16 シルバームーン・クレイドル

 落ちる寸前、確かに目が合った。差し出された手を、ヒースは見たはずだ。しかしヒースはディーンの手を取らず仔竜を掴んで胸に抱え込み、暗雲が濃く垂れ込める谷底へと落ちていった。


「ヒース!!」


 落ちることを覚った瞬間、その美貌に浮かんだのは、諦めたような全て赦したような笑顔。本当に助けが必要な時は自分から『助けて』と言うでしょうとアルファルドは言ったが、ディーンにはそうは思えなかった。

 ――きっと、何も言わず、こんな風に笑顔で手を振るんだろう。残された者がどんな思いを抱えるかも知らずに。

 そう、確信した。


 なおも手を伸ばそうと、崖から身を乗り出したディーンをライルが引き戻す。眼前に落雷が突き刺さって、ディーンは眩しさにヒースの姿を見失った。


「おい落ち着けよ! アルの犬が追いかけた! ヒースは無事だ!」

「……悪い。もう、大丈夫だ」


 心配はあれど、アルファルドの狼たちが対処してくれたなら、自分にできることは無い。今戦力を割くのはヒースの献身を無に帰すに等しい。ここで銀竜を止めなければ、ヒースが助かったとしても命を狙われ続けるだろう。おそらく、白竜の巣への侵攻も始まった頃だ。


 ディーンは嵐の先を見据えて剣を握り直す。空気の薄さに加えて、銀竜が放つ濃い魔力嵐に曝され、心臓が破裂しそうな程激しく鼓動している。冷静になれと自身に言い聞かせて、ディーンは胸の前に掲げた剣に魔力を繋いだ。


「我が祖神。神域の守護者。天つ風と蒼き炎を纏いし戦神よ。我が剣に宿りて勝利を導け!」


 不安定な足場に根を張るように深く腰を落とし、魔力を帯びて重みを増した剣のつかを絞る。大気が震えて、空が悲鳴を上げる。雲を裂いて吹き下ろす風がディーンの剣に巻き付き、刃に薄緑の光が宿った。


「風よ! この鬱陶しい雷雲を吹っ飛ばせ!」


 腕ごと剣を持っていかれそうな暴風にディーンは歯を食いしばる。まるで、剣先が山に縛り付けられているかのように重い。足を踏ん張り、全身の筋肉を駆使して大きく剣を薙げば、山頂を削り取るように薄緑の突風が吹き抜けた。


 銀竜の雷の魔力に圧し勝って、周囲の雲を吹き飛ばすと、待望の陽光が顔を出す。明るい蒼空の下、見えた山頂には翼の付け根から血を流し続ける銀竜が蹲っていた。


 四本の足で山を挟み、蛇のように尾根を這う姿は、幼い頃に憧れた銀翼の勇姿には程遠い。胸の内を過ぎった小さな感傷を払拭するように、ディーンは吼えた。


「銀竜よ! ヒースはお前の仔のために何度も命を賭したぞ! これがその献身に対する返礼だというのなら、俺たちも相応の礼をさせてもらう!」


 額に輝く角の長さと太さから、数百年生きた竜だと推測できる。ヒースに竜笛を授けたということは、鱗を笛に加工できる可能性がある。だとしたら、この竜は人間の言葉を理解できるに違いない。


 しかし、痛みに悶え苦しむ銀竜が言葉を返すことは無かった。銀竜は後ろ足で立ち上がり、ずらりと並んだ牙を剥き出し全身の鱗をしゃらしゃらと鳴らして威嚇する。翼を大きく開いた竜の巨影が、雪山の頂を黒く塗りつぶしていった。


 睨み合うこと数秒。先に動いたのは銀竜だった。銀竜は長い首を擡げ獲物を定めると、黄金の角を振り乱して襲い掛かった。唸りを上げて振り下ろされた一撃が山を砕き、足場を失ったディーンを空に追い詰める。


 上空で身を翻したディーンは、噛み付かんと肉薄した銀竜の鼻先を踏み付けて更に高く飛び上がると、剣の柄頭で角の根本を思い切り殴打した。

 頭骨は竜の身体の中で最も硬い箇所である。人間が殴った程度では角や甲殻は傷つきもしないが、いつでも首を狙えるぞという牽制にはなっただろうか。

 怒りの咆哮を上げる銀竜から距離を取って着地すると、ディーンは殴った衝撃で痺れた手をぷらぷらと振りながら薄く笑った。




「ダメだな、ありゃあ。冷静にぶちキレあそばしてる」


 少し離れた所で見守っていたライルがぼやく。参戦しようにも、狭い足場で戦うディーンの邪魔になってはいけないと、雷避けぐらいしか手を貸せないのが歯痒い。


「愛が重いよね」


 落石を躱しながら面倒臭そうに応じるアルファルドを横目に、「お前にだけは言われたくないと思うぞ?」とライルは肩を竦めた。


「このままじゃ全部中途半端でクエスト失敗だ。何か良い策はあるか? 捻り出せなきゃ……銀竜を殺すことになるぜ?」


 ディーンが銀竜を制圧して竜騎士の絆を結び、命令するのが最善ではあるが、我を忘れた銀竜にはディーンの声が届いていない。竜への挑戦は、人と竜、互いの意志が確認できなければ、勝ったとしても意味を為さない。本来は時間をかけてお互いの実力を知り説得するものだが、そんな猶予は無い。


「……まずは大人しくさせなきゃ話にならない。傷を治そうにもを抜かないと、刺さったまま固まって飛べなくなってしまう。返し部分を斬り落として抜くしかない」


 アルファルドの視線の先には、銀竜の翼の付け根に貫通した竜撃槍の残骸があった。竜撃槍は城や街を襲う竜を殺すための兵器で、一度刺さったものを抜くことは想定していない。槍の先端はもりのように返しが付いていて、そのまま引っ張れば傷口を拡げて、刺さった時以上の痛みが襲うだろう。


「あの太さの鉄をぶった斬るってことか?」

「そういうこと。僕がやるって言いたいところだけど、僕は治療魔法に魔力を温存したい。なので……ディーンがやってくれるー!?」


 二人が相談する間も攻防を続けていたディーンが、振り返らずに軽く手を振って応じる。


「おっ? 聞こえたみたいだな。……んじゃあ、選手交代だな! 俺が銀竜の気を引く。ディーンは背後に回り込め!」

「了解だ」


 ディーンが大きく退いたのと同時に、ライルが前線に飛び出した。ディーンを追おうと翼を広げた銀竜の前に雷を落として牽制すると、指をくいくいと曲げて挑発する。


「次は俺と遊ぼうぜ! この際だ。俺とお前の雷、どっちがつええか、はっきりさせようや!」


 竜は気位が高い生き物だという。人に侮られることをよしとしない。言葉が理解できずとも、悪口や挑発は伝わるらしい。目論み通り、勝負に乗ってきた銀竜は、ライルを新たな敵と設定した。




 銀竜とライルの撃ち合いが始まった隙に、ディーンが崖の下から銀竜の背後に回り込む。斬り落とす箇所が目視できる場所に位置取ると、アルファルドに向かって手を振った。準備は整ったようだ。


「君がくれた御守り、使いたくなかったけど、出し惜しみしたら怒るよね?」


 アルファルドは呟き、胸元を探る。上着の中からドッグタグのネックレスを引っ張り出すと、チェーンに通したムーンストーンの指輪を握りしめた。今回の旅のために婚約者が作成した魔石の指輪で、解毒と眠りに作用する銀月の魔力が込められている。


「セラ……君の力を貸してくれ」


 指輪の宝石にくちづけると、アルファルドの身体は眩い銀の光に包まれた。この場にあるはずの無い銀月の魔力を察知して、銀竜がアルファルドに注視する。


「テメエの相手は俺だろうが!!」


 ライルは隙を見逃さず、銀竜の横面に雷を纏った蹴りを叩き込む。激昂した銀竜が至近距離から放った雷槍がライルの腕を掠めて、肉が焼け焦げる嫌な臭いが漂った。

 ぶすぶすと黒煙を上げる腕でなおも猛攻を続けるライルに、銀竜の注意が向かったその時。銀竜の背後に回ったディーンが飛び上がり、竜撃槍の先端に刃を振り下ろした。


 耳から脳に突き抜けるような金切り音を立てて激しい火花が散る。斬り落とした振動で傷口が拡がったのだろう、銀竜が凄まじい悲鳴を上げてのたうち回り、山々を揺るがす。銀竜が疲れ果てて、揺れが収まった頃合いを見計らって、アルファルドは魔力を解放した。


「夜闇に生まれし星海の狩人。三日月の揺籠を揺する母の御手。獣と狩人の守護者、月女神ルーネよ。その慈愛で荒れ狂う竜に、安寧の眠りを与え給え」


 子守唄のようにまろやかなアルファルドの誓願の声に、ムーンストーンが光を放つ。アルファルドの足元から百合に似た銀色の花が咲き乱れ、銀竜の身体に巻き付き、甘く濃厚な香りを振り撒いた。

 怒りに取り憑かれ、真紅に染まっていた銀竜の眼が元の琥珀色に戻り、ゆるゆると瞼が降りる。ぐらりと巨体が傾いで、土煙を上げながら銀竜は倒れ伏した。

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