17 フォール・イントゥ・ブルー

 その日も、暗い雲が空を覆い隠していた。啜り泣くような雷鳴が低い空に響いて、湿った風が雨の予感を連れて来る。王家の霊廟を出た瞬間、むせ返るような夏草のにおいに耐えかねて、ヒースは襟元に指を入れて少しだけ伸ばそうと試みた。


 本当は今すぐボタンを外して寛げたいけれど、『騎士は主人を映す鏡。仕える騎士の有り様で主人の度量が知れるというもの。華美にする必要は無いが、身だしなみには気をつけろ』というのがヒースの師匠の口癖だった。その教えは、剣技と共にヒースの一部となって今も生きている。


 湿気でいつもより主張が激しい金の巻き毛を手櫛で直しながら草原の道を歩くことしばらく。胸に抱えた白い薔薇の花束がぴよんと揺れて、甘い香りが弾けた。真っ白な花弁に、涙のような雫が浮いている。俯いた視線の先で、草葉が揺れる。浮島に雨が降るのは珍しい。


 王家の墓所に最近加わった真新しい墓石の前によく見知った背中が見えて、ヒースは足を止めた。墓石を抱いて眠る竜の前で、彼は俯いたまま動かない。嫌な予感がして、ヒースが声をかけようとした時、男は徐に剣を抜いた。


 王家の墓所に帯剣したまま入れる者は、近衛騎士の他には王家の人間のみ。そしてその中で竜のために剣を抜く者は、ひとりしか思い浮かばない。ヒースは抱えていた花束を捨てて走り出した。


「やめろ! ディーン!!」


 踏みつけた泥濘が高く跳ねて、喪服の裾を重くする。溺れそうに苦しいのは、篠突く雨のせいか。ヒースは剣を振り被ったディーンを、真横から抱き付くようにして引き倒した。取り落とした剣は竜に届くことなく、草葉の間にざくりと突き刺さる。


「君は何をしてるんだ! 今、何を、しようとした!?」


 胸ぐらを掴んで、揺さぶって。やっと焦点が合った彼の瞳は、澄んだ北の空の色をしている。灰色の雨の中で、その色は殊更悲しく映った。


「……見ていられなかった」


 事の重大さに、ようやく理性が追い付いたのか。呻くように溢れたディーンの声は震えていた。


「アズラエルが痩せて、弱って、死んでいくのを……もう、これ以上見ていられなかった」


 墓石を抱く竜――青竜アズラエルは、ディーンの母御であり、ヒースの剣の師匠、竜騎士ベアトリクス・アスタール卿の竜だった。ベアトリクスと共に幾度も戦場を飛んだ勇敢な竜だったが、今は鱗の皮膚の下に骨が浮く程に痩せて、当時の面影は見えない。


「好きにさせてやると言ったのに……。俺には、その覚悟が足りなかった。……俺は、俺はなんてことを」

「そんな覚悟は誰にもできないよ。君は、アズラエルを苦しみから救いたかっただけだ」


 ぽつり、ぽつりと零れ落ちる告解を聞きながら、ヒースはディーンの隣に腰を降ろして冷えた肩を抱き寄せた。ぬるい雨に打たれて、ふつふつと胸の内に煮える思いに眼を逸らしながら。


「優し過ぎるんだ君は。今も、自分が悪者になればいいと思ってる」

「……それは違う。俺が、弱かっただけだ」


 空の低い所で雷鳴が啜り泣いている。まだ泣き止まない空に、午後の弔いの鐘が鈍く響く。


「天命を全うするまで生きていてほしい。でも……俺じゃあ駄目なんだろう? なぁ、アズラエル」


 半年前に眠った時から微動だにしない瑠璃色の竜の頭を撫でながら、ディーンは自嘲気味に笑う。その頬に伝うのは雨なのか涙なのか、ヒースには分からなかった。


 竜は己が“宝物”と定めたものに執着し、守る性質がある。大抵は金銀宝石といった財宝だが、稀に人間を宝物と定める竜がいる。所謂、竜と騎士の絆もこれに該当することが多い。


 しかし、人間を宝物と定めた竜は、竜の社会では生きられない。宝物を失った竜は気力を無くして衰弱死してしまうので、竜よりも寿命の短い人間を選べば、その先には緩やかな死が待っている。

 宝物を失ってから一、二年の間に新しい絆を結ぶか、別の宝物を見つけることができれば生き永らえるが、主人の後を追うのが殆どだという。


 ベアトリクスの死後、ディーンは何度も説得を試みたが、アズラエルは頑なに拒み続けた。それでもアズラエルを見捨てることができないディーンは、首都に帰る度に母の墓を訪れては、熱心にアズラエルに話しかけていた。

『一時でも良い。俺を選んでくれ』

 弱っていくアズラエルを前に、拒まれると知りながら語りかけるディーンの心こそ弱っていく。見ていられないのはヒースも同じだった。


 ――ああ、だから、だから僕は、竜という生き物が――。



 ††



 嫌な予感は、どうしてこうもよく当たるのだろう?

 風の魔法が使えないのだから、滑落しないように気をつけようと慎重に行動していたはずなのに。落石に巻き込まれそうになった仔竜を見たら、考えるよりも先にヒースの身体は動いていた。


 この仔の怪我はもう治っているのだから、庇わなくたって飛んで逃げられたのでは? なんて、後から気付いても遅い。


 暗雲を突き抜けて落ち行く先には、雪と針葉樹に覆われた渓谷が見える。

 落ちたらめちゃくちゃ痛いだろうなぁ。いや、絶対死ぬでしょ。

 どこか他人事のように思いながら、悪運も尽きたかと諦めかけたその時、胸に抱いた仔竜がモゾモゾと暴れ出した。


 この仔だけなら、飛べるだろう。そう思ってヒースが手を放すと、仔竜は小さな前脚でヒースの上着を掴んで必死に翼を広げた。

 せっかく怪我が治ったのに、自分の体重以上のものを掴んで飛ぼうなんて、また翼を痛めてしまう。どうにかして逃そうと前脚に触れると、仔竜はヒースの手に甘えるように角を擦り付ける。


「ピイ!」


 信じて! と言われた気がした。

 空の青が透ける美しい皮膜の翼を広げて、白竜の仔は頭を高く擡げる。オパールの宝石のような乳白色の角に薄緑の光が宿ると、ヒースの身体がふわりと空に浮いた。


「あ、ははは! 君、魔法が使えるの!?」


 浮いているのはヒースと仔竜だけで、落石がすぐ側を掠めて谷底へ落ちて行く。落石に混じって幾つかの赤い光が通り過ぎたのを見て、ヒースは眼を瞬いた。


「あれは、もしかして……」

「プィ……ピ」

「えっ、うわあああああ!?」


 安堵したのも束の間、仔竜の魔力では成人男性の体重を支えきれなかったようで、ヒースは再び空中に投げ出された。角に宿った光は消えて、仔竜はヒースの胸の上で苦しそうに蹲っている。


「キュウゥゥ」


 もう一度。

 仔竜の角に薄緑の光が宿って、落下が止まる。しかし、今度は数秒保たずに効果が切れた。魔力切れを起こしたのか、仔竜はキュッと眼を瞑ったまま、ヒースの胸にしがみ付いている。


 ぐんぐんと近づいて来る死の気配に、ヒースは身を捩って地上を見た。先程見た赤い光が、ヒースの予想通りならば、何かしら合図をしてくれると思ったのだ。そしてその予想は正しかった。


 渓谷を埋め尽くしていた針葉樹の森が蠢いて、まだらに雪が積もった雪原が現れた。赤い光は、アルファルドの魔狼の眼だろう。仔竜の魔法によって落下速度が緩んだ隙に、魔狼たちはヒースを追い越して先に地上に降り立っていた。


 魔狼たちは落ちるヒースを見上げながら、落下地点の樹々を退けている。主人のアルファルドの樹の魔力を借りているのだろう。このまま真っ直ぐ落ちれば、魔狼たちが助けてくれるかもしれない。しかし……。


「プー……キュゥ」


 もし失敗したら、この仔も無事では済まないだろう。もうこの仔を縛るものは何も無いのに、この仔だけなら飛べるのに。『絶対に諦めない!』とばかりに、ヒースの上着を掴んだまま離さない。きっと、最後まで離さない気なのだろう。竜の頑固さは、ヒースもよく知っている。

 ――だから、竜ってやつらは……。


「……ありがとう」


 逃すのは諦めて、ぎゅっと抱き締めると、仔竜はヒースの頬に頬を寄せた。自分の身体がクッションになれば、この仔は助かるだろうか?

 最悪の想像をしながら、ヒースは眼を瞑る。もう自分にできることはない。後は祈るだけだ。




 丸く散らばった魔狼たちが天に向かって吠えると、大地から絵本でしか見たことがないような太いつるが生えた。伸びた蔓は蜘蛛の巣のように絡まって、簡易ネットを作り出す。落ちるヒースをネットの中央に捉え、魔狼たちが端を咥えて衝撃に備えた。


 ネットにぶつかるその瞬間、仔竜が甲高い鳴き声を上げてヒースの身体が浮いた。ヒースが恐る恐る眼を開くと、ぽすんと背中がネットに着いた。

 ヒースは仰向けに寝転がって、呆然と青い空を見つめる。胸の上を仔竜がのすのすと歩いて、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「ピイ!」

「……うん」


 恐怖とも興奮ともつかない衝動がじわじわと身体を這う。生還したのだと、ようやく実感が湧いてきた。


「ああ、もう……死ぬかと思ったー! みんなありがとう〜!」


 無事を確かめるように、五匹の魔狼が代わる代わるヒースと仔竜の顔を見に来る。一番最後にやって来たオリオンをモフモフ撫で回して労うと、フンと鼻で笑われた気がする。主人のアルファルドに似て、やっぱり偉そうだ。


「さて、これからどうしよう?」


 落ちる間にだいぶ風に流されたようで、先程銀竜と対峙した雪山から、かなり離れた場所に着地したようだ。山の頂上付近を見上げても戦況は分からない。早朝から六時間かけて登った山を、今度はひとりで登り直すというのは現実的じゃない。

 銀竜はディーンたちに任せて、このまま谷底を歩いて白竜の巣へ向かうべきか。


 考え込むヒースの上着の胸元に、仔竜が突然頭を突っ込んだ。ヒースの顔を尻尾で叩きながらジタバタと動き、次に顔を出した時には、銀色の欠片を咥えていた。


「ピイ! ピュイ!」

「竜笛を使えって? ……でも」


 銀竜が今もなお痛みに苦しんでいるのなら、その痛みを取り除いてやれば、冷静に話し合いができるかもしれない。草木の生える場所、特に森の中なら、アルファルドの魔法が真価を発揮する。あの傷を治すなら、銀竜とアルファルドを地上にぶのが、最も効率が良い。


「……分かった。もう悩んでいる時間は無い。ここに来てもらおう! オリオン、君たちはアルを喚んでくれる?」


 魔狼たちが山の頂に向かって遠吠えするのを横目に見ながら、ヒースは竜笛の吹口に唇を寄せた。思い切り息を吹き込んでみたが、空気が抜けるだけで音は何も聞こえない。

 しかし、ヒースの肩に乗っていた仔竜がバランスを崩してオリオンの背中に落ちたところを見るに、竜にしか聞こえない音が鳴ったのだろう。


「来てくれ! 銀竜!」


 手の中でボロボロに砕けた竜笛を握りしめて、ヒースは空を見上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る