15 ブラッディレッドの頂へ

 山の稜線に赤が滲んで、眠たげな冬の太陽が顔を出す。ゆっくりと億劫そうに山の向こうから這い出す光は斜面を下り、まだ大地にしがみ付く夜を追い立てる。

 空は雲ひとつ無い快晴だが、じっくりと日の出を眺める余裕は無い。血のように赤い朝陽を半身に受けながら、準騎士の一行は尾根筋を北へと歩んでいた。


 先頭を行くのは、アルファルドと相棒の魔狼オリオンである。山頂付近ではアルファルドの樹の魔法は使えないが、魔狼の力を借りて広範囲の様子を探ることができる。雪に埋もれたクレバスを避けるのに、彼以上の適任者は居ない。

 隊列の二番手にはヒースと仔竜。その後にディーンが続いて、魔法が使えないヒースをサポートする。そして、殿はライルが務めることになった。


 出発から五時間。目的の山の頂が見えた所で、アルファルドが休憩を宣言した。ここまでは何とか順調に来れたが、この先は定期的に休憩が取れるか分からない。これが最後の休憩となるかもしれない。


 騎士団は仔竜の死骸を持った準騎士一行の行方を探して、雪山周辺の空を監視している。上空に銀竜が出現すれば、騎士団は銀竜が獲物を見つけたと判断して、巣への攻撃を始めるだろう。ここから先、騎士団にも、銀竜にも見つからずにどれだけ巣に近付けるかが作戦の鍵となる。


 今のうちに腹ごしらえをしようと、ヒースが上着のポケットから携帯食の包みを取り出した途端、肩の上の仔竜が目を輝かせた。白竜は寒い場所の方が活動的になるようで、山に登ってからはヒースの懐を飛び出して肩の上に居座っている。

 携帯食は栄養価の高い数種類のドライフルーツとナッツと穀物を組み合わせたものである。ころんと掌に出して仔竜の鼻先に近付けると、仔竜は前脚で真っ赤なクランベリーを掴んだ。


「ピ?」


 これ、もらってもいい? ヒースの顔を覗き込み、首を傾げる仔竜の仕草がそう言っている気がして、微笑ましい気分になる。


「いいよ。何個でもどうぞ」

「キュゥ!」


 ヒースが二つ返事で了承すると、仔竜は顔より大きなクランベリーに嬉しそうに齧り付く。ご機嫌な仔竜を横目に見ながら、ヒースはしょっぱいナッツを口に放り込んだ。

 もうすぐお別れだというのに、仔竜のお嬢さんはおやつに夢中のようだ。なんだか裏切られた思いがしてしまう。


 ヒースが仔竜と戯れている側では、ディーンとライルがそわそわと落ち着かない様子で周囲を見回していた。山の天気は変わりやすいといえど、先刻まで雲一つ無かった青い空に、火山の噴煙のような黒い雲が湧き出していた。剣呑な北風が頬を撫でて、ディーンは空を見上げる。


「……雲の流れが早い。嫌な風だ」

「やっぱりそうか? 俺もさっきから背中がザワザワするんだ」


 ディーンとライルは、最悪の予感に自然と声を潜めた。少し先の岩場まで偵察に行っていたアルファルドが戻ってきたが、彼もまた腰のベルトに差した刀の柄頭から手を離さずに周囲を警戒している。オリオンも毛を逆立ててアルファルドの足元を行ったり来たりと、落ち着かない。


「嵐の前の静けさってやつかな? 動物も植物も息を潜めている。予定の場所に着く前に銀竜が来るかもしれない」


 言いながら、アルファルドは魔狼に預けていた弓矢を手に取った。ディーンとライルも各々得物を手に戦闘準備を始める。前方の山の頂は既に暗雲に呑まれ、山肌を撫でる風は冷たく重ったるい湿気を含んでいた。


「みんな待って! 僕らは戦うつもりで来たんじゃないでしょう? こっちが戦闘態勢をとっていたら、銀竜を誤解させてしまうよ」


 慌てたヒースが声を上げたが、目に見えて不穏な状況に声音が萎んだ。

 暗雲はまるで生き物のように雪の白を侵食し、一行の足元に寒気を伴って広がっていく。しんしんと骨に染み込むような怖気が足を這い上がり、これより対峙するのは人力の及ばぬ自然の猛威なのだと思い知らせる。


「もちろん。戦う気は無い。俺たちには無いが……」

「向こうはる気みたいだぞ!」


 ライルが先頭に飛び出し、魔力を纏った右の拳を突き出す。瞬間、暗雲が運んだ稲妻が、一行のすぐ傍の地面に突き刺さった。雷に焼かれた生臭いような酸っぱい臭いが鼻先を掠めて、込められた憎悪の深さを知る。一撃でも喰らえば、人間の貧弱な身体など臓腑が焼ける前に吹き飛ぶだろう。


 ヒースは稲光に驚いて暴れる仔竜を抱き締めると、暗雲の向こうに目を凝らした。雷鳴に紛れて、しゃらしゃらと連なる鈴の音のような音が近付いてくる。

 上空から吹き付ける暴風に山が身をよじり、大地が悲鳴を上げる。暗雲の中に燦然と光る黄金の剣を見たその時、アルファルドが叫んだ。


「耳を塞げ!」


 アルファルドは暗雲に背を向けてオリオンの頭を抱き込むようにして庇う。ディーンが咄嗟に風の結界を張って威力を緩和したが、身体の奥底まで穿つ竜の大咆哮の直撃に、一行は身を竦ませた。

 音の圧に脳が揺れる。魂まで揺れているかのように身体が痺れている。稲光に眩んだ視界が再び像を結ぶとそこには、銀色の天災が舞い降りていた。


 その額には、騎士の誇りのように天を突く黄金の一本角が在った。稲妻を纏う白銀の甲殻は鎧のように堅牢で、まるで巨大な騎士に見下ろされているかのようだ。


 ――ああ、まさに騎士の国シュセイルの、王家の紋章に相応しい姿だ。


 その威容を前に、ヒースは不思議と恐怖を感じなかった。

 雪山の貴婦人と呼ばれる白竜に対して、銀竜はその姿から“白銀の騎士竜”と呼ばれるのだ。だから、代々銀髪の王は銀竜に喩えられるのだと、幼い頃にディーンが言っていたのを今頃になって思い出したからかもしれない。


 しかし感傷に浸る暇は無い。ヒースは未だ痺れる足を叱咤し一行の先頭に移動すると、胸に抱いた仔竜を高く掲げた。


「銀竜! 貴方の娘をお返しします! どうか、僕たちの話を聞いてください! このままでは、貴方の家族が危険です!」


 迫り来る嵐に向かってヒースは声の限り訴えたが、断続的に落ちる雷に掻き消され、声が銀竜に届いたかは分からない。銀竜が人間の言葉を理解できるかどうかは賭けだったが、元気になった娘竜を無事に返せば、こちらの意図は伝わるだろう。これで、全て解決するはずだ。


「怒りを鎮めてください! この仔を巻き込む気ですか!?」


 平時の銀竜であれば、ヒースのその判断は正しかった。


「銀竜!! …………ッこれ、は?」


 荒れ狂う風に銀竜が翼をはためかせた時、ザッと水飛沫が飛んで来た。生臭い鉄錆の臭いに、最初に反応したのはアルファルドだった。


「駄目だ。こいつ、翼が破られている」

「あいつら! なんてことを……!!」


 怒りに震えるディーンが指し示した場所を見れば、銀翼の付け根に折れた竜撃槍が貫通し、今もドクドクと血が噴き出ていた。


「ああ、そんな……」


 目を覆いたくなる光景に、ヒースは呆然と呻いた。痛みに我を忘れた真紅の視線に注視されていることにも気付かずに。

 側に落ちた雷光に視界を遮られたその一瞬、銀竜の長い尾が鞭のようにしなり、一行の立つ尾根の足場を叩き壊した。


「ヒース!!」


 空に投げ出されたヒースに、ディーンが駆け寄り手を差し伸べたが、ヒースはその手を取ることができなかった。風の魔法が使えないヒースは、自力で足場を維持できない。降り注ぐ岩から仔竜を庇って胸に抱き込むと、深い谷底へと落ちていった。

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