後編:青き瞳の騎士
プロローグ
凍りついた雪の道を、魔物除けの鈴を激しく鳴らしながら一台の竜ソリが走っていた。雨雪に晒され紋章が掠れた箱型のソリの中では、若い貴族風の男が落ち着かない様子で頻りに窓の外を確認している。
浮島の玄関口、シュセイル王国北部最大の街イスハットに続く街道は竜車四台がすれ違うことができる広い道だが、深夜帯になれば人通りは無い。目を凝らしても、路肩に佇む街灯しか見えない。男は何度目かのため息をついて、乱暴にカーテンを閉めた。
イスハットの空港には、飛竜や飛行船の発着場と、浮島に昇るための巨大な
飛行船は王家が所有するものと、イスハット空港から浮島以外の各地へ行く定期便だけなので、貴族を含む一般庶民が利用できる手段としては昇降機しかない。その昇降機の最終便まで、後一時間ほどに迫っているため、御者はソリが跳ねるのも厭わずに竜を走らせているというわけだ。
最終便を逃せば、明日の朝まで地上で足止めを食うことになる。イスハットの街はそういった客を見込んで宿泊施設が多数在るが、貴族向けのものはどれもラグジュアリー路線なものだ。
曲がりなりにも貴族なら、多少の見栄は張らなくてはならないので、そういった高級宿泊施設を選ばなくてはならない。安宿に泊まった次の日には、どんな噂になっているか分からないのだから。
懐に余裕のある貴族ならば、暇そうな騎士に金を握らせて飛竜に乗せてもらうのも手だが、足元を見られるのが世の常。かなり、ふっかけられるという。余程の事情があって急ぐ者しか使わない手段である。
例えば彼のような、弱小家門の貴族にはとてもじゃないが選べる手段ではなかった。
上着の内ポケットから懐中時計を探り当て、いつもより早い気がする秒針を見つめながら、男は御者に声をかけようと席を立った。御者台の扉に手を伸ばした瞬間、男の身体は元居た座席に押し付けられ、ソリがガクンと止まった。
「おい! 貴様、どういうつもりだ!?」
止まった拍子に顔面を強かにぶつけて、赤い顔の男が乱暴に御者台の扉を開けると、そこに御者は居なかった。男はわなわなと怒りに身体を震わせ、御者台に括り付けられたランプをひったくる。ランプを高く掲げて夜闇の中に消えた御者を探したが、光の届く範囲に人影は見当たらなかった。
「主人をこんな場所に置き去りにするなんて……なんたる無礼! クビにするぞ!」
そう吐き捨てる声が震えるのは、自分の置かれた状況の異質さに気付いてしまったから。男は御者台に座り、ソリを牽く雪羊竜に鞭を打ったが、竜は暗闇を凝視してピクリとも動かない。
「動け! くそっ! 竜まで馬鹿にしやがって!」
もし御者が居眠りをして御者台から落ちたのなら、しばらく走って止まるか、暴走するかのどちらかだろう。あの止まり方は、まるで突然何かが飛び出して来たかのような急な止まり方だった。
こんな場所で、何が出るというのか。深夜の街道とはいえ、都会に近い場所だ。魔物除けの鈴が効かないような凶悪な魔物が出る筈がない。
最悪の想像を払拭せんと、男が鞭を振り被った時、ソリの側方から声が掛かった。
「もし……」
「ひぃっ!?」
若い女の声だった。恐る恐る御者台から身を乗り出してみれば、ソリの側に花嫁衣装のように真っ白なドレスを着た若い女が立っている。
「ど……な、なんだ!?」
一目見て、人ではないと分かった。
世界の最北に位置するシュセイルの極夜に、薄いドレス一枚で屋外に居たら一分と保たずに凍死するだろう。こんな場所に供の者も連れず、ドレスを着た女がひとりで居るなんて有り得ないことだ。
どうしてこんな所に? とか、お前は何者だ? と女に尋ねなかったのは、用件を聞いて早くこの場から立ち去りたかったからだ。人ではないと気付いてしまったことを悟られたら、何をされるか分からない。――御者は、生きているのだろうか?
「……浮島に行きたいのです。どうか、一緒に連れて行ってはいただけませんか?」
怪異にしては随分と丁寧な物言いに、男は目を瞬いた。よくよく見れば、今まで出会った中でも一、二を争う美しい女だ。
風に揺れる長い白髪は絹糸のような光沢を放ち、白いドレスから露出するほっそりとした首と肩はなんとも儚い。瞳孔が細長い琥珀色の眼も、見慣れたら恐怖よりもその透き通った美しさに魅入られた。
人外でなければ囲いたい……いや、これだけ美しい女の姿ならば、人でなくたって良いじゃないかと、警戒心が下心に塗りつぶされていく。男は笑みを繕って、女にソリを示した。
「あ、ああ。私もちょうど浮島に向かっていたところだ。こんな粗末な竜ソリでも良ければ乗るといい」
「まぁ、親切なお方。ありがとうございます」
ソリの方に乗ると思いきや、女は御者台の男の隣に音も無く乗り込んで来た。やはり、ソリが止まったのはこの女が原因だったのか、鞭打つ前に雪羊竜は再び走り出す。
竜が跳ねる度に、しゃらんしゃらんと魔物除けの鈴が鳴るが、隣に座る女は気にならないようだった。どうやら魔物ではないらしいと、男は内心で疑ったことを詫びた。
「寒くありませんか? ソリの中に居てもいいですよ」
沈黙に堪えかねて勧めると、女は男の腕に腕を絡ませてもたれ掛かった。服の上からでも分かる女の冷たい肌に、男は身震いする。
「いいえ。貴方のお側におります」
「あ、はは……そう、ですか。……えっと、浮島にはお仕事ですか?」
我ながらなんてことを聞くのだと思ったが、何か話していないと間が保たない。女は気を悪くした様子は無く、くすくすと笑い声を溢す。
「人を、探しているのです」
「探し人、ですか。貴女のようなお美しい方に探されるなんて幸せな御仁で……」
「美しい? 私の顔、美しいかしら?」
「え、ええ。とっとても、美しい、です」
「そう……ふふふ、そうなのね」
強い力で絡み付かれて、男は小さく悲鳴を上げる。男の横顔を食い入るように見つめる彼女の注意を逸らしたくて、男は問いを重ねた。
「な、名前や特徴は? こう見えて私は第一騎士団に友人が居るのです。特徴をお教えいただければ、お手伝いできますよ」
「貴方は本当に親切な方ね。では、お願いしようかしら。……彼はね、とても美しい人よ。美しくて優しい素敵な人。私の宝石箱に閉じ込めてしまいたいぐらいに」
最早、感覚も分からないほどに冷たくなった男の半身は、続く言葉を正しく聞き取ることができなかった。
「■■■……何処に……たの? 貴方に……の」
骨の芯まで凍りそうな夜風の中、歌うように囁く声だけが、不穏な熱を孕んでいた。
翌朝。首都四島のひとつ、シス島の空港に、氷漬けの男二人を乗せた竜ソリが放置されていたのを、空港職員が発見した。
シュセイル王国一の火魔法の使い手、フィリアス・マティス侯爵が緊急召喚され、仮死状態の二人を救出。なんとか一命を取り留めたものの、二人の被害者は記憶が酷く混濁して事情聴取ができず、捜査は暗礁に乗り上げた。
それが、首都四島を震え上がらせた“雪女事件“の始まりだった。
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