AM10:00 僕にも好みがあります

 ヒースは資料の山を抱えて営舎内の談話室に向かっていた。今の時間帯、営舎の中には非番の騎士か、事務方しか居ない。談話室に行っても誰も居ないだろう。資料を広げて読んでも、お咎めは受けないはずだ。と、思っていたのだが、見通しが甘かったようだ。


 両手に資料を抱えていたので扉を肘で開けようと身を屈めた時、聞こえてしまった話題に躊躇したのが運の尽きだった。立ち聞きするつもりはなかったが、室内ではちょうど世間話が盛り上がっていた。


「まったく、どのツラ提げて戻ってきたのやら」

「どの面って、あのおっそろしくお綺麗な面だろうよ。怖いよなぁ、嫁にはしばらくガレア島に来るなって言っておかないとな」

「そうそう、嫁とか婚約者は隠しとけよ〜。大公閣下みたいに奪われたくなきゃな! ははは!」


 ゴシップ紙にすっぱ抜かれた時から覚悟していたことだが、いかに楽観的なヒースであっても、生の誹謗中傷が耳に入れば気分が悪い。自分だけが言われるのならば耐えられたが、兄を揶揄されては黙っていられなかった。


 ヒースは静かに扉を開いて、ガハハと笑う先輩騎士の背後に忍び寄った。まだ何が起きているか知らず馬鹿笑いを続ける騎士の正面で、一緒に笑っていた二人の同僚がヒースを見上げて笑顔のまま凍りつく。ヒースは持っていた資料を置いて、先輩騎士の背後から抱くようにするりと腕を首に回して耳元で囁いた。


「隠すのは細君だけでよろしいのですか?」

「ひっ……!?」


 先輩騎士は背骨に串を通したかのようにピンと背筋を伸ばして、言葉にならない悲鳴を上げる。


「貴方自身は誘惑されないと、どうして言い切れるのですか?」

「いや……あのっ」

「そんなに僕に興味がお有りなら、一度試してみますか? ……ねぇ、せ・ん・ぱ・い?」


 ヒースが優しく首筋を撫でながら耳元で熱く囁くと、先輩騎士は顔を一瞬で真っ赤にした後、見る間に青ざめる。


「わ、悪かった! 俺が悪かった! 勘弁してくれ!」

「……僕だって好みじゃないおっさん口説くのは嫌ですよ。どんなに綺麗でも、好意を持っていない人に迫られたら、怖いし不快なんですよ。お分かりいただけました?」

「はい。すみません……」


 さすがは腐っても近衛騎士。育ちは良いようで、素直に謝罪する。だからといって、ヒースが許すかどうかは別の問題だが。


「僕はその手の誹謗中傷には慣れているので聞き流しますけど、兄は冗談では済まないタイプなので、本っ当に気をつけてくださいね。敵と見なしたら、お家共々欠片も残さず潰されますよ」


 つい先日も、誹謗中傷を書いた記者と法廷で争って慰謝料をガッツリ取ってましたし。とヒースが続ければ、先輩騎士たちは完全に沈黙した。金の亡者と揶揄されるクレンネル大公の恐ろしい戦歴の数々を思い出したのだろう。

 先輩騎士たちはテーブルに額を着ける勢いで謝罪して、そそくさと退散していった。ひとり残ったヒースは、大きなため息を吐いて項垂れる。


「はぁ〜……何やってんだろうな僕は」


 落ち込んでいる暇は無い。ヒースはすぐに気を取り直し、空いたソファに腰掛けて捜査資料を開いた。


 ――事件の始まりは三週間前。ヒースがローズデイルにいた頃のことである。

 最初の犠牲者はジェロム・トーベック男爵と下男。二人はシス島の空港で氷漬けの状態で発見された。


 雪女という名称は、意識を取り戻したトーベック男爵の証言から、新聞記者が付けたものだ。雪の夜、真っ白な長い髪に、花嫁衣装のような真っ白なドレスを着た美しい女怪が、若い男性を誘い氷漬けにするというセンセーショナルな事件は、瞬く間に浮島中に広がった。


 事件を知った人々の中には、騎士団より先に雪女を捕らえてやろうなどと考えて、見事に返り討ちにされた者たちも居る。事件発生初期の犠牲者の半分はこういった無謀な若者たちだったので、騎士団もいまいち捜査に乗り気ではなかったという経緯がある。


 そんな状況が変わったのは、治療に従事した医師と近衛騎士団団長フィリアス卿の見解が公表されてからだ。

 医師によると、犠牲者は記憶が混濁して、凍り付く直前のことを覚えていないという。そのため、雪女の氷魔法には記憶障害を起こす神経毒のような作用があるとフィリアス卿は推定している。

 以後、無謀な若者は減ったが、夜間外出禁止令を無視して襲われる者が後を絶たない。


 最初の二人以降犠牲者は、シス島で十五人、ガレア島で四人(十七人)、エア島で一人。犠牲者の職業は様々だが、夜まで働いている商人と騎士が圧倒的に多い。


 注目すべきは、イオス島の犠牲者が未だ無しというところと、ガレア島の犠牲者数の隣に書かれた十七人という数字だ。今朝ヒースが読んだ新聞には犠牲者は二十人と書かれていたが、捜査資料には昨夜の時点で合計三十七人と書かれている。

 公表されていない十七人の犠牲者は、雪女事件を受けて夜間の警邏けいらのために建物外に出た騎士たちだった。


 犯人を捕まえるための夜間警邏が逆に犠牲者を増やしている。そして、いくら騎士が見回ろうと犯人に対して抑止力になっていない現状には、騎士団の面目丸潰れである。正確な犠牲者数を公表できないのはそういった理由からだが、偽っていた事実が明るみに出れば、世論の批判を浴びるだろう。


 何より、王の膝元でこれ以上事態が悪化すれば、国王自らが動かざるを得ない。当代の戦神たる国王アレクシウスが剣を取れば、そこはたちまち戦場になる。一千年の都が、戦火に見舞われるのだ。


「絶対に、止めないと」


 ヒースはソファに寄りかかって天を仰ぐ。

 かつて一度だけ、戦神の権能である蒼き炎を目にしたことがある。その時の屈辱を忘れた日は、一日たりとて無い。

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