AM7:00 嫌な予感はよく当たる

 思い出すのは、冬の煌びやかな星空も霞むほどに、煌々と夜を照らすクリスタルのシャンデリア。心を浮き立たせる軽快な音楽と、美味しいワインと肴。そして、祝福と賞賛の中で艶やかに微笑む美しい女性。――その、絡みつくような視線。


 国内外から来賓を招いた新年の祝賀会で、ヒースの兄であるローズデイル大公ジェイド・サーシス・クレンネルは婚約を発表した。結婚式はまだ三ヶ月も先だというのに、城内は既にお祭り騒ぎで、祝いの言葉と笑い声が溢れる幸せな夜だった。


 本来なら兄の側に控えて、失礼をはたらく者が居ないか眼を光らせるのだが、何かと比べられることの多い兄弟ゆえに、ヒースは最初の挨拶が終わると主役たちから離れた。

 今日ばかりは、自分ではなく兄が目立つべきだ。自分が側に居ると、良くも悪くも人目を惹いてしまう。


 ヒースはひとり静かに祝おうと、テラスに出たところを祖父の代から仕える老執事ブライアンに捕まったのだった。今夜は使用人の皆も祝ってほしいと、兄からのお達しで、仕事を終えた者たちから続々と祝賀会に参加している。


「私は嬉しいのです。公王陛下ほど才能に溢れ、しかし驕ることのなく民を思う心優しい領主が、どうして理不尽な評価をされるのかと悔しい思いをしていたのですが……此度のご婚約でそういった声も少なくなることでしょう」


 すっかり酔いが回っているのか老執事がさめざめと泣くので、ヒースは離れるに離れられず、少し丸まった背中をぽんぽんと叩く。昔は見上げるほどに大きくて怖かった彼の背を、追い越したのはいつのことだろうか。


「ははっ泣くのが早いよブライアン。今から泣いてたら、兄さん夫婦に子供が生まれた時はどうするの?」


 政略結婚が多い貴族社会において、ヒースの兄は大公という地位にありながら結婚はおろか婚約さえしていなかった。兄に対する世間の評価は厳しいもので、人格に問題があるだとか、美し過ぎる弟のせいで女性を愛せないだとか、聴くに耐えないもっと下世話な噂も流れていた。


 実際は、ローズデイル大公国としてシュセイル王国から独立したばかりで、財政を立て直し国を運営するのに忙しくて結婚を考える暇がなかったというのが結婚しなかった理由の全てである。

 大公の側でその仕事ぶりを見てきたローズデイルの家臣たちは大公の忙しさをよく理解していたし、大公が如何に国と民を愛しているか知っている。随分と悔しい思いをしてきたことだろう。


「後は、クリスティアル坊ちゃんが身を固めてくだされば、私はもう思い残すことはございません。胸を張ってサフィルス様の元へ逝くことができるのですが……」

「あはは! 残念だけど、僕はまだまだ結婚する気は無いから、そう簡単に引退はさせないよ。これからも兄さんを支えてくれなきゃ困るよ。父上がいらっしゃった時代を知るのはもう君だけなんだから」

「坊ちゃん……私は、貴方にも……」

「あら? こんなところに隠れていたのね」


 涼やかな女性の声に、老執事が言葉を飲み込んだ。三ヶ月後にヒースの義姉になるリリティナが、テラスの入り口に立って微笑んでいる。


「休憩がてら昔話で盛り上がっていたのですよ。お義姉さまこそ、主役がここに居てもいいのですか?」


『貴女の知らない話題で盛り上がっています。話し相手をお求めなら他へどうぞ』と暗に伝えたのだが、彼女は艶然と微笑んだまま老執事を見やる。お前が遠慮しろと言っているも同然である。


「私も休憩よ。ご一緒してもよろしいかしら?」


 本音を言えば、結婚前の女性と薄暗いテラスで密談なんてお断りしたかったのだが、ヒースが良い言い訳を考え付く前に、老執事は気を利かせて大公妃となる女性に一礼した。


「それでは私はこれで」

「……えっ、ああ、うん。飲み過ぎないでよー!」

「心得ております。坊ちゃんも、お酒はほどほどに」

「はいはい。あと五杯で終わりにするよ」


 味方が去って急に心細くなったヒースは、酒を取りに行くフリをしてテラスを出て行こうとしたのだが、許してはもらえなかった。二人のやりとりを見ていたリリティナが、近くに居た給仕からスパークリングワインのグラスを二つ受け取って、ひとつをヒースに差し出す。


「乾杯。まだしてないでしょう?」

「そうでしたっけ? ……では、お二人の幸せを願って。乾杯」

「ありがとう」


 グラスを軽く合わせ、リリティナが飲んだのを見てから、ヒースも一口飲んだ。口の中で炭酸が弾けて、爽やかなワインの香りと辛味が残る。警戒し過ぎただろうかと、再度グラスに口を付けた瞬間、祝賀会場から悲鳴が上がった。


「公王陛下!!」

「誰か、医者を!」

「給仕を捕えろ!」


 会場の中央で、血を吐いて倒れる兄の姿に、ヒースの身体から血の気が引いていく。


 ――今すぐに犯人を捕まえなければ。


 駆け出したヒースは、数歩で膝からくずおれた。足に力が入らない。唇は痺れて、喉から胃の腑までが焼けるように熱いのに、手足は凍るように冷たい。視界がぼやけて光が目の奥に突き刺さる。床に倒れる寸前、弧を描く真っ赤な唇を見た。


「な、にを……のませ……にいさ……っ!」


 会場内の人々は大公と暗殺者に注目して、誰もテラスで倒れるヒースに気が付かなかった。

 滲んだ世界に、コツコツと不快なヒールの音が響く。大事そうにヒースを抱きかかえる様は、何も知らない者の目から見れば女神のように映っただろう。冷たい指が頬を撫で、ヒースの唇をこじ開ける。口移しで飲まされたワインは、なまぐさい血の味がした。


「幸せになれるわ。私たち、きっと」


 恋に恋する少女のような台詞を聞いたのを最後に、ヒースは意識を失った。



 ††



 身体が重い。動けない。、拘束されているのか?

 すぐ側に何者かの気配を感じながら恐る恐る眼を開ければ、ソファベッドで横になったヒースの腹の上に魔狼が寝ている。両側にも一匹ずつ居るので、モフモフ温かいが身動きができない。辛うじて動く首を回して壁掛けの時計を確認すると、時刻は朝の七時を過ぎたところだった。


 今日、アルファルドは朝から出勤だと言っていたので、ヒースは一緒に家を出なくてはならない。そろそろ起きて支度する頃だ。彼が起きたら、魔狼たちを回収してくれるだろう。重さと温かさに、ヒースが二度寝に落ちる寸前。三匹の魔狼が突然耳をピンと立てて起き上がった。


「んん? どうしたの?」


 彼らが見つめる先には玄関がある。物音を察知した魔狼たちは、ヒースの身体を踏み付けて一斉に玄関ドアに駆け寄った。カシャンと鍵が開いて、誰かが入ってくる。しかし、ヒースがその顔を確認するより早く、部屋から飛び出てきたアルファルドが抱き付いた。


「セラ!!」

「た、ただいま……くるしい……」

「おかえり。どこに居たの? 心配したよ」

「……ごめん。君を説得する材料を集めてたら夜になって、大学から出られなくなっちゃったから、父さんの所に泊めてもらったんだ」


 感動の再会場面だが、ヒースは知っている。

 昨夜から今朝にかけて、家にアルファルドの魔狼は三匹しか居なかった。残りの二匹は彼女セリアルカの護衛に付けていたのだろう。同じ島にある、家から徒歩十五分の大学に通うのに一体どんな危険があるというのか。呆れるほどに過保護である。そして、彼女が父親の元に泊まることも本人から聞くよりも先に知っていた。


 そういうところが重いって言われるんだぞ! とヒースは思う。もちろん、彼女に言いつけたりはしないが。


「大学から出られなくなっちゃったって?」


 ソファベッドに横になったまま、ヒースが声をかけると、セリアルカはアルファルドの腕の中で身動ぎして、声の方向に顔を向ける。すっかり寛いだ旧友の姿を認めて笑い出した。


「あっ、ヒース! 久しぶり! 来てたんだね」

「おかえりセラ。お邪魔してまーす」

「うん。ただいま」

「大学から出られなくなったって、何があったの?」

「ああ、そうか。君は帰省してたから知らないのか」


 慣れたもので、くっ付いたまま離れないアルファルドと狼たちは放っておいて、セリアルカは会話を続ける。ぐしゃぐしゃに乱れた短い黒髪を手櫛で整えながら、ポストから取ってきたばかりの新聞をヒースに渡した。


「最近、首都四島には“雪女”って呼ばれている女怪が出没していて、夜間外出禁止令が出ているんだ。午後十九時以降は警邏けいらの騎士以外は建物の外には出られないんだよ」


 新聞の一面には、『雪女出没。犠牲者は二十人に』の見出しと共に、首都四島の地図が掲載され、犠牲者が発見された場所が星印で示されていた。

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