第72話 時間切れ

「はぁ⁉ 何で?」

 嗣葉が四階の廊下で大声を出した。

「ダメだ、もう時間だから一階で着替えろ!」

「一階に着替えるとこなんか無いじゃん!」

「トイレ行け、トイレ! お前らが遅れて来たんだろ? もうセキュリティー入れるから帰れ!」

 作業服姿の用務担当の若い男は迷惑そうに俺たちを眺め、「ガキがイキってるんじゃねーぞ!」と呟きながら戸締りの確認をしている。

「ウーッ!」

 メイド服姿で肩を震わせている嗣葉は納得が行かないようで怒りを充填中、だけど目の前には淡々と仕事をこなす社会人が居て取り付く島もないのは一目瞭然。俺は嗣葉に「早くしないと一階も閉められっぞ!」と耳元で囁き、彼女の手を引いた。

「何なのアイツ! 疲れ切った顔しちゃってさ! マジムカつくんだけど!」

 階段を下りながら嗣葉が後ろを振り返って大きな声を出す。

「しょうがないだろ? 閉めるのがあの人の仕事なんだし」

「だからって、なんであんな態度なわけ? 嫌だなぁ、私、絶対あんな大人にならないからっ!」

 嗣葉は一階に下りるまでブツブツと怒りを吐き続けた。

「じゃ、ちょっと待っててね?」

 嗣葉は一階の玄関付近にある電気の消された女子トイレの扉に手を掛けると眉間に皺を寄せて俺を睨みつける。

「な、何だよ?」

「鍵掛かってるっ! バカなの? この学校!」

 段々嗣葉の怒りゲージがMAXに近づき、俺は慌てて笑顔を作って彼女をなだめた。

「帰り道の近くに公園あったろ? あそこのトイレで着替えたら?」

「え~っ!」

 あからさまに嫌な顔をする嗣葉は肩を落としてうな垂れた。

「あれ? 嗣っ、まだメイド服着てたの?」

 制服に着替えた木下が玄関で靴を履き替えながら言った。

「はぁ⁉ あずの裏切り者っ! なんで着替えに誘ってくれなかったのよ?」

「だって皆と写真撮りまくってたでしょ? だから私、嗣はそのままの恰好で帰るのかなーって思っちゃったし」

「こんな格好で帰る訳無いじゃん!」

「いいじゃない、どうせ自転車通学なんだし。途中で見られても『変な奴だなー』って思った時には通り過ぎてるからたいして分かんないよ」

「はぁ⁉ 他人事ひとごとだと思ってーっ!」

 嗣葉はつま先立ちになって木下を威嚇する。

「じゃあね? 嗣! また来週」

 木下は後ろ手に手を振ってあっという間に逃走した。

 おいおい、お前ら親友じゃ無かったのかよ? 煽っておいて逃走だなんて嗣葉の取説上最悪の行為だぞ?

「じゃ、メイドさん、帰ろうぜ!」

 だけど俺は今のやり取りがちょっと面白くて嗣葉を茶化してしまった。

 靴箱に上履きを突っ込みながら後ろに立つ嗣葉を一瞥すると、彼女は恐ろしいジト目で俺を睨み付けていて、背後に黒いオーラが溢れ出しているような佇まいに背筋が凍り付く感覚を覚えた。

「悠がメイドになればいいじゃん!」

「ははは……、なに訳の分からないことを……」

「公園で着替えたら絶対に悠に着させるからっ!」

 あ……この目、本気なやつだ……。

 俺は嗣葉から視線を逸らして「腹減ったから帰りに何か食ってくか?」と話を脱線させる。

「悠がメイド姿でお店に入りたいって言うなら付き合ってあげてもいいけど!」

 つ、嗣葉さん? それってもう八つ当たりの域に入ってるよね?

 どーすんだよ? この人、マジで暴走したら手に負えないから俺も逃げっかな……?

 俺は何とか嗣葉をなだめようとぎこちない笑顔を作って駐輪場へ向かった。


 ◇    ◇    ◇


「無理無理無理っ! 汚すぎて無理っ! こんな所で着替えらんないよ!」

 メイド姿の嗣葉が公園の公衆トイレから飛び出して来て喚く。

「もう諦めようぜ嗣葉、暗いからそのまま帰っても分からないって!」

 むくれた顔を向ける嗣葉はちょっと可愛くて、俺はもっと怒らせたい衝動に駆られてしまいそうになる。だけど、そんな事をしたらまた和解するまでにどれだけの時間を要するか分からないから止めとくが……。

 顎に皺を寄せ、怒りを貯めた嗣葉は俺にエネルギーを解放しそうなほど体を震わせたが、空気が抜けるようにダラッと肩を落としてうな垂れた。

「悠、お腹空いた……」

 口を尖らせて俺を見上げる嗣葉はジッと俺を見つめて回答を待っている。

「何が食べたい? 今日は奢ってやるよ、嗣葉は頑張ってたし」

「ほんと⁉ じゃ、とんかつ!」

 目をキラキラさせ、グイッと体を寄せる嗣葉の勢いに、俺は後ずさった。

ちょっ! 近いからっ! 興奮すんな嗣葉。

「と、とんかつなんてこの辺りにあったっけ?」

「あるじゃん! 国道沿いに。毎日通り過ぎてるし!」

 い、いや……知ってるけど、あの店って高いよね……? 他にいい店無かったっけ……。

「ありがと、悠! なんか元気出て来たしっ!」

 イシシと歯を食いしばって笑う嗣葉の可愛らしさに、俺はもう何でも食えよ! と思ってしまった。

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