せる者は、自分しかいないのだ。
「どうしても出て行くと言うのなら止めない。好きにするが良い。だが、これだけは言っておく。言動には責任を持て。自分の意志で出て行くのなら……しばらく帰ってくるな」
曲がりなりにも予言者サフィルスの息子だ。予言の力はなくても、危険を察知する能力は高い。その上で、帰ると言うのだから勝算があるのだろう。シュセイルにはディーンもフィリアスもアルファルドも居る。親しい人々の眼がある方が安全かもしれない。
危険があるとすれば、戦神の加護が及ばない浮島外へ移動する時だが、近衛騎士が遠征や行事で浮島外へ出る頃には、白大蛇の呪いも消えているだろう。
だが、そんな兄の心も口に出さねば無いのと同じ。弟には届かなかった。
「……分かりました。僕は、僕の意志で出て行きます。次に婚約するときは、僕に連絡は要らないから! どうぞお幸せに!」
血を吐くように声を荒げて、ヒースは執務室を飛び出して行った。乱暴に閉められた扉の向こうで、靴音が遠ざかっていく。
「よ、よろしいのですか? 陛下は弟君を思って……」
出て行くタイミングを失ったのだろう、居た堪れず青い顔のスペンサーが掠れた声で囁く。ペンを放り投げて椅子にもたれたジェイドは頭を抱えた。
「……よろしくはないな。だが、浮島は戦神のお膝元だ。母上のご出身はシュセイルだから、あいつにもシュセイルの血が流れている。戦神が守護してくださることを期待するしかあるまい」
浮島四島に雪女が出没するというニュースがローズデイルのジェイドの元に届いたのは、ヒースが大陸縦断鉄道に乗った後のことだった。
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