閑話 魔性のブルーアイズ

 白濁したお湯の入ったバケツの中で、仔竜がぱしゃぱしゃと泳いでいる。白竜は雪山の貴婦人と呼ばれるだけあって、見た目にも気を使うようで、毎日長い時間をかけて丁寧に身繕いをするという。

 今もお湯の中に潜って細長い身体をくねらせ、何度もぐるぐると回りながら背中や翼の付け根まで綺麗に洗っている。細かな汚れが落ちてツヤを増した身体に満足すると、仔竜はようやくバケツの縁に顎を乗せた。


 温泉に浸かりながらぼーっと眺めていたヒースと目が合うと、仔竜はにゅるりとバケツから飛び出して、鼻先でバケツを突き水を換えろと要求する。翼を大きく開き、前足を淑やかに揃えて、首を高く伸ばしてちょっぴり偉そうなすまし顔に、ヒースは苦笑した。

 どうやら執事か何かだと思われているらしい。


「はいはい、お嬢様。今お取り替えしますよ〜」

「プイ」


 広い岩風呂を泳いで、温泉の湧き出し口付近から新しいお湯を汲んであげると、仔竜は嬉しそうに頭からお湯に突っ込んだ。


「竜も温泉好きなんだね」

「ピイ!」

「へえ、そうなんだ」

「ピイ! プイ、プー」

「ふふっ。うんうん。分かるよ。雪見風呂にはお酒が欲しいよねぇ」

「プー?」


 全く中身の無い適当な会話に、見張りをしているアルファルドがため息をつく。魔法が使えないヒースには、結界を張ることができないので、不測の事態に備えてアルファルドに付き合ってもらったのだ。

『いくら僕の肉体が美しいとはいえ、入浴中に敵に襲われたら真っ裸で戦うことになるけど、刺激が強過ぎると思わない?』という説得おどしが効いたようで、アルファルドにしては珍しく文句を言わずに付き合ってくれている。不満そうな態度はビシバシ感じるけれど。


「そいつが何言ってんのか分かってる? 適当に答えて、変な約束はするなよ?」


 人ならざるものとの会話には気を付けないと、知らないうちにとんでもない契約を結ばされたりするんだからと、アルファルドは呆れたように言う。

 魔物を従えているアルファルドなりに心配しているのは理解していたが、幼い頃から人にも人以外にも度々襲われてきたヒースには少しだけ鬱陶しく感じられた。


「なぁに? 僕がこの仔ばかり構うから妬いてるの? アルバートくん」

「…………は?」

「じ、冗談です。ごめんなさい。そのミミズが付いた岩を下ろしてもらっていいですか?」


 ヒースが細長くてうねうねしたものは特に嫌いだと知っていて、投げ込もうとしてくるのだからたまらない。アルファルドが渋々岩を捨てたので、ヒースはホッと胸を撫で下ろした。


「ていうか、アルバートくんて誰だよ?」

「ええ!? 君が宿帳に書いたんでしょう? 騎士団長が読み上げた時、ディーンが小声で『アルしか合ってねぇ』とか言うから笑いを堪えるの大変だったんだからね!」

「ああ、そういうことか。……仕方ないだろ。魔狼連れの騎士は珍しいから、兄さんと血縁を疑われたら身バレする」


 アルファルドは四人兄弟の末っ子で、三番目の兄はガレア島騎士団本部にある第五騎士団に所属する有名なエリート騎士である。白金色の髪に緑の瞳で顔立ちも似ていて、灰色の魔狼を相棒にしているので、アルファルドは極稀に兄と間違えられることがある。

 実際の二人を知る者には間違えようもないのだが、噂や断片的な情報だけを知る者は、その少ない情報から判断しなくてはならない。魔狼を連れた騎士から連想するのは、まだ無名の準騎士のアルファルドではなく、兄の方だ。


「そりゃあそうだけど、なんかもっと他に無かったの〜? 僕みたいにミドルネームにすれば……」

「嫌だ」


 ほんの一瞬、森が呼吸を止めた。食い気味で飛んできた否定の声はそれほど大きくはなかったが、不自然な間を通り抜ける音はどこまでも冷たくヒースの背中に突き刺さる。お湯に浸かっているはずなのに鳥肌が立って、ヒースは肩まで沈んだ。


 何かもっとアルファルドのことだと分かる良い案が無いかと視線を巡らせて、アルファルドの魔狼オリオンと目が合う。「閃いた!」とヒースは水面を叩いた。


「それなら今日から君はウルフブラック卿だ」

「ウルフでブラックは僕じゃなくてオリオンなんだが……」

「じゃあグリーンウッドにする? 癒し系みたいな名前でムカつく奴は木に吊るす騎士?」

「……吊るされたくなかったら早く出ろよヒヨコイエロー卿」


 もっとカッコいい名前にしてよ! という異議の声はドボンと岩を投げ入れられた水音に掻き消され、途中で悲鳴に変わった。



 ††



「今、悲鳴が聞こえなかったか?」

「ああ、どうせまたヒースが蛇に襲われたんだろう」


 野営地の地面に翼の紋様が描かれた巻物を広げながら、ディーンはことも無げに答えた。いつも何かとヒースを気にかけているディーンが、随分と冷淡に言うのでライルは首を傾げる。


「またって、そんなに何度もあるのか?」


 巻物が淡い緑の光を放ち、リボンが解けるように光の帯が空中に浮かび上がって緩慢な波形を描く。風の魔法を使った遠距離通信で、相手が受信すれば声に合わせて波形が激しく動く。今はまだ呼出中のようで、穏やかな波形を見つめながらディーンは頷いた。


「あいつ、ガキの頃から、どういうわけか蛇に異常に好かれるんだ。遠乗りに出かければ蛇に驚いた馬に逃げられたり、実家に帰ればベッドの上に蛇が落ちてきたり……何年か前には蛇の魔物に襲われたとか言ってたな」

「ほーう」


 それは好かれてるというよりは、呪われているの方が正しいのでは? と思ったが、ライルは曖昧な相槌に留めた。


「魔物が出た時に一緒に居たアルは、『蛇に憑き纏われてる』って言ってた」

「ふうん。蛇に憑き纏われる、ねぇ。アルがそう言うのなら、そうなんだろうが……」


 言いかけて途中で黙り込んでしまったライルに、業を煮やしたディーンが促す。


「なんだよ。途中で黙るな。言えよ」

「ああ……」


 今回の旅を始めるにあたり、約一年ぶりにヒースと再会したライルは、彼の今の姿を見て衝撃を受けた。――絶世の美貌。それ以外に表現する言葉が思い浮かばない。

 学生時代にも何度かヒースと顔を合わせたことがあったが、その時には整った顔だ、としか思わなかった。だが今はどうだ?


 待ち合わせをした場末の食堂が、太陽神の神殿に思えた。

 単純に顔の造形が美しいということなら、従兄弟のアルファルドだって目の覚めるような美男子だ。だがヒースのそれは、人の域を逸脱している。


 陽光に輝く金髪も、クレンネル家特有の深い青の宝石のような瞳も、透明感のある陶器のような白い肌も、全てが黄金比。最も美しき神として創造された太陽神がそこに顕現していた。

 彼の青い瞳の視界に入った途端、ライルは今までの人生で感じたことの無い畏れに打ちのめされたのだ。


 ディーンとアルファルドが普通に接し、ヒースの目を見て会話していることが、ライルには未だに信じられない。彼らと何が違うのかと考えれば、やはりそれはライルの身体に流れる魔族の血だろうか。


 清く美しいものに強く惹かれるのは魔族の血ゆえか。自分の中にも、美しいものを踏み躙りたい、負の感情を貪りたいという魔族らしい歪んだ欲望が在るのかもしれない。

 だがそれは、ライルが不老不死の魔族ではなく、有限の命の人として生きることを選んだ時に切り捨てた欲望だ。

 ――切り捨てた、はずなのに。

 あの瞳に見つかってしまった。


 魔法が使えないから無害だなんて、誰が言ったのか。

 あの深い青の瞳に見据えられて同じことが言えるのなら、その心はきっと一片の闇も無く澄み切っているか、恐怖を感じない程に壊れているかのどちらかだろう。


「俺に言えるのは……慢心せずに、蛇には気を付けろってことだけだ。蛇は闇の女神の使いだからな。ほんの僅かな隙間から、誰の心にも忍び込んでくる」


 ライルがやっとの思いで口にした警告を、ディーンは笑い飛ばすことなく「分かった」と静かに受け止めた。

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