第6話 フランスかぶれの巻 永井荷風と藤田嗣治

この項目を書き始める前に、聖書中の一つの言葉をここに記さなければならない。

 新約聖書マタイによる福音書6章24節にあるイエス・キリストの言葉。『だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。』日本聖書協会・口語訳聖書


 昔の聖書時代、奴隷が二人の主人に仕えることがあった。一人の主人に専心的に仕えることは出来ても、二人の主人の性格とか要求するものが著しく異なる場合そうするのは不可能に近かった。

 同様に神と富とに奴隷として専心的に仕えることは不可能であるという意味。


 中国の『史記』にも似た様な言葉がある。

 『忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫(じふ)を更(か)えず』。真心をこめて仕える臣下は決して主人を変えず、貞節を守る女性は二人の夫に仕えるようなことはしないと言う意味。


 日本にも似た様な諺がある。『二足の草鞋を履く』と言うのがそれ。普通では両立しえないような二つの職業を同一人が兼ねることを云うとある。江戸時代、博徒が十手を預かり、同じ博徒を取り締まる捕吏を兼ねていたことから生まれた諺とある。

 映画『用心棒』は二組のばくち打ちの喧嘩に三船敏郎の用心棒が絡むのがスト-リ-。河津清三郎と山茶花究と言う古い二人の役者がばくち打ちを演じている。


1 聖書中のイエス・キリストの言葉 2 中国の史記 3 日本の諺などは,全く異質の言語とその言語を中核とする文化にも当てはめることが出来る。


 具体的に言うと、日本語とその日本語を中核とする日本文化、フランス語とそのフランス語を中核とするフランス文化。これ等二つの全く異質の言語と文化にもピタリとあてはまる。

 その二つを味わったのが永井荷風と藤田嗣治。


 彼等二人がどう言う人生を生き、どう言う最期を迎えたのか考えていきたい。

 二人共似た様な人生を生き、似た様な最期を迎えた。


 永井荷風の人生を筆者は「ギリシャ悲劇的」人生と考えている。筆者は「ギリシャ悲劇」など読んだことも無い。しかしこの言葉は永井荷風の人生にピッタリ当てはまる様な気がするので使わせて頂く。

 永井荷風はフランス語とフランス文化が好きだった。フランス語とフランス文化を愛した永井荷風が日本語と日本文化を同時に愛することは不可能。両者は全く異質のもの。イエス・キリストは『だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。………』と述べている。

 永井荷風は心の中で日本と日本人を憎み嫌っていた筈。日本語とは日本文化の中核にあるもの。永井荷風は心の中で憎み嫌っていたであろう日本文化の中核にある日本語で小説を書き、その日本語で日記『断腸亭日乗』を一日も欠かさず最期の瞬間迄書き続けた。


 それが永井荷風の人生。永井荷風とは日本と日本人を憎み嫌った日本人だった。その憎み嫌った日本文化の中核にある日本語で文章を書くのが永井荷風の天職だったと言う訳。永井荷風がいくらフランス語とフランス文化が好きでも、フランス語で小説を書く事など所詮無理な話。日本語は永井荷風が死ぬ瞬間迄付き纏った。


 永井荷風が孤独死したすぐ傍らに森鴎外の史伝『渋江抽斉』が開かれたまま置いてあったそうだ。

 人間にとって母語とはそう言うもの。

 永井荷風は戦時中フランス語の聖書を読んでいたことが日記に記されている。その聖書も1945(昭和20)年3月10日あの東京大空襲の夜焼失したものと思われる。

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