回想②光と闇の相生相剋

 身を隠した木の向こうを、巨大なナニカがずるずると這っている。両耳を塞いで蹲る幼い弟を胸にしっかりと抱き留めて、ジェイドは周囲の様子を窺った。

 太陽は分厚い雲の向こうに在って、真夏の昼だというのに薄暗く、湿気を含んだ風がツンときつい獣臭を運ぶ。追跡者の正体はまだ分からないが、弟の怯えようから何となく想像はついている。


 ――おそらく蛇か、魔物だろう。


 蛇は闇と欲の女神ネフィスの下僕。太陽と光の神クリアネルの子孫であるクレンネル家の者を唆し堕落させようと、しつこく付き纏う闇の御使いだ。そう簡単には逃してくれないだろう。


 ジェイドは静かにコートを脱いで、弟の頭から被せると、ベルトのホルスターに提げた魔光銃に手を伸ばす。

 魔光銃は銃床にはめ込まれた魔石が魔力を増幅して弾丸として発射する武器である。中でも掌に収まるぐらいの大きさの短筒の新型魔光銃は、ローズデイル大公国の南にあるグランシア帝国で開発された最新鋭の武器だ。

 当時グランシアの帝国学院に留学していたジェイドは、人脈を駆使していち早く入手し、分解して機構を研究していたのだが、ジェイド自身が実戦で使うことは全く想定していなかった。


 後にシュセイルで剣技体術を習得して騎士になる弟とは逆に、武術を嗜み程度にしか習得しなかったジェイドも、この日ばかりは後悔せずにはいられなかった。――それでも、やるしかない。


「大丈夫だ。兄さんが側に居る」

「……うん」


 震える弟の背中摩ると、弟はジェイドのシャツを掴んで縋り付いてくる。七歳になった弟は、留学先であまり馴染めていないようで、実家に帰ってくるとカルガモの親子のようにジェイドの後を付いて回る。その日も、遠乗りに出かけようとしたジェイドに食い下がって、無理やりついて来たのだった。


 馬の背に弟と相乗りして思いっきり駆け、あまりの清々しさに護衛の騎士たちを振り切ってしまったのはほんの出来心だ。

 見晴らしの良い草原から白樺の森に入り、湖の畔で休憩していると、乗ってきた馬がけたたましい悲鳴を上げて逃げ出してしまった。俄かに周囲が暗くなってきたかと思えば、霧のような細かい雨が降り始める。盛夏の気温も相まって、じっとりと濡れた服が身体に纏わりついて息苦しい。まるで見えない糸が張り巡らされているように、心身を重く憂鬱にさせる。


 ふと、風が無いのに背中に寒気を感じたジェイドは、弟を抱えて木陰に身を隠した。雨に紛れて瘴気のような腐った臭いがする。何か善くないものが近付いて来る。しかし、ジェイドが異変を察知する前に、弟が森の奥に何かを見てしまったようで、蛇に睨まれた蛙のようにその場から一歩も動けなくなってしまった。迂闊だったと、言わざるを得ない。


 ぱきりと枝が折れる音に振り向くと、今度は別の方向からシューシューと細く空気が抜けるような音がする。ジェイドの眼には見えないが、向こうには二人の様子が見えているらしい。周囲で音を立てて不安を煽り、逃げようと木陰から出たところを襲おうとしているのだろう。


「我が祖神、太陽と光の神クリアネルよ。どうか貴方の子らをお護りください。我らの行手を阻む闇を、御身の栄光で照らし、正しき道にお導きください」


 見上げた曇り空に儚い祈りを紡ぐ。だが、太陽の威光は遥か遠く、祈りは届かない。そもそも祈りが届いたとして、彼の神が子孫に手を差し伸べたことなどあっただろうか? 


 クレンネル家は光神の子孫を名乗りながら、その恩寵を授かったことは無い。いつだって、人の手で運命を切り拓いてきた。

 此度もまた、祖神は空の高みからみているだけなのだろう。期待するだけ無駄だと自嘲して、ジェイドは魔光銃のグリップを握り締める。コートを被った弟の頭に口づけて、木陰からそろりと這い出した。


「に、兄さん! だめ……!」

「動かないで、じっとしていなさい」


 縋る弟の手を避けて、魔光銃に魔力を充填する。ざわざわと白樺の森が身を捩り、気配がジェイドに迫る。撃鉄を起こし、細雨の向こうに銃口を向けた時、ゆらりと、森が歪んだ気がした。銃口の先、白樺の木の一本だと思っていたそれは、白い大蛇の腹だった。


 地上から真っ直ぐ上に伸びた腹。頭はどこに、と考えるより先に、その場を横跳びで逃れる。上から襲い来る大蛇を躱し、横面に二発光の弾丸を撃ち込むと、弾丸は着弾と同時に白い炎を上げ、大蛇の横面を黒く焦がした。追撃せんと照準を合わせるが、発射の際の反動で手首が震えている。魔光銃は高威力だが魔力を使い過ぎる。


「……っ、反動がすごい。改善の余地あり、だな」


 勿論、生きて帰れればの話だ。

 光の弾丸は効いているようだが、硬く分厚い皮膚に阻まれ致命傷にはならない。数撃てば急所に当たるかもしれないが、魔力切れを防ぐためにも連発はできない。ならば、絶対に当たるところまで引き付けて、柔らかい口内から頭を狙うしかない。


 注意を引くことに成功したジェイドだったが、戦い慣れていない彼に、戦闘の勘は働かない。ジェイドがまごつく間に、長い蛇の腹がざらざらと草葉を鳴らし、一瞬で囲い込んで退路を断つ。顔を傷付けられた大蛇は怒り狂い、星を呑み込む空の虚のごとき顎門を開く。牙から滴る毒液が腥い臭気を放って下草を焦がした。


 ジェイドは魔光銃を握る手首に、もう一方の手を添え、震えを抑え込む。チャンスは一度きり。大蛇が大口を開け、食い付く寸前を狙う。

 しかし、機会チャンスは訪れなかった。大蛇が腹で地面を打ち弾みを付けて飛び掛かる瞬間、こつんと小石が蛇の頭に跳ねた。大蛇が振り向いた先には、顔を露わにした弟の姿。


「兄さんから離れろ!」

「逃げろ! クリス……!」


 自分の美貌が、闇のものを強く惹きつけることを弟はよく理解していた。ジェイドと弟クリスティアルが並べば、闇のものは必ず弟を狙うことも分かっていただろう。

 果たして、弟の望み通り、大蛇の視線は弟に釘付けになった。震えて動けない弟に、大蛇が食らいつくその時、霧雨に烟る森を真白な光が焼いた。


「――まったく、無茶するなぁ! 僕の子だから仕方ないか」


 苦笑混じりののんびりとした声。閃光で麻痺した視力が戻ると、すぐ側に父と弟の姿があった。ジェイドは「兄さん!」と泣き付く弟を呆然と抱き締める。


「……父上が何故ここに?」

「医者の眼に君たちがえたんだ。まずいことになると思って追ってきたら、銃声が聞こえた」


 父はため息を吐いてジェイドの手元に顔を向ける。いつものサングラスをかけていて視線の向きはわからなかったが、魔光銃をしっかり見られてしまったようだ。


「あ……これ、は、その……」

「お説教は後。先にこっちを片付けよう」

「はい。ですが、どうやって?」

「後は任せて。君はそのままクリスティアルを捕まえていて」


 ジェイドと弟に背を向けて、父はゆったりとした足取りで大蛇に近付く。大蛇は鎌首を擡げて牙を剥くが、父の纏う光の魔力に気圧されて長い身体を縮こませるように後退る。

 子供たちから充分に離れると、父はサングラスを外して魔眼を開いた。


「去れ。さもなくば、この眼がお前の死を暴くぞ」


 瞬間、声にならない大蛇の悲鳴が森を揺らした。大蛇の眼は溢れ落ちそうに大きく見開かれ、閉じることも逸らすことも叶わない。地面に縫い付けられたように頭を垂れ、カハッと苦しげな息を吐きながら痙攣する。


 大蛇を見下ろす父がどんな顔をしていたのか、ジェイドは知らない。ただ、「失せろ」と命じた父の声があまりに冷たく、身体の芯に鈍く響いてやまない。

 大蛇は雷に打たれたかのように、大きく身体を引き攣らせると、怨嗟を吐きながら長い身体を慌ただしくくねらせて森の中に逃げていった。


 大蛇の尾先が視界から消えた頃、バチンと何かが切れた音と共に白い光が弾けて、父はその場に膝を着き眼を覆う。苦悶に震える父の姿に、ジェイドは胸を刺し貫かれたように呼吸ができなかった。

 人でも動物でも魔物でもない、竜や神獣に近い大蛇の寿命は、やはり竜並に長いのだろうか。遠い未来の死を視るには、父に残された生命力では足りなかったのだろう。


「兄さん!! 父上、眼が……!」


 父に駆け寄った弟は悲痛な声でジェイドを呼ぶ。


「大丈夫。見た目ほど痛くはないよ」

「でも!」


 いつも通りの優しい父の声。両眼を押さえる手から滴る血を見なかったら、聞き流してしまいそうなほどに穏やかだった。曇り空の下、雨が残した湿気にぼやけた視界に、血の赤だけが色を保っている。


「父上……申し訳ありません。こんな、ことになるなんて。俺は……」


 痺れるような罪悪感が身体を駆け抜けて、ジェイドはふらりと父の前に両手を着いた。


「君たちが無事で良かったよ。怪我は無い?」

「俺たちのことなんて、どうでもいいんです! 父上の眼は、ローズデイルの宝ではないですか! なのに……こんな……」

「ジェイド」


 呼びかける声はいつもと変わらず優しくて。取り乱しそうになったジェイドは続く言葉を飲み込んだ。差し出された手を取り顔を上げれば、父の笑顔に迎えられる。


「もう大丈夫だから。一緒に帰ろう」


 雨は止んで、風に千切れた雲間から光が降り注ぐ。草葉に浮いた雨粒に乱反射して、目に滲みるくらいに眩しい。閉じた瞼から血の涙を流す父の髪にも光が跳ねて、聖人を前にした罪人のごとくジェイドは項垂れる。


「光あるところに影ができる。何人も自分の影から逃れることはできない。この先もずっと、命尽きるその時まで、君たちは闇に狙われ続けるだろう。……だから、助け合いなさい。互いの影を照らす光になりなさい。影を完全に消すことはできなくても、弱めることはできるはずだ」


 ――兄弟仲良くね。

 そう続けた父の眼に何が視えたのか、今となってはもう誰にも分からない。




 ††




 あれから十年以上経って、今更どうしてそんな夢を見たのだろうか。毒と裏切りに苛まれ、傷付き疲れ切ったこの心と身体でも、まだ『生きよ』『戦え』と父は言うのか。


 唇から胃までが腫れ上がり、灼けつく痛みと熱に飛び起きては、気絶するように眠る。いっそ生を手放すことができれば楽になれるのに、血に染み付いた公王たる責任と父との約束がそれを許さない。


 生と死の間を彷徨い、ジェイドが眼を覚ました五日目の朝。生還を祝う母や家臣、使用人たちの声が聞こえた瞬間、熱い涙が目尻から伝い枕を濡らした。身体は毒を追い出そうと高熱を放ち、ジェイドの生命と怒りを燃料に激しく燃えている。

 こんな時、真っ先に大騒ぎしそうな男の声が聞こえないことに気付いたのは、目覚めて五分も経たない頃のこと。


「……弟は、クリスティアルは、どうした?」


 ジェイドの問いに、時間が凍りついた。

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