第7話 藤田嗣治

藤田嗣治も似たような人間。

 藤田嗣治も心の中で日本と日本人を憎み嫌っていた証拠がある。

 藤田嗣治は戦争画を多く描いている。何年か前、東京国立近代美術館でその多くが展示され筆者も観に行った。

 その中の一点に『ハルハ河畔の戦闘』と言うのがある。ノモンハン事件を扱った作品。140cm×448cmの大作。真っ青な空を背景にソ連の戦車によじ登り、銃剣を突き立てている四人の日本兵の絵。日本の軍人はあの絵を気に入ったらしい。

 しかしあの絵には別バージョンがあった。

 ごく一部の関係者しか観ていないもの。すさまじい絵だったらしい。藤田が日本兵をサディスティックに弄(もてあそ)んでいるような絵だったらしい。丁度猫が鼠を弄ぶように。その絵を描いている時の藤田は全く別人の目つきをしていた筈。

 なぜ藤田は日本人でありながらそんな絵が描けたのか?その絵を描いた時の藤田は55歳。藤田がフランスに渡ったのは26歳の時。日本とフランスで半分づつの人生を生きた日本人だった。三人のフランス人女性を妻とし、フランスでの名声も経験した人間。

 つまりその絵を描いた時の藤田嗣治は日本の味とフランスの味の両方を知っていた人間。

 そして藤田の心は必然的にフランスの方に傾いて行ったという訳。

 フランスを愛すれば、日本と日本人を憎み嫌うのは自然の成り行き。

 藤田嗣治は最終的にフランスに帰化し、カトリックの洗礼も受けた。

 藤田嗣治がフランスでカトリックの洗礼を受けるときの古い映像がある。教会に到着し、車を降りる藤田の左手に小口を金箔で装飾された分厚い本が握られている。ミサの最中藤田がその本を読んでいる場面もある。恐らくあの本はフランス語の聖書と思はれる。

 藤田は日本語の聖書も持っていた。パリで入手したと思はれる日付けと藤田の署名入りの大型の新約聖書、毎日新聞社・東京本社そばの東京国立近代美術館2階アート・ライブラリ-で誰でも借り出して閲覧することができる。


 藤田の聖書の情報を下に記す。

 新約聖書  

 昭和32年12月10日初版発行

 訳者 フェデリコ・バルバロ

 発行所 ドン・ボスコ社


 永井荷風と藤田嗣治が接触した可能性のある場所が東京銀座にある。東京銀座『教文館』には1階と地下に『富士アイス』と言うレストランがあった。永井荷風の日記『断腸亭日乗』には『富士アイス』の名が数え切れない程登場する。

 当時日本に一時帰国中の藤田は教文館隣の聖書館1階にあった「ブラジル・コーヒ-宣伝室」に『大地』と言う巨大な壁画を完成させている。非常に評価の高い作品。

 当時の藤田の日記を見ると『富士アイス』の名が3回出てくる。

 藤田はこの壁画をちょうど1か月360時間と言う短時間で完成させた。つまり連日12時間働いたと言うことになる。助手に3人の日本人画家がいた。東郷青児、鶴田宏、海老原喜之助。彼等は当然毎日のように、時には日に何回も隣接した『富士アイス』を利用したと考えられる。食事、休憩、作業の打ち合わせ等・等・等。

 『富士アイス』は舌の肥えたあの永井荷風が頻繁に利用したレストラン。

 当時の藤田の日記を見ると、作業中の藤田を妻のマドレ-ヌがしばしば訪問したよう。マドレ-ヌが来れば作業の手を止め助手達と隣の『富士アイス』で飲食をしたかも。藤田達がフランス語で談笑しているすぐ傍のテ-ブルで永井荷風が一人黙々とナイフとフォ-クを動かしていたとしても不思議ではない。

 壁画制作中の藤田嗣治と永井荷風が接触した可能性は否定できない。どなたか藤田嗣治と永井荷風が接触した可能性についてご存知の方がいたら筆者にお知らせ下さい。お願いします。

 藤田は聖書館近く銀座六丁目角にあった『コロンバン』2階の喫茶室にも6点の天井壁画を制作している。筆者の手元に一冊の古い写真集がある。当時銀座四丁目にあった「朝日ソノラマ」の出版した写真集で『東京モダン 1930~1940 師岡広治写真集』と言うもの。その中に雪の銀座六丁目コロンバン2階の窓越しに藤田の天井壁画の写っている写真がある。その写真に写り込んでいるのは6点の天井壁画の内の1点『母と娘』と題する作品の左下の部分。この絵の中の女性は当時フランスに一時帰国中の妻マドレ-ヌを髣髴とさせるものと言われている。


 戦後『富士アイス』は山手線有楽町駅日比谷口そばにオ-プンした。永井荷風はその店にもよく出没したらしい。近くにはスバル座と言う映画館があった。このスバル座もつい最近閉館した。


 もし、エディット・ピアフの歌うシャンソンを聴いて涙を流し、美空ひばりの歌う『古賀メロディー』を聴いて涙を流す日本人がいたとすれば、その人の心の中にはフランス語とフランス文化、日本語と日本文化が同居していたと言うことが出来る。




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