PM19:30 雪女の夫問い

 白竜はその優美な姿と引き換えに、竜としての強さを失った美しいだけの竜と云われてきた。しかしその実、堅い甲殻の凹凸の無い流線型のしなやかな身体は、飛ぶことに特化している。飛行速度は飛竜種最速で、全速力で飛べば、北空の王者銀竜でさえも容易に追いつけないという。


 ――まさか、父君から全速力で逃げて来たんじゃないよね?


 今まさに白竜の最高速度を身を持って体験しているヒースは、鞍も手綱も無い竜の首にしがみ付いて、そんなことを考えていた。

 ヒースが吹き飛ばされないように、シルフィは背中に風の結界を張ってくれている。しかし、追っ手を引き離すために高度を上げ過ぎたせいで、せっかくの結界が意味を為さない。空気の薄さと身体にかかる圧に、ヒースは失神寸前だった。


「……っ、シルフィ! 島から、離れないで! い、きが……」

「ヒース!? わかった!」


 シルフィは上昇を中断し、風に翼を広げると、なるべく揺らさないように徐々に高度を下げる。


「大丈夫? ヒース、苦しい? シルフィ高い飛ぶの好き。人間、息できない。シルフィ忘れるした。謝罪する。ごめんなさい」

「はぁ……一瞬気を失いそうだったけど大丈夫。ありがとう」


 ぐったりともたれたまま優しく背中を叩けば、シルフィは嬉しそうにクルルと喉を鳴らした。シルフィが背中に人を乗せたのは、おそらく初めてのことで、勝手が分からなかったのだろう。特別に気に入っているヒースを背中に乗せて、ハイになってしまったのかもしれない。

 ともあれ、シルフィのおかげで最大のピンチから脱することができた。高度を下げて呼吸が楽になったので、ヒースは大きく深呼吸して白竜の背に座り直す。


「シルフィ! 雪女はまだ付いてきてる?」

「いる。ずっと、ヒース見てる」

「怖っ!」


 腕で顔を隠しながら振り返ると、橋の上空に白く細長い紐のような物体が身体をくねらせながら飛んでいるのが見えた。その姿はヒースがこの世で最も嫌う生物によく似ていて……。


「あ、れは……竜?」


 そうだと言って欲しくて、ヒースは浮かんだ答えと真逆の答えを出してみたが、願い虚しくシルフィはあっさりと否定した。


「竜ちがう。白大蛇。パパ、蛇嫌い。同じする、パパとても怒る」

「蛇ぃっ!? 雪女の正体は蛇なの!?」


 最も聞きたくなかった答えに全身が粟立ち、思わず声がひっくり返った。しかしシルフィはヒースの怯えように気付かず、追い討ちをかける。


「肯定。白大蛇、雌大きい。雄小さい。夫いっぱいいる。ヒース捕まる、蛇の夫になる。シルフィそれは嫌」

「僕だって絶対に嫌だよぉ!!」


 雪女が探し求める男は金髪の美男で、その男を夫にするために花嫁衣装で現れるのだろうか。しかしいくらヒースが蛇に好かれるとはいえ、一度取り逃したヒースを、正体を現してまで追いかける理由に説明がつかない。もっと別の理由があるはずだと推測して、彼女の言葉を思い出す。


『貴方の匂い、私の探し人によく似ているわ。恥ずかしがらないで、お顔を見せてちょうだい』


 ヒースは彼女の声に聞き覚えがあった。善良そうな優しく甘ったるい声で近付き、クレンネル大公家を引き裂こうとした毒婦。兄ジェイドの毒殺を謀り、ヒースを毒牙にかけたあの女の声によく似ている。


「花嫁……花嫁になるはずだった」


 親戚に獣人が居る関係から匂いには特に気を使っているので、彼女が言っているのは香水の香りのことだと思われる。ヒースが今使っているのは、ローズデイルに帰省中に作ってもらった新作の香水である。前に使っていたものとは違うが、同じ薔薇を原料とした香水なので似ていると表現したのかもしれない。

 以上のことをまとめれば、自ずと答えが出た。


「彼女が探しているのは僕、ってことだよね」


 ぽつりと溢した思いつきが、身体にべったりと纏わり付くようで気持ちが悪い。


 ――だから、ディーンは雪女の顔を僕に見せたくなかったんだ。


 ヒースの心に、ディーンへの不信感が広がっていく。しかし、何の覚悟も無く不用意にあの女の顔を見ていたら、おそらく冷静では居られなかっただろうと思う。怒りに任せて報復しようとするのか、それとも恐怖に凍りついて動けなくなるのか、どちらにしても今より状況が悪くなっていただろう。


 ディーンは正しい判断をしたと、ヒースの理性は思う。けれど、自分の与り知らぬところで勝手に守られることを、ヒースは素直に受け入れることはできなかった。

 行き場の無い憤りに引っ張られそうになった思考は、シルフィの呼び声に引き戻された。


「ヒース! 蛇、橋に行った。もう安全」


 目の前で別の誰かを襲い、ヒースを誘き出すつもりなのか、白竜に追いつけなかった白大蛇は、狙いをアダムに定めたようだ。長い尾をくねらせて空中を泳ぐように飛び、爆走する竜車を狙って付き纏っている。襲撃されれば荷台のディーンが応戦するしかないが、橋や竜車を破壊されたら逃げ切るのは不可能だ。


「シルフィはまだ飛べる? 大丈夫なら、二人がイオス島に入るまで雪女を引きつけたい」

「たくさん飛べる。ヒースはシルフィが守る」


 ――やっぱり、僕は守られる方なのか。

 胸の内に少しだけモヤモヤを抱えながら、ヒースはシルフィの背中をポンと叩いた。


「ありがとう。よろしくね」


 自分だけ安全圏に隔離され、大事に守られたままでいられるか。――答えは、否だ。




 ††




 白大蛇はヒースを攫った白竜を追いかけて飛び去ったが、しばらく飛んだ後、追いつけないと悟って引き返して来た。イオス-シス大橋の石の欄干に並ぶ魔光灯は凍らされて、周囲を照らすのは星明かりしかない。その僅かな光を反射して、牛一頭を丸呑みできそうな白く太い蛇が、橋を行く竜車に並走している。


「あれが、雪女の正体ですか?」


 竜車と同じ速度で飛ぶ白大蛇を横目に見ながら、アダムは手綱と鞭を握りしめた。白大蛇は襲撃の機会を狙っているのか、付かず離れずの距離を保って、こちらを監視している。


「らしいな。白大蛇……白蛇竜とも呼ばれる大蛇だ」


 竜車の荷台に立ち、白大蛇を睨んで大剣を構えるディーンが応じる。


「蛇竜? 竜の一種なのですか?」

「足も翼も鰭も無いが、這ったり飛んだり泳いだりできて、竜並の魔力と人間並みの知性を持っているデケエ蛇のことを、便宜上そう呼ぶんだ」


 蛇竜種って分類は無いし、シュセイルに棲む竜族は大蛇族と敵対しているから、蛇に竜という名称を付けて分類しようとすると竜族が激怒するけどな。と、ディーンは胸の内で付け足す。竜の話になると毎回説明が長いと親友ヒースが文句を言うので、いつの間にか解説を飲み込むようになってしまったのだった。


「竜並みの魔力と仰いましたね?」

「ああ。俺たちを竜車ごと凍らせるぐらいの力はあるってことだ。だが……」


 会話の途中、イオス島の入り口が見えてきたところで、白大蛇が行動に出た。長い全身を隠すように橋の下に潜り込んだ白大蛇に、ディーンは衝撃に備えて剣身に風を纏わせる。瞬間、女が長い白髪を振り乱して竜車の側方からアダムに飛び掛かった。


 白髪から覗く顔は鱗に覆われて凹凸が無くのっぺりとしている。耳のあたりまで裂けた口から先端が分かれた舌がチラチラと覗く。ドレスで膨れた腰から大蛇の胴体が連なり、シス島で見た美しい人間の女性の姿は見る影も無かった。


 白大蛇は細腕を伸ばしてアダムを絡め取ろうとしたが、ディーンの風が壁となって弾いた。初撃は難無く防いだが、白大蛇の魔力量と体重で繰り返し攻撃を受ければ長くは保たないだろう。白大蛇はニタリと嗤い、手中に氷の斧を作り出すと風の壁に斬り込んだ。

 風と氷、二つの魔力が鬩ぎ合い、暴風雪となって荒れ狂う。じりじりと風の壁を侵食し抉じ開ける氷の斧。壁の向こうに狂気に爛々と光る琥珀色の双眸が見えると、ディーンは壁の裂け目に捩じ込むように大剣を突き出した。


「吹っ飛べ!」


 剣に纏った風を一気に開放すると、薄緑の魔力光が弾け、凄まじい追い風に竜車が一瞬浮いた。白大蛇が怯んだ隙に、竜車は大きく距離を取る。激しい揺れに空中分解しそうなほど車体が軋んで、アダムが不安そうに振り返る。


「殿下! ご無事ですか!?」

「大丈夫だ! お前は俺が必ずイオス島に送ってやる。前だけ見てろ」

「は、はい!」


 なんだか嬉しそうなアダムの声が気になりつつも、ディーンが再度剣を構えたその時。高い空から速度を上げて滑空した白竜が、白大蛇の脇腹に強烈な蹴りを見舞って追撃を阻止した。竜車と白大蛇の間に割って入った白竜の背には、何故か得意気な顔のヒースが騎乗している。


「おい! この馬鹿っ! なんで戻ってきた!?」


 初めて雪女の顔を見た時に、ディーンはその顔が大公の婚約者に似ていることに気が付いた。そして、ヒースが彼女の声に反応したことで、雪女の狙いはヒースだと確信に至った。せっかく白竜と共に逃げ果せたのに、今ここにヒースが戻って来ては、雪女の思う壺ではないか?

 しかし、ディーンの問いには答えず、ヒースはやや引き攣った笑顔を浮かべる。


「ディーン。後で話があるから。――逃げんなよ?」

「はぁ!? 俺がいつ……」

「早く行って」

「おい待て! ヒース!!」


 怒るディーンを乗せた竜車は速度を上げて、イオス島方面に走り去って行った。白竜はイオス島を背に、橋の上に降り立ち、いつでも飛び立てるように身を屈めている。ヒースは白竜の背に騎乗したまま、ヒースの顔を食い入るように見つめる女を見下ろした。


「余所見するなんて浮気者だね、リリティナお義姉ねえ様。貴女が欲しいのは、この僕だろう?」


 長い大蛇の尾が歓喜にうねり、橋が揺れる。蛇の正体を表した顔に、美しかったあの人の面影が見えないことは、唯一の救いに思えた。

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