PM19:10 逃走、疾走、爆走
地吹雪が芝生の上に真っ白な氷筍を作り出す。大人の身長ぐらいの大きさのそれは、吹雪に撫で削られるうちに円錐型に形を整えられていく。まるで、裾が大きく広がったドレスを着た女性のような形に。
「ヒース。振り向くな。顔を隠してろ」
「……っ、わかった」
ディーンの落ち着いた声に、ヒースは幾分か冷静を取り戻して短く答えた。ヒースの手足に絡み付こうとする氷は、白猫姿のシルフィが氷の魔法をぶつけて阻止してくれている。ヒース自身はまだ耐えられそうだが、鉄柵はそもそも子供の落下を防止するためのもので、長時間成人男性の体重を支えられるようにはできていない。ぎいぎいと耳障りな音を立てて歪む鉄柵に、ヒースの焦りは募っていく。
「――ねぇ、あなた」
艶かしく絡みつくような女の声に、ヒースの身体は強張った。
「その、声……」
「応えるんじゃねえ!」
「だめっ!」
聞き覚えのある声に、思わず声の主の方に顔を向けそうになったが、白猫とディーンの腕が視界を遮って事無きを得た。雪女に面が割れるのは、危険だということはヒースもよく理解している。しかし、実物を見ないことには正体がわからないし、二人で見た方が情報の精度が上がるはずである。
――ディーンの反応は過敏じゃないか? まるで、僕に雪女の顔を見せたくないかのような……。
「貴方の匂い、私の探し人によく似ているわ。恥ずかしがらないで、お顔を見せてちょうだい」
ずるずると何か重いものを引き摺るような音が、凍りついた鉄柵の向こうを這っている。ぎしりと握り潰されたかのように鉄柵が大きく歪んで、バラバラと氷の破片が降り注ぐ。美しい女の姿として見えている部分は、巨大な本体のほんの一部分なのかもしれない。
逃げきれるか? と弱気が囁いた時、ヒースのすぐ背後まで後退してきたディーンが、凍りついた地面に閃光石を叩きつけた。真昼よりも尚明るい凄まじい閃光が弾けると同時に、ディーンが叫ぶ。
「飛べ!」
ヒースは鉄柵から手を離し、白猫を抱いて島を蹴った。重力の激しい抱擁に、地上まで落ちるかと思いきや、意外にもあっさりと足が着いた。ぐにゃぐにゃしてバランスを取るのが難しいが、ディーンの風の魔力で作られた薄緑のリボンのような足場が、島の断崖に沿って上へと伸びている。
「長くは保たない。急げ! ……って、その猫、まさか仔竜か!?」
「うん。シルフィが助けてくれたんだ」
「そうか。無事に保護できて良かった」
ホッと息をついたのも束の間。閃光が消えた瞬間、ヒステリックな女の叫び声が聞こえた。癇癪を起こして鉄柵と低木を根こそぎ薙ぎ払い、巨大な何かが島の上でのた打っている。
「うわぁ……怒らせちゃった?」
「くそ、復活が早えな!」
木と氷の破片が降り注ぐ中、二人は風のリボンを必死に駆け上って島の上へと戻る。硬い地面に足が着くと、ようやく人心地がついた。
辿り着いた場所は、白猫を見つけた島の西端の公園から、島の側面を回り込んで北側に在る展望台だった。ディーンが叩き割った閃光石が、雪女発見の合図になったのだろう。シス島中から騎士が集まり、公園の方へと走っていく。大きな戦闘になれば、剣戟の音が聞こえたり魔法の光が見えそうだが、然程騒ぎにはなっていないようだった。
既に雪女は姿を消したのか、或いは……。
ふと、背中に冷たい風を感じて、二人は振り返った。展望台の手すりに細く青白い手がひたりと掛かる。もう一方の手が掛かり、ゆっくりと長い白髪の女が手すりの向こう側から這い上がって来る。ヒースは顔の前に白猫を掲げて、隣で目の前の雪女らしき怪異に見入っているディーンに囁いた。
「ど、どうする? ここで戦う?」
「……いや、ここは民家が近い。イオス-シス大橋まで誘導する! 行くぞ!」
ディーンは踵を返して走り出す。ヒースも必死に後を追うが、背後の殺気は二人の後ろを一定の距離を保って付いてきている。振り向いて、雪女との距離を確認したいが、ヒースの肩に乗った白猫は先程から追っ手を睨んで毛を逆立てている。確認せずとも、危機的状況であることは間違いない。
「おのれ……おのれ……小賢しい真似を……! 凍らせて、少しずつ手足を砕いてやろうか……ふふ、ふ、ふふ」
「後ろで、なんか怖いこと言ってるー!?」
「耳を貸すな!」
街中に入れば追っ手を撒くこともできただろうが、獲物認定を受けた今、見失ったぐらいでは見逃してくれないだろう。雪女として見えている部分以外が、どの程度大きいのか分からない。大型竜サイズだとしたら、街中で暴れられたら魔法強化された建物の中とて無事では済まない。かえって被害を大きくしてしまうかもしれない。逃げながら、広い場所に誘導するしかない現状だが、問題はどこで迎え撃つつもりなのかということである。
「さっき橋って言ったけど、橋に行ったらまた壊されるんじゃない?」
ヒースが前を行くディーンに問えば、ディーンは答えを用意していたかのように「その時はその時だ!」と答えた。
浮島地方において、各島を結ぶ橋は王宮に並ぶ重要地点である。橋の近くには必ず騎士団の詰所が在り、そこには有事の際に使用する竜撃槍や
体力に自信があるディーンといえど、必死に走りながらそこまで説明する余裕は無い。ヒースは疑問を抱えたままディーンの後を追う。
島の外縁を回るように走ること数分。前方にイオス-シス大橋の石の欄干が見えてきた。橋の袂に見知った顔を見つけて、ヒースが声を上げる。
「あれは……アダム卿!?」
ディーンの注文通りの飾り気の無い質素な竜車の御者台で、アダムが眼を丸くしている。
「アダム、竜車を出せ!」
「は、はいっ!」
走って来る二人と、その背後の追跡者を見比べていたアダムは、ディーンの声に我に返り車を引く雪羊竜に鞭を打つ。ヒースとディーンが飛び乗った瞬間、竜がブオオオと
「殿下! あれは一体……」
「無事に逃げ切れたら全部話す。悪いが全速力でイオス島に行ってくれ!」
「は。かしこまりました!」
もの言いたげな顔をしていたが、アダムはそれ以上は訊かず、操縦に徹した。
「水、水がほしい……」
「ヒース! へばってる暇はねえぞ! まだ追いかけて来ている!」
「しつこいなぁ、もう!」
疲労困憊で荷台に倒れ込み、泣き言を言うヒースの背中で、それまで大人しくしていた白猫が、ちょんちょんとヒースの頭を叩く。
「シルフィ、もっとお助けできる。乞う、ご期待」
「本当に?」
ヒースは起き上がり、半信半疑で白猫らしき生き物を抱き上げた。まだ変身魔法が拙いようで、額にはオパールの宝石のような短い角があり、真っ白な被毛にはところどころ鱗が混じっていて尻尾の形状も猫のものではない。背中にはおもちゃのような小さな翼がぴこぴこと揺れている。
猫なのか竜なのかよくわからない謎生物は、前足を伸ばしてヒースの頬に触れる。ぷにっとした肉球はひんやりとしていて、やはりこの仔は猫ではないのだと思い直す。
「あいつ、ヒースが欲しい。シルフィ、それはとても嫌。あいつ、パパより弱い。ヒース、パパの縄張りに行く。とても安全。しあわせ」
「パパ? 銀竜様の縄張りって? ……まさか、島から飛び降りて雪山に行けってこと?」
「ちがう」
ヒースは言葉の断片を拾って繋げてみたが、シルフィの意図とは違うようで、シルフィは耳をしょんぼりと下げて首を振る。
「パパの気配、あっち、ある。縄張り。安全」
シルフィが前足で示したのは、竜車の進行方向――イオス島だった。最も軍事から遠いイオス島に、銀竜との縁があっただろうかとヒースは思いを巡らせ、ディーンと眼が合った。銀髪に褐色の肌の大男、銀竜はディーンによく似た姿に変身していたが、それは――。
「それって……もしかして、イースファル王の銀竜角剣!?」
イオス島の王国立博物館に常設展示されている国宝銀竜角剣は、持ち主だった第五代イースファル王の崩御後、約七百年イオス島に鎮座している。その間イオス島はただの一度も戦禍に巻き込まれたことは無い。
「竜の骨角から作った武器には竜の加護が宿る。銀竜シルファーナス殿は今もご健在だからな。生きている竜の武器は特に強い」
「だからイオス島には被害者が居なかったんだ!」
荷台の二人が盛り上がっているところに、御者台のアダムが入りづらそうに口を挟む。
「では、このままイオス島に向かうということでよろしいですか?」
「そうしてほしいけど、雪女はイオス島に入れないんでしょう? だとしたら当然……僕らを阻止しようとするよね?」
ヒースとディーンは幌が掛かった荷台の天井を見上げる。人影が見えた瞬間、ざくりと女の腕が幌を突き破った。こじ開けて中に入ろうとする雪女に、シルフィがフシャーと毛を逆立てて吼える。短い角に水色の魔力光を灯して杖を振るうように大きく頭を回すと、白猫の身体は白い光に包まれて一気に膨張した。
荷台が重量に軋んで速度が落ちたのを感じて、ヒースは恐々眼を開ける。大きな真珠の塊のような艶やかな白が視界を占めていた。雪山で見た白竜よりは小さいが、成体サイズに近い大きさの白竜が翼を折り畳んで窮屈そうに荷台に収まっている。ヒースが顔を上に向ければ、労いなのか愛着なのか白竜がヒースの頭を鼻先でつつく。
「このままは捕まる。ヒースはシルフィと飛ぶ! 安全!」
白竜は幌を内側から破り、雪女を突き飛ばして夜空に飛び出した。白竜は竜車と並走するように飛び、前足を伸ばしてヒースの身体を抱き上げ背中に乗せると、高度を上げて竜車から遠ざかる。
「殿下、クリスティアル卿が竜に攫われましたが……?」
「……だな」
背後に雪女を引き連れて飛び去る白竜を見ながらアダムが呟くと、ディーンは疲労感たっぷりに返したのだった。
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