回想①翡翠の憂い
その日は朝から不安定な天気だった。しかし、かなり前からその日を楽しみにしていた恋人を消沈させたくなくて、ジェイドは街の外まで彼女を連れ出した。街の外といっても、街壁を出てほんの僅か五分の距離にある小さな花畑までである。
大公というジェイドの立場上、必ず護衛が付くので二人きりになることはできないが、仕事をやりくりして捻出した貴重な逢瀬の時間に、不満などあろう筈がなかった。
小さな花畑が見渡せる丘にピクニックシートを敷いて、二人で並んで座って穏やかな時間を過ごす。恋人のリリティナは、小動物のような可憐な女性である。子爵令嬢でありながら、気取ったところはなく、一緒に居てほっとするような温かさを持っている。父が亡くなってから、家門と家族を守るため常に気を張って生きてきたジェイドにとって、彼女と過ごす時間はかけがえの無いものだった。
結婚した後も、偶にはこんな風に二人で過ごそう。
ジェイドの小さな願いに、リリティナは満面の笑みで「ええ、そうしましょう!」と答えてくれた。
――その笑顔に、ジェイドはその後何年も囚われることになる。
二人が帰り支度を始めた頃、にわかに暗雲が立ち込めて、雨が降り出した。通り雨だ。すぐに止むだろうと近くの樹の下で雨宿りをしていると、案の定雨はすぐに上がった。
さて、街に帰ろうか。と、彼女に手を差し伸べたその時。
「ジェイド様!!」
リリティナはジェイドの身体を突き飛ばした。護衛の騎士がジェイドの背中を支えて、水たまりに尻もちをつくことは避けられたが、リリティナの突然の暴挙に誰もが立ち尽くしていた。
「……っ、リリ? どうしたんだ?」
リリティナの蒼ざめた唇が、はくはくと何事かを訴えていた。ジェイドが異変に気付くよりも先に、護衛騎士の反応は早かった。ジェイドを背に庇い、護衛騎士は剣を一閃。リリティナの足元、スカートの下から飛び跳ねた蛇の頭を刎ねた。
「リリ! 咬まれたのか!? ……毒蛇か!? すぐに浄化しよう」
倒れ込んだリリティナを抱きとめて、ジェイドはぐったりとした彼女の背に掌を当てる。しかし、浄化の魔法が発動するよりも早く、リリティナはジェイドの背中に腕を回してきつく抱きついた。
「いいえ。咬まれてはいません。ジェイド様のお手を煩わせるわけにはいきませんので、浄化の必要はありません。……ちょっと、驚いてしまって……大騒ぎしてごめんなさい」
「謝らなくていい。むしろ私が礼を言わねばならない。ありがとう。私を助けてくれたんだね」
大胆なリリティナの行動にやや面くらいながら、ジェイドは彼女の背中を撫でる。彼女の肩越しに蛇の死骸を探したが、いつの間にか消えていた。まさか、頭が無いのに動いたのか? 雨に濡れた身体に悪寒が走った。
本当に咬まれていないのか、毒は無いのか、もしかしたら咬まれた場所は男には見せづらい場所なのかもしれない。街に帰ったら病院に行こう。リリティナにそう告げようと視線を下ろすと、リリティナは表情が消えた仮面のような顔で、じっとジェイドの顔を見つめていた。
「……リリ?」
ジェイドの背中に回された腕はきつく、女性の細腕とは思えなかった。目を細めて口角を上げて、笑顔らしい顔を作り上げると、彼女は声に熱と色を乗せて囁く。
「私、怖いの……どうか、私を守ってくださいね。ジェイド様……」
リリティナがティアフ子爵の養女だと知ったのは、正式に婚約するための話し合いの席でのことだった。ジェイドの義理の両親になる子爵夫妻も貴族らしくない純朴な二人だったので、大公に娘を嫁がせることに非常に恐縮していた。長く権力争いの最中に居たジェイドには、彼らの振る舞いが新鮮に感じられて、好感を持ったのも無理からぬことである。
『持参金など必要無い。むしろ結納金を受け取ってほしい。あなた方が大切にリリティナを育ててくれたから、私たちは出逢うことができたのだから。必要なものがあったら言ってほしい。私にできることなら何でもしましょう』
ジェイドの破格の申し出に、子爵夫妻は『これ以上、隠しておくことはできません』と、子供に恵まれなかった夫人が孤児院からリリティナを迎えた旨を告白してきたのだった。
改めて見ると、なるほど。子爵は金髪に青い瞳、子爵夫人は栗色の髪に青い瞳、しかしリリティナは銀髪に榛色の瞳と、夫妻のどちらにも似ていない。
身分の差が結婚の障害になった場合、身分の低い方が貴族の養子になり釣り合いを取るのは、昔からある手法である。子爵夫妻は思い詰めた様子だったが、高位貴族に売りつけるためにリリティナを引き取ったわけではないことは、打ち明けてくれたタイミングからしても明らかだった。
ジェイドが図らずとも、手間が省けていたというだけのこと。大公の結婚ともなれば、血筋がどうのと騒ぎ立てるものが居そうだが、大公家の跡取りにしては遅過ぎる結婚に、家臣一同はリリティナを逃すまいと必死のため、異議を申し立てた者は居ない。
黙って結婚したとしてもジェイドが子爵夫妻を責めることはないが、婚約を結ぶ前に申告してくれた善良さに、ジェイドは心を打たれた。
無事にリリティナと結婚して家族となったあかつきには、義両親を大事にしよう。大公の居城を改修して、いつでも迎えられるように密かに準備を始めたのだった。
未来の義両親に挨拶を済ませたその夜、ジェイドは弟のクリスティアルへ手紙を書いた。内容は、真冬の祝日に合わせて婚約式を執り行うというものである。返事は五日で返ってきた。ローズデイルからシュセイル間の距離を考えれば、受け取ったその場で返事を書いて送ったのではないかと疑うような早さである。
封筒の差し出し人の見慣れた癖字は、心なしかいつもより上下左右に伸びやかに踊って見えて、微笑ましい気分になる。
『運命の人を見つけた幸運な兄さんへ
婚約おめでとう! 結婚式はいつにするの? 時期によっては参列できないかもしれないから、婚約式に参加させてもらうね。近いうちに帰るから、その時に詳しく話すよ。
愛してる。貴方の不運な弟クリスティアル』
便箋に書かれた返事はほんの数行だったが、婚約するジェイドよりも喜んでいるんじゃないかと錯覚するほどだった。
――仕事の手紙じゃないというのに、自分の用件だけ書きやがって。
ジェイドが苦笑したところを、ちょうどリリティナに見られていた。
「あら、何か良いお知らせですか?」
「弟のクリスティアルからだよ。……ええと、たしかこの辺りに……ああ、これだ」
執務室のマントルピースの上、乱雑に飾られた写真立ての中に、弟がシュセイル王国の近衛騎士団に入った時の写真があった。シュセイルの全騎士の上位四十名しか袖を通すことが許されない青の制服をかっちりと着こなし、澄まし顔で写っている、美しい、自慢の弟。
「シュセイルの近衛騎士なんだ。婚約式に来てくれるから、その時に紹介するよ」
慣れとは怖いものである。
ジェイドの眼から見れば、相変わらず綺麗な顔だという感想しか出ないが、初めて見る者にとってはそうではないということを失念していたのだ。
「……ええ。ぜひ。仲良くしていただけたら嬉しいです」
そう答えたリリティナは、食い入るように弟の写真を見つめて、何度も写真を愛おしそうに撫でていた。
リリティナが憑かれたように青い宝石を買い漁っているという報告を受けたのは、それから数日後、クリスティアルがローズデイルに着く直前のことだ。
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